|
月〜金曜日 18時54分〜19時00分 |
|
上野市 |
伊賀上野と言えば誰しも俳聖・松尾芭蕉と伊賀忍者を思い浮かべる。江戸時代には伊賀上野城の城下町として栄え、荒木又右衛門の鍵屋ノ辻の伊賀越仇討も有名。こうしたさまざまな歴史に彩られた城下町・上野市の芭蕉の遺跡や城跡、伝統の伊賀焼の窯元などを訪ねた。 |
|
|
||||
|
||||
|
||||
生家の裏庭にある釣月軒(ちょうげつけん)は、芭蕉が処女句集「貝おほひ」を執筆した書斎であり、伊賀上野に帰省した折に旅の疲れを癒しながら起居した庵でもある。 |
||||
(写真は 「貝おほひ」(複製)芭蕉翁記念館) |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|
||||
母が故郷で没したのと訃報を受け取り、貞享元年(1684)母の墓参をかねて故郷・伊賀上野への旅に発った。後にこの旅をまとめたのが「野ざらし紀行」であり、その後、芭蕉は旅を続け「笈の小文」「更科紀行」そして漂白の詩人・芭蕉の集大成とも言える「奥の細道」を著している 上野市に残る蓑虫(みのむし)庵は門人の服部土芳(どほう)が結んだ庵で、庭には「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句碑が立つ。貞享5年(1688)の庵開きに祝いとして贈った芭蕉の句「みの虫の 音を聞きにこよ 草の庵」にちなんで「蓑虫庵」と名づけられた。無名庵、西麓庵、東麓庵、瓢竹(ひょうちく)庵とともに芭蕉翁五庵のひとつで、現存するのは蓑虫庵だけ。 |
||||
(写真は 蓑虫庵) |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|
||||
伊賀上野城二の丸の丘に昭和17年(1942)建てられた俳聖殿は、芭蕉の旅姿を形どった建物である。最上部の桧皮葺きの丸い屋根は旅笠、1階の八角形の屋根は袈裟、建物を支える柱は行脚する芭蕉の杖を現していると言う。堂内には伊賀焼の芭蕉像が安置されている。 |
||||
(写真は いびき、貝おほひ、古里(左から)) |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|
||||
伊賀焼の茶陶は一見グロテスクに見える個性的なものだが、そこにバランスの崩れた美しさがあり、これが「わび」「さび」を好む茶人らに好まれたのであろう。また、伊賀地方に産する粘土を使って焼く伊賀焼は、窯の中で焼く時の降灰によってできるビードロの夢幻の美しさ、激しいコゲや灰かづき、火われ、火ぶくれ、火色など、作陶家の心を反映して際限のない変化を見せる。 |
||||
(写真は 作古庵) |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|
||||
上野城南西の入口にある旧崇廣堂(すうこうどう)は、文政4年(1821)名君と崇められた津藩主・藤堂高兌(たかさわ)が、伊賀、大和、山城の藩士の子弟の教育のために津の藩校・有造館の支館として建てた藩校。「崇廣」は中国の書経にある文言から取ったもので、扁額の文字は高兌が請うて米沢藩主・上杉治憲(鷹山)の筆になる。建学精神のシンボルとして大切にされ、2名の額守が配されていたほどだった。 |
||||
(写真は 旧崇廣堂) |
||||
|
||||
|
◆歴史街道とは
|
|||
歴史街道計画では、これらのルートを舞台に ◆歴史街道テレフォンガイド
|
|||
◆歴史街道倶楽部のご紹介 歴史街道推進協議会
|