月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・堀川周辺の通り散策 

 平安京遷都後、京都の町は東西南北に碁盤の目状に道路が整備された。それぞれの通りの名称には京の歴史や伝統産業、職人町に因んだものが多い。今回は堀川周辺の通りを散策、その歴史や通りに因む話題を探ってみた。 


 
お西さんのお膝元  放送 2月23日(月)
 京都の人びとに「お西さん」と呼ばれ、親しまれている西本願寺の伽藍は堀川通の西側にあるが、総門は通りをはさんだ東側にある。その総門から東に延びる道路を正面通と呼ぶ。どこの正面に向かう通りなのかといぶかる人も多いのではないだろうか。かつて東山の方広寺にあった大仏殿の正面にいたる道だったのがその名の由来。
 方広寺の大仏殿は豊臣秀吉の絶頂期の文禄4年(1595)に建立され、奈良・東大寺の大仏殿の3倍と言われた。完成の翌年に大地震で倒壊するなど、倒壊や焼失を4回も繰り返したが、その都度再建された。だが、昭和48年(1973)の火災で焼失後は再建されなかった。

正面通

(写真は 正面通)

川勝法衣店

 正面通は方広寺元大仏殿前の大和大路通から西へ伸び、千本通の一筋東の児童公園で行き止まりとなっている約1.6km通り。その途中にある東本願寺、渉成園(枳殻邸)、西本願寺でそれぞれ分断されており、通りとして連続していない珍しい通りでもあある。
 浄土真宗本願寺派の本山・西本願寺と真宗大谷派の本山・東本願寺の間の正面通は、西本願寺の門前町で本山の前にあることに誇りを持ち「御前通」とも呼んでいる。仏壇、仏具店、香店や僧侶がまとう法衣(ほうえ)の店がずらりと軒を並べ、軒先の看板のにぎやかさに初めて訪れた人は圧倒される。

(写真は 川勝法衣店)

 仏教が伝来して以来、時を経るにつれて多くの宗派に別れた。法衣はそれぞれの宗派が独自性をアピールするとともに、仏の教えを視覚に訴えるためにだんだんと豪華なものになってきたと言う。今では織や文様に趣向と豪華さを出す手法が取られ、1着数百万円から1千万円近い法衣もあるそうだ。
 正面通の店の中には、西本願寺がこの地に移転してきた豊臣時代の天正19年(1591)から店を構えていた老舗もある。これら仏壇、仏具、法衣店のほかに本山への参詣者を見込んだ旅館、料理店なども多い。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、戦功の印として持ち帰った敵兵の耳や鼻を供養した耳塚が、方広寺前の正面通にある。

衲衣七条架裟

(写真は 衲衣七条架裟)


 
小川通  放送 2月24日(火)
 堀川通の東側にある小川通は、古くは堀川に流れ込む小川を「こかわ」と呼んだところから「こかわどおり」と江戸時代中ごろまで呼ばれていたが、今は「おがわどおり」と呼んでいる。この通りは天正18年(1590)豊臣秀吉の都市改造によって生まれた道路で、北は紫明通から南は錦小路までの約3.7km。
 豊臣秀吉が千利休の子・少庵に小川通寺之内上ルに土地を与え千家再興を許したのが、現在の表千家不審庵と裏千家今日庵まで続いており、家元の両家が建ち並ぶ小川通は日本きっての茶道家元通と言われている。

不審庵

(写真は 不審庵)

今日庵

 千利休は1階初層だけが完成したまま放置されていた大徳寺三門を現在の形に完成させ、その落慶を祝って楼上に釈迦如来座像や羅漢像を安置した。同時に頭巾、雪駄ばき姿の利休木像を置いたことが豊臣秀吉の怒りに触れ、切腹を命じられ千家の茶道は絶えていた。
 茶室・不審庵は少庵が千家再興に際し、利休の大坂屋敷の茶室を復元した。現在の不審庵は明治39年(1906)に焼失後、大正2年(1913)に再建されたもの。茶室・今日庵は利久の孫・宗旦が正保5年(1648)に開いたもので、利休の境地を追求した空間を表していると言われている。

(写真は 今日庵)

 茶道資料館内に再現されている名席・又隠(ゆういん)は、宗旦が今日庵より5年前の正保元年(1643)に作った。一般には宗旦が隠居して今日庵を作り、その後、さらに茶室を作ったので、また隠居の茶室を作ったことから又隠の茶室名がつけられたと言われていたが、文献資料から又隠の方が先に作られたとの説がある。
 裏千家センターの茶道資料館では歴代家元が収集した文献や茶道具の品々を目にすることができる。年4回の企画展も開かれており、茶碗、花入、掛物などの茶道具の名品や歴史的な文書が展示される。11代宗室が、歴代の家元が収集していた茶道関係文献を「今日庵文庫」として整理保存した。その後も代々の家元が文献類の収集を続け、それら約5万冊が収蔵されており、一般公開され閲覧することができる。

茶室又隠写

(写真は 茶室又隠写)


 
堀川と友禅  放送 2月25日(水)
 水の流れを見ることはほとんどできないが、かつてはアユも泳いでいた幅12mの堀川の川筋であったことが約7.9kmある堀川通の名の由来。「堀川第一橋」と欄干に掘り込まれている中立売橋や一条戻り橋、西本願寺前の堀割の風景がわずかに川の風景を今に伝えている。
 平安京造営後は堀川が物資を運ぶ水運にも利用された。堀川沿いの友禅染の水洗作業に使われた水が、堀川に流され川が藍色や紅色に染まったと言う。最盛期の友禅染勢いにはほど遠いが、堀川通周辺には今も染色業者が何軒もあり、伝統の友禅染の技を伝える職人が活躍している。

堀川

(写真は 堀川)

西村工芸染色

 京都を代表する織物が西陣織であれば、京の着物の染めを代表するのが京友禅。
西陣織は平安遷都後、朝廷が京に織部司(おりべのつかさ)を置き高級織物の生産を管理し、職人たちも現在の西陣周辺に集まり織部町を形成して盛んになった。
 江戸時代の元禄年間(1688〜1704)に京で、華やかな草花の絵を描いた扇子が流行した。京の祇園に住んでいた扇面絵師の宮崎友禅斎が、模様染の技法を応用して自由な表現と豊かな色彩を着物に取り入れたのが友禅染の始まりとされている。

(写真は 西村工芸染色)

 友禅染は型紙を用いて同じ模様の染めを大量に作る型友禅と一品ずつ染めあげていく手描友禅がある。京友禅も西陣織と同じように、それぞれの工程を専門の職人が分業で担当して作り上げる。その工程は図案、下絵、糸目糊置き、色挿し、糊伏せ、地染め、洗いなど十数工程にのぼる。これらの工程を職人が自分の持てる技を出し切って仕上げ、次の職人に託す。それぞれの職人の技の集大成が友禅染で「着る芸術品」と言われる由縁である。
 小川通の築70年の町家を改修して友禅染の体験工房を設け、町の活性化を図っているのが「丸益西村屋」の西村良雄さん。初心者でも安心して友禅染のハンカチやふろしきなどが染めあげられるよう親切に指導してくれる。同じ建物内には友禅染を利用した和装小物などのショップ「繭」もある。

京友禅体験工房丸益西村屋

(写真は 京友禅体験工房丸益西村屋)


 
新町通  放送 2月26日(木)
 新町通は堀川通と烏丸通のちょうど中間あたりを南北に走る全長約9kmの通り。北は上賀茂橋西詰の玄以通から南は久世橋通までを言い、豊臣時代の天正年間以前は町尻小路と呼ばれていた。
 都が京に遷った平安遷都以来、京の町の発展とともにさまざまな業種の商家がこの新町通に軒を連ね、多くの豪商や分限者を生んでいる。その代表格は徳川家康と深い関わりを持った安土桃山時代の豪商・茶屋四郎次郎で、その屋敷跡が新町通にある。
また、三越百貨店の創業者で三井財閥の創始者でもある三井高利もこの通りに両替商を開いている。鎌倉時代前期の歌人・藤原定家はその日記「明月記」に「商売充満し、海内の財貨はただそのところにあり」と新町通の裕福な商人の様子を記している。

百千足館・外観

(写真は 百千足館・外観)

百千足館・内部

 江戸時代の記録からさまざまな商売が新町通で営まれていた様子がうかがえる。
その主なものとあげると飾屋、乗り物屋、絵筆・眉作屋、からかさ・提灯屋、家具屋・錫屋、屏風縁屋、桐箱・長持屋、素麺屋、荒物屋など、ありとあらゆる業種が並んでいたようだ。
 そうした業種の中で新町通の東にある室町通と並んで京呉服など繊維製品の卸問屋が多い。これらの店舗は紅殻格子や虫籠窓(むしこまど)のある伝統的な京町家のたたずまいを今日に伝え、落ち着いた京情緒を醸し出している。また、御池通から南へ向かい仏光寺通まの新町通には祇園祭の山鉾を出す町があり、独特の雰囲気が感じられる。

(写真は 百千足館・内部)

 京情緒を醸し出す京町家が並ぶ京都の町並みにも時代の波が押し寄せ、古い町家が壊されて商業ビルやマンションに建て替えられている。
 こうした中であえて木造の町家を新築し、細部まで町家の復元に徹した「百千足館(ももちたるかん)」が、平成5年(1993)にオープンした。百千足館は解体された古い家屋の柱や梁、建具を使い、歴史の重みと木の温もりを大切にした。石畳の路地に沿って歩を進め、内部に入ると京の工芸品のバッグ、ちりめん小物、のれんなどを販売する「京町家小路」。2階の能舞台付の部屋は能や邦楽、落語などの公演や婚礼、宴の場として利用される。

能舞台

(写真は 能舞台)


 
岩上通  放送 2月27日(金)
 堀川通のすぐ西の岩上通は岩上宮中山神社がその名の由来。天正18年(1590)豊臣秀吉の都市改造の時にできた通りのようで、北は御池通から南は塩小路まで約1.9km。以前は北は元誓願寺通まで伸びていたが、徳川家康が慶長7年(1602)二条城を築城する時に北は丸太町通以南、南は押小路通以北、東は堀川通以西を二条城の城地とし、この区域に住んでいる町人に移転を命じた。
 このため岩上通の町人たちは京の南の方へ移転し、この区域内の岩上通は消滅した。
江戸時代のこの通りには組糸や絹糸を商う業者が多く、西陣織の機織の人びとも多く住んでいた。

岩上宮中山神社

(写真は 岩上宮中山神社)

粟嶋堂 宗徳寺

 通りの名の由来となった岩上宮中山神社は平安京鎮護のため、延暦13年(794)桓武天皇の勅命で創建された。二条城築城の際、現在地に移転させられたが創建時の場所は定かでない。江戸時代には「乳汁漏出」の絵馬が数多く掲げられ、母乳の神様、子育ての神社として女性の信仰を集めていた。
 この神社には京の女性はもとより、近在からも子育てや母乳の出を願う女性たちの参詣が続き、この通りがこれらの女性たちの参詣道となった。こうした女性たちの祈りを込めた姿から、誰が言うともなしに岩上通の名がついたようである。

(写真は 粟嶋堂 宗徳寺)

 岩上通を南へ下り、通りの南端でJR線に近い粟嶋堂宗徳寺の粟嶋明神は「女人一生の守り神」とされている。良縁、子宝、安産、婦人病などの霊験があらたかで、これまた女性の信仰を集めてきた。江戸時代中期の俳人で画家の与謝蕪村が、娘の病気平癒祈願のため宗徳寺へ参詣した時、春雨に濡れながら裸足でお百度参りをしている熱心な婦人の姿を目にして詠んだのが「粟島へ はだしまいりや 春の雨」。この句碑が境内に立っており、当時の粟嶋堂宗徳寺の信仰の様子をうかがわせる。
 粟嶋明神は戦国時代の宝徳年間(1449〜52)に紀伊国・加太の淡島神社から淡島神を勧請して祀ったのが始まりを伝えれている。

与謝蕪村句碑

(写真は 与謝蕪村句碑)


◇あ    し◇
西本願寺JR京都駅下車徒歩15分。 
東本願寺JR京都駅下車徒歩10分。 
表千家不審庵、裏千家今日庵、
茶道資料館、今日庵文庫
京都市バス堀川寺ノ内下車徒歩3分。
又は堀川今出川下車徒歩10分。
丸益西村屋地下鉄烏丸線烏丸御池駅下車徒歩7分。
地下鉄東西線二条城前駅下車徒歩5分。 
百千足館地下鉄烏丸線四条駅、
阪急電鉄京都線阪急四条駅下車それぞれ徒歩5分。
岩上宮・中山神社地下鉄東西線二条城前駅、
阪急電鉄京都線阪急大宮駅下車徒歩それぞれ10分。
粟嶋堂宗徳寺JR京都駅徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
京都市観光協会075−752−0225 
川勝法衣店075−371−0367 
裏千家今日庵・茶道資料館075−431−3111 
丸益西村屋075−211−3273 
百千足館075−532−3200 
粟嶋堂宗徳寺075−371−2332 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

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