月〜金曜日 18時54分〜19時00分


田辺市 

  紀伊半島の南部に位置する田辺市は、南紀州の経済の中心地として発展したきた。
平安時代から盛んになった熊野詣の熊野街道は、田辺で紀伊半島の山間部を通る中辺路と海岸部を通る大辺路で分岐し、朝廷の貴人から庶民までの熊野詣の巡礼者でにぎわった。リアス式海岸の美しい田辺湾には景勝地が多く、山間部の渓谷美と合わせて今は南紀の自然を楽しむ観光客も多い。


 
弁慶伝説  放送 3月1日(月)
 田辺市は源義経の従者として知られる武蔵坊弁慶(?〜1189)の生誕地で、JR紀勢線紀伊田辺駅前にはなぎなたを手にした弁慶像が立ち観光客を迎える。市内には弁慶ゆかりの史跡や品々が数多い。
 弁慶は熊野別当・湛増の子として生まれ、比叡山西塔で修行を積んでいた。だが武芸に優れた弁慶は義経の平氏追討に従い多くの武功をたてる。頼朝の関係が悪くなった義経は陸奥国・平泉に逃れた。藤原泰衡に攻められた時、義経を守ろうとした弁慶は衣川の戦で全身に矢を受け、立ったまま討ち死にしたと言われている。伝説的な部分の多い人物で、平家物語、義経記、源平盛衰記や歌舞伎、芝居、映画などに登場しよく知られている。

闘鶏神社

(写真は 闘鶏神社)

弁慶産湯の釜

  弁慶と父・湛増の父子像が立つ闘鶏神社は源平合戦の折、湛増が社前で紅白の鶏を闘わせ、白い鶏が勝ったので白旗の源氏に味方したと伝えられている。この地方に絶大な勢力と熊野水軍を持っていた湛増を味方につけようと、源平両陣営から使いがきた。
弁慶も父を説得に訪れたと言われる。迷った湛増は紅白の鶏を闘わせてその結果に従い、200艘の軍船と2000人の大軍を擁して屋島や壇ノ浦で源氏に加勢し、源氏を勝利に導いた。
 こうした由来を持つ闘鶏神社は社伝によると允恭天皇8年(419)田辺宮として創建された。熊野権現を勧請し、新熊野鶏合大権現と称し、熊野三山別当格的な格式を備えていた。熊野参詣の中継地として栄え、明治維新後に闘鶏神社と改めた。

(写真は 弁慶産湯の釜)

 弁慶と深い関わりを持つ闘鶏神社には、弁慶が生まれた時に産湯を沸かしたと言われる釜や父・湛増が使った鉄の烏帽子、鉄扇、義経愛用の横笛・白竜が保存されている。湛増の屋敷跡の田辺第一小学校校庭にあった弁慶産湯の井戸は、市役所前の駐車場へ移転し復元された。小学校近くの八坂神社(祇園社)には、少年時代の弁慶が座ってお尻の形のくぼみがついたと言う弁慶の腰掛石があり、近くには昭和50年(1975)に枯れてなくなった弁慶松跡がある。
 海蔵寺には源氏に加勢した時に熊野水軍の軍船に安置し、戦いを勝利に導いてくれたと伝えられる弁慶観音像が祀られている。この像は正式には菩薩形座像と呼ばれている。

秋仏弁慶観音(海蔵寺)

(写真は 秋仏弁慶観音(海蔵寺))


 
紀州備長炭  放送 3月2日(火)
 田辺市の秋津川地区は紀州備長炭発祥の地と言われ、現在では少なくなったウバメガシの林が残っている。この備長炭発祥の地に「紀州備長炭記念公園」が開かれ、公園内には紀州備長炭発見館、炭窯、バーベキュー施設、備長炭などの産品直売所がある。発見館では炭焼きの人びとの暮らしや備長炭を含めた日本の木炭の歴史、文化、科学、伝統工芸などを幅広く紹介している。
 人類が火を使い始めた時から木炭は存在し、人類が最も長い間使ってきた燃料と言える。化石燃料時代の現代社会でも、さまざまな方面で使用されているのが木炭で、中でも備長炭は世界に誇る炭の芸術品であることが、発見館の展示資料でわかる。

紀州備長炭

(写真は 紀州備長炭)

備中屋長左衛門の墓

 備長炭の歴史は弘法大師・空海が中国から製炭技術を持ち帰った平安時代にさかのぼる。関西の炭焼きさんが炭窯の煙道の入口を「大師穴」とか「弘法穴」と言うのは、日本での製炭の始まりに由来している。
 田辺地方の炭焼きさんが、南紀州の山林に自生するウバメガシを使い、白炭を焼く技術を生み出したのが紀州備長炭の始まりで、江戸へ出荷して日本一のブランド炭になった。備長炭の名称は江戸時代の元禄年間に、田辺の炭問屋・備中屋長左衛門が自分の屋号と名前から一字ずつを取って「備長炭」とした。その後、高知や宮崎でも備長炭が焼かれるようになり「紀州備長炭」「土佐備長炭」「日向備長炭」とそれぞれ産地名をつけるようになった。今では中国産の「中国備長炭」やフィリピンやインドネシアでマングローブを使って焼かれた「南洋備長炭」もある。

(写真は 備中屋長左衛門の墓)

 公園内には実際に備長炭を焼く炭窯があり、炭焼きの様子が見学できる。炭窯の中で最高1300度の高温で輝くような黄金色をした炭が、釜の外へ取り出される様子は感動的である。取り出された炭は水分と含ませた消し粉をかぶせて消火冷却する。
焼き上がった備長炭をたたくと「キーン」と言う金属音がし、ノコギリでも切れない鋼と同じ硬度がある。この硬さを利用して楽器の炭琴や風鈴なども作られる。
 備長炭は長時間温度が一定で長持ちし、うちわ一本で火の強さを調節できるので、うなぎの蒲焼きや魚、肉などの焼もの料理に最適と言われている。また、炭火から出る赤外線や灰が食材のうま味を引き出す効果がある。公園内に備長炭を使って焼くバーベキューガーデンがあり、大自然の中で最高のバーベキューが味わえる。

炭琴演奏

(写真は 炭琴演奏)


 
南方熊楠  放送 3月3日(水)
 田辺市にゆかりの深い大人物のひとりが、凄まじいエネルギーを持った学者・南方熊楠(みなかたくまぐす・1867〜1941)である。少年時代から書物をむさぼるように読み、友人から借りた本や図書館などの書籍を読み、筆写した。生物学、人文科学など多方面にわたって研究し、活動の場を米国、英国にまで広げ、特に粘菌、菌類の研究、民族学、宗教学に大きな足跡を残した。
 英国から帰国後、明治37年(1904)田辺市に居を構え、闘鶏神社の宮司の4女と結婚して日本での本格的な研究に取り組んだ。田辺市内の海辺から山、谷、社寺の森、市街地の路地まで熊楠の研究の足跡が残っている。市内には熊楠が亡くなるまで研究に没頭した熊楠邸(非公開)が保存されており、その遺品などから偉大な学者の面影をしのぶことができる。

南方熊楠旧邸

(写真は 南方熊楠旧邸)

菌類彩色図

 熊楠は幕末の慶応3年(1867)和歌山市に生まれた。大学予備門(現東大)に入学したが、あまり学校には行かず上野図書館で和漢洋の書物を読み、筆写をした。
病気のため大学予備門中退したが海外留学の念に燃え、明治19年(1886)米国に渡り菌類の研究と採集をした。キューバにも足を伸ばした後、英国に渡り大英博物館での読書と筆写に明け暮れ、筆写したノートは52冊、1万ページを超えた。この間に英国の科学誌「ネイチャー」に論文を寄稿している。
 海外での研究生活を打ち切り明治33年(1900)帰国、和歌山・那智勝浦に住み、那智山などで植物採集を続け、4年後に田辺に移り住んだ。昭和16年(1941)75歳で没し、墓は市内の高山寺にある。

(写真は 菌類彩色図)

 田辺の自宅の柿の木から粘菌の新属新種を発見するなど、近郊の山野を毎日のように歩き回り、50種あまりの粘菌を発見している。
 明治政府が出した1町村1神社の神社合祀令に対し「長年、地元民が守り続けてきた神社とその森を破壊するものである」と反対運動を続け、過激さのあまり警察に留置されたこともあった。また、田辺湾に浮かぶ熱帯、亜熱帯植物の宝庫・神島(かしま=国指定天然記念物)の保護にも努めており、自然保護の先駆者と言える。昭和天皇が神島に行幸された時に説明役をつとめ、キャラメルの箱に粘菌の標本を入れて献上した。熊楠没後に昭和天皇は「献上品は普通、桐の箱などに入れて来るものだが、南方はキャラメルの箱に入れてきたよ」と懐かしそうにその思い出を語られたそうだ。

天神崎

(写真は 天神崎)


 
岩屋観音  放送 3月4日(木)
 田辺市の北部、岩屋山の岩屋観音は約850年前の昔、那智の滝での苦行を終えた文覚上人が、その後、一夜の夢に霊感を覚えて大岩窟に念持仏の聖観音像を祀ったのが始まりと伝わる。真言宗御室派の寺で正式な名称は観音密寺。
 以来、厄除け寺として人びとの信仰を集めたが、小栗判官が参籠したと言う説もあって、熊野信仰につながる霊場であったことでも知られる。また歴代住職が長寿だったので、岩屋観音に参詣すれば長寿が授かると言われ長寿寺の別名もある。

岩屋観音

(写真は 岩屋観音)

聖観世音菩薩像

 田辺市の市街地にある高山寺の末寺であることから高山寺と深い関わりがある。戦国時代の天正年間(1573〜92)の豊臣秀吉の熊野侵攻の時、高山寺の本尊を岩屋観音に移して災難をまぬがれ、太平洋戦争末期にも再び本尊を避難させている。
 岩屋観音の裏山に石仏を祀った新西国三十三番霊場は、この付近の景勝地・ひき岩群の一角に設けられたもので、約30分でひとめぐりできる。33体の石仏の観音像に手を合わせ、周辺の雄大な景色を眺めながらの観音巡りは都会では得られない体験になる。また、観音巡りのコースから向かい側のひき岩群の奇岩を一望することもできる。

(写真は 聖観世音菩薩像)

 岩屋観音がある一帯はむき出しの奇怪な岩が点在している。その中でも稲成川沿い東岸の上にそそり立つ大岩は、ヒキガエルが天を仰いでいる姿に似ており「ひき岩」名づけられ和歌山県の天然記念物に指定されている。こうしたヒキガエルに似た奇岩群が点在する「ひき岩群」を眺めながらのハイキングコースが整備されており、田辺市内を一望したり、夕日百選の碑があるポイントからは素晴らしい夕日を眺めることができる。
 ひき岩群国民休養地のふるさと自然公園センターには、経験豊かな自然観察指導員が駐在しており、この付近の自然についての質問などに応えてくれ、田辺市の自然や仕組みを写真・パネル・標本などでわかりやすく紹介している。

ひき岩群

(写真は ひき岩群)


 
熊野灘の恵み  放送 3月5日(金)
 田辺市の目の前に広がる熊野灘は、カツオやヨコワなど黒潮が育む天然魚の宝庫と言われ、旬の海の幸が味わえる。その中でも海の帝王とも言われるのが、大きいもので80kgにも達すると言うクエ。アジやサバ、イカなどを食べる魚食性の魚で、一本釣り漁法のため漁獲量が少なくクエ専門店は田辺市では「割烹・ゑびす」だけ。
 クエは脂がのってコクがあり、身から内蔵、皮まですべていただける。「ゑびす」ではクエのうす造りからクエステーキ、焼もの、煮もの、から揚げなどのメニューがずらり。どれも食べてもおいしいクエ会席料理が用意されているが、名物は豪快なクエ鍋。クエの骨をじっくりと煮て取っただしに、厚切りのクエと野菜類を一緒にいれたクエ鍋の味は最高で、最後のクエ雑炊がまたおいしい。

クエ

(写真は クエ)

九絵料理(割烹ゑびす)

 田辺市内にはかまぼこ通りと呼ばれる蒲鉾店が集まった一角があるくらい、なんば焼と呼ばれるかまぼこが名物。江戸時代の文化・文政年間(1804〜30)に南蛮から渡来した製法で作ったことからその名がついたと言う。形が方形で上部中央にナンバキビ(トウモロコシ)色の丸形焼付が特徴。このほかにさまざまなかまぼこが生産されており、観光客の土産物として人気が高い。田辺のかまぼこは原料としては最高と言われる熊野灘で獲れるエソと言う魚のすり身を使っている。
 蒲鉾(かまぼこ)の名称は、形が蒲(がま)の穂に似ているところから「蒲穂子」が転化したものと言われている。

(写真は 九絵料理(割烹ゑびす))

 神功皇后が三韓征伐に向かう途中、神戸・生田の森で鉾の先端に魚肉を潰して塗りつけて焼いたとの伝えがあり、いずれも「蒲」と「鉾」であり、その色や形からこの名がつけられたとの説もあり、現在のちくわがかまぼこの元祖とも言われている。
現在の板付かもぼこは桃山時代に生まれたもので、ちくわを半分に割った形から半片と言われた時代もあったそうだ。
 いずれにしても田辺市へ来れば、どんな形あろうが自分の好みに合わせて黒潮の恵みを味わいたい。磯の香りが漂うこの味は都会ではなかなか味わえない。

南蠻焼(たな梅本店

(写真は 南蠻焼(たな梅本店))


◇あ    し◇
闘鶏神社JR紀勢線紀伊田辺駅下車徒歩8分。 
海蔵寺JR紀勢線紀伊田辺駅下車徒歩5分。 
弁慶腰掛石、弁慶産湯井戸、弁慶松JR紀勢線紀伊田辺駅下車徒歩10分。
紀州備長炭記念公園JR紀勢線紀伊田辺駅からバスで備長炭記念公園下車。
南方熊楠邸JR紀勢線紀伊田辺駅下車徒歩10分。 
高山寺JR紀勢線紀伊田辺駅からバスで糸田車徒歩15分。
岩屋観音JR紀勢線紀伊田辺駅からバスで大坊下下車徒歩10分。
ひき岩群ふるさと自然公園センターJR紀勢線紀伊田辺駅からバスで大西橋下車徒歩20分。
◇問い合わせ先◇
田辺市観光協会0739−22−5300 
南紀田辺観光案内センター0739−25−4919 
闘鶏神社0739−22−0155 
海蔵寺0739−22−0702 
紀州備長炭記念公園0739−36−0301 
紀州備長炭発見館0739−36−0226 
南方熊楠邸保存顕彰会0739−26−9943 
高山寺0739−22−0274 
岩屋観音・観音密寺0739−22−5766           
たな梅本店(蒲鉾)0739−22−5204 
割烹・ゑびす0739−22−0886 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会