月〜金曜日 18時54分〜19時00分


滋賀・近江商人の町 

 湖東地方の近江八幡市と五個荘町、日野町は近江商人発祥の地。全国で活躍した近江商人の業績と精神は現代の商業活動や商社のシステムにも引き継がれている。近江商人の名残が色濃く残る五個荘町と日野町を訪ね、その精神や歴史をたどってみた。


 
てんびんの里(五個荘町)  放送 3月15日(月)
 五個荘町は日野町、近江八幡市と並ぶ近江商人発祥地で、五個荘商人とも呼ばれていた。五個荘町のほぼ中心の金堂、川並地区に五個荘商人の邸宅が今も残っている。
近江商人とは、本拠は近江に置いて荷を両端にかけた天秤棒を肩に、京都、大坂の畿内から江戸、信濃、奥羽、更には北海道と広く他国を歩いて稼いだ人たちを言う。
 江戸時代の経済体制を根底からくつがえす商品流通のシステムを生み出し、その流れは今日の総合商社にも受け継がれていると言われる。呉服、麻布など繊維関係の品物を取り扱う卸問屋が主で、五個荘町商人が江戸時代末期から
明治時代にかけての創業したものが現代の総合商社につながっている。

五個荘

(写真は 五個荘)

舟板塀

 五個荘町のいたるところに舟板塀、白壁の土蔵、優雅な庭園のある五個荘商人たちの邸宅が残り、町並みのせせらぎにはニシキゴイが優雅に泳いでいる。豪壮な構えの商人邸宅の中にも勤勉、倹約を旨とした質素で堅実な商いの暮らしぶりがしのばれる。五個荘商人の家にはそれぞれ家訓、家憲、家法、家則と言ったものあり、その基本は質素、倹約、勤勉、堅実であり、正直、信用、薄利多売など得意先を大切にする精神が貫かれていた。
 こうした五個荘商人の商いや生活ぶりを知ることができるのが、近江商人屋敷として一般公開されている旧外村宇兵衛邸、旧外村繁邸、更に旧藤井彦四郎邸を転用した五個荘町歴史民俗資料館や近江商人博物館である。

(写真は 舟板塀)

 旧外村宇兵衛家は外村家の総本家・外村與左衞門家から江戸時代後期の享和2年(1802)分家した商人。呉服類を中心に商圏を広げ、明治時代には全国長者番付に名を連ねる近江を代表する豪商となった。屋敷は家業の隆盛と共に新増築が重ねられ、主屋、書院など十数棟におよび、庭は作庭当時は神崎郡内一番と言われた。
 旧外村繁邸は外村宇兵衛家から分家した商人で、外村繁は初代当主の3男として生まれた。一時期、家業を継いでいたが、昭和8年(1933)弟に家業を託し、東大の学生時代に志して文学の道に入った。近江商人の根源を赤裸々に描き、その作品「草筏」は第1回芥川賞候補にもあがった。歴史民俗資料館や近江商人博物館には、近江商人たちが使った合羽や提灯、道具類が展示され、商人の道中姿や帳場などが再現されている。

近江商人屋敷 旧外村宇兵衛家

(写真は 近江商人屋敷 旧外村宇兵衛家)


 
石馬寺(五個荘町)  放送 3月16日(火)
 五個荘町の東端、能登川町との境にある繖(きぬがさ)山の東麓山中に、聖徳太子の開基と伝えられる古刹・石馬寺(いしばじ)は、全国で唯一の珍しい名を持つ寺である。
 伽藍(がらん)建立の霊地を求めてこの地を訪れた聖徳太子が、山麓の松の木に馬をつなぎ止め、山上に登り地形を調べて下山して見ると、松の木につないでいた馬が傍らの池に沈んで石となっていた。聖徳太子はこの奇瑞に霊気を感じ、この山を「御都繖山(ぎょとさんざん)」と名づけ寺を建立、馬が石となった寺「石馬寺」としたのがこの寺の名の由来と伝えられている。

聖徳太子像

(写真は 聖徳太子像)

阿弥陀如来座像

 こうした伝説に由来する石馬寺には、聖徳太子に関わる遺跡が多い。寺の入口脇の池には今も馬の背のような白く長い石が沈んでおり、池のかたわらには「太子駒つなぎの松」がある。方丈には聖徳太子22歳の馬上像や3歳の合掌像が安置されており、聖徳太子直筆と伝えられる「石馬寺」の扁額が大仏宝殿にかかっている。
 石馬寺は創建後、法相宗、天台宗と改宗し、永禄11年(1568)の織田信長の兵火で伽藍はことごとく焼けた。江戸時代初期の正保元年(1644)仙台の瑞巌寺の開祖・雲居(うんご)国師が再興し、臨済宗妙心寺派に改められ現在にいたっている。

 

(写真は 阿弥陀如来坐像)

 自然石の長い石段を登り詰めた境内には、茅葺きの本堂兼方丈、大仏宝殿などが建ち並んでいる。織田信長に焼かれた時、貴重な仏像は山中に避難させて災難を免れた。本堂には本尊・十一面千手観音菩薩立像(国・重文)、大仏宝殿には阿弥陀如来座像(国・重文)、二天王立像(国・重文)、大威徳明王牛上像(国・重文)など平安時代から鎌倉時代にかけての仏像が安置されている。
 「石馬の庭」として知られる書院の庭は、石馬寺の縁起を表現したものとして知られている。白砂の中に石と化した聖徳太子が乗った馬が、馬つなぎの松のそばにたたずむ姿などが、苔で象られた島に13の石を配して描かれている。

大威徳明王像

(写真は 大威徳明王像)


 
日野商人(日野町)  放送 3月17日(水)
 近江商人の中で日野出身を日野商人と言った。日野商人は戦国時代の中野城(日野城)の城主・蒲生氏郷が城下に楽市楽座を置き、商工業の振興に力を注いだことに始まった。日野商人は江戸時代初め、漆塗りの日野椀と漢方医薬を主力商品に、関東方面を中心に店を出したり、行商の商いをして、次第に力をつけていった。
 日野の漢方医薬品は、江戸時代中期の正徳2年(1712)に医師・正野玄三が創り出した「萬病感応丸」で、全国で飛ぶように売れた。最盛期には萬病感応丸の製薬業者が200軒を超え、日野は製薬の町ともなった。萬病感応丸は商品の荷が軽く、持ち歩きに便利で利益も大きかったので、日野商人は全国の出店で「萬病感応丸」の看板を掲げて売り利益をあげた。

萬病感応丸

(写真は 萬病感応丸)

馬見岡綿向神社

 日野商人は商売で行ったその地方の産物を仕入れて帰り、これを京、大坂などで売りさばき利益をあげ、これを「のこぎり商法」と呼んだ。こうした無駄足を踏まない着実な商法で資本を蓄え、千両も貯めれば新しい店を出すと言われた。このように商いの拡張欲が盛んで「日野の千両店」と呼ばれる出店の多くを関東に開いた。あまり大きな店を構えず、小さな店を各地に数多く出し、これを前線基地にして行商や店売りに精を出した。
 日野商人は神仏を敬う心が篤く、地域の発展にも寄与してきた。儲けた金を社寺に寄付したり、地域の教育振興、文化活動、土木工事、経済活動などの公共事業にも資金面で協力を惜しまなかった。電話の開通や道路の舗装は滋賀県下で一番早く、女学校や幼稚園が他の地方にさきがけて設けられたと言う。

(写真は 馬見岡綿向神社)

 白壁の土蔵など日野商人の邸宅が残る古い町並みの一角にある「近江日野商人館」は、江戸時代の日野商人の行商品や道中具、店頭品、家訓などの資料を展示し、日野商人の歴史と商いぶりを紹介している。この建物は静岡県御殿場に出店して、日野椀の商いで大成した日野商人・山中兵右衛門家から町に寄贈された邸宅を活用した。
館内に展示されている山中家のの家訓「慎(つつしみ)10ケ条」は商人の心構えをよく示している。
 日野商人の出世開運の神として崇敬された、馬見岡綿向神社の日野祭は5月2〜4日に繰り広げられる。江戸時代中期から末期にかけて製作された、16基の曳山が練り歩く絢爛豪華な祭で、豪華な曳山も日野商人たちの寄進によるものが多いと言う。

曳山八景閣

(写真は 曳山八景閣)


 
正明寺(日野町)  放送 3月18日(木)
 黄檗宗の禅刹・正明寺は聖徳太子の創建と伝わり、創建当時は法相宗、平安時代以降は天台宗に属し、93院の末寺と300人を超す僧を擁して栄えていた。
 だが、織田信長の兵火によってわずかな仏像を残して一山が焼失した。村人たちは兵火の中から救い出された仏像を、粗末な草堂に安置して寺を守り続けていた。江戸時代初めに信仰心の篤かった有力な檀家が、臨済宗永源寺派大本山の永源寺管長・一絲文守(いっしもんじゅ)和尚に正明寺再興をすがった。一絲和尚に帰依していた後水尾上皇から京都御所の清涼殿を賜り、これを移築して本堂(国・重文)を再建した。

秘仏十一面千手観音菩薩像

(写真は 秘仏十一面千手観音菩薩像)

延命地蔵尊

 うっそうと樹木が茂る山道を進み山門をくぐり抜けると、桃山建築の粋を集めた本堂の前に出る。本堂の屋根は美しい流れるような曲線を見せる桧皮葺きで、正面には唐破風の向拝拝殿が設けられている。向拝の屋根には御所の建物であったことを示す菊の紋がある。
 一絲和尚の没後、後水尾上皇の信任が厚かった宇治の黄檗山万福寺の高僧で、万福寺を開いた隠元禅師の弟子・竜渓禅師を開山に迎え、禅堂、経堂などを整えた。この時から正明寺は万福寺の末寺となり、禅寺としての寺格と修行道場を備え、ここで修行を積んだ多くの名僧を輩出した。江戸時代の再興後は、信仰の篤い壇信徒や日野商人らに守り続けられ、禅の修行道場としての格式を保ってきた。

(写真は 延命地蔵尊)

 本堂内の正面には後水尾上皇直筆の「正明寺」の扁額が掲げられている。本堂に祀られている本尊・千手観音立像と脇侍の毘沙門天像、不動明王像(いずれも国・重文)の3体の仏像は、鎌倉時代の逸品である。3体とも寄木造で目にはいずれも玉眼が入っている。修行僧が座禅する禅堂は銅板葺きで、桧皮葺きの本堂と対照的な調和の取れたたたずまいを見せ、堂内には大日如来像が安置されている。
 禅堂の向かい側に建つ禅寺の食堂・斎堂の軒下には、僧侶に食事や勤行の合図などをする時に打ち鳴らす、魚の形をした「大魚板」がぶらさっている。木槌で打ち鳴らされた魚の腹部は、深くえぐり取られたようになっており歴史の古さを物語っている。

大日如来像

(写真は 大日如来像)


 
メルヘンの世界(日野町)  放送 3月19日(金)
 日野町には豊かな自然や農産物を生かした滋賀農業公園「ブルーメの丘」とメルヘンの世界が楽しめる「グリム冒険の森」の2つの施設がある。時にはこうした自然の中で夢のあるひとときを過ごすのはいかが。
 滋賀農業公園「ブルーメの丘」は、日野町の豊かな自然の中にドイツ・バイエルン地方の文化を融合させた、新しい形のテーマパークで「ブルーメ」とはドイツ語で「花」を言う。
 「グリム冒険の森」は、グリム兄弟の夢のある童話にちなむオートキャンプ場とコテージが整備されたアウトドアの空間。

ブルーメの丘

(写真は ブルーメの丘)

畑

 「ブルーメの丘」の園内施設には「エーデルワイス」「リリーエ(ゆり)」「ピツル(きのこ)」など花や植物にちなんだ名前がつけられている。そしてテーマごとに分けられた「門」「街」「村」「花」「水」「遊」「牧」の7つのエリアがある。
 そのぞれのエリアには宿泊施設や研修室のほかにいろいろな施設があり、ソーセージ作りや手作りパン作り、羊の放牧体験、乳牛の乳しぼり体験などが楽しめる。園内には四季折々の花が咲き、売店やレストランもあり乳製品や地ビールなどが味わえる。
子供連れの家族には小動物とのふれあいや乗馬、遊具、乗り物などで楽しめ、美術館もあってそれぞれの好みに合わせた一日が過ごせる。

(写真は 畑)

 「グリム冒険の森」のコテージやキャンプ場は、ドイツのメルヘン街道に位置する地名とルートに似ていることから、その名前がつけられた。各コテージの中にはドイツの民芸品、グリム兄弟が収集した童話の絵本が飾られている。
 この森に宿泊しながらいろいろな体験ができる。グリムの森を探検で昆虫や野鳥、鹿などの動物との出会い、林業体験で木登りや枝落とし、キノコ採取、木工教室、お菓子作り教室などがある。特に木工教室ではメルヘンの世界の木工品や椅子や小物入れなど、自分の身のまわりの品を楽しみながら作れる。この森を利用するには準備の都合で予約を原則としている。

乗馬場

(写真は 乗馬場)


◇あ    し◇
近江商人屋敷
(旧外村宇兵衛邸・旧外村繁邸)
JR東海道線能登川駅からバス金堂下車徒歩3分。
五箇荘町歴史民俗資料館JR東海道線能登川駅からバス筑瀬下車徒歩5分。
石馬寺JR東海道線能登川駅からバス石馬寺下車徒歩5分。
近江日野商人館近江鉄道日野駅からバス大窪下車徒歩5分。 
馬見岡綿向神社近江鉄道日野駅からバス向町下車徒歩5分。 
正明寺近江鉄道日野駅からバス横町下車徒歩15分。 
滋賀農業公園・ブルーメの丘近江鉄道日野駅からバス幅野町下車徒歩10分。 
グリム冒険の森江鉄道日野駅からバスの便はあるが運転本数が少ない。
◇問い合わせ先◇
五個荘町役場0748−48−3111 
五個荘町観光協会0748−48−6678 
近江商人屋敷・旧外村宇兵衛邸0748−48−5557 
五個荘町近江商人博物館0748−48−7101 
五箇荘町歴史民俗資料館0748−48−2602 
石馬寺0748−48−4823 
日野町役場・日野町観光協会0748−52−1211 
近江日野商人館0748−52−0007 
正明寺0748−52−0227 
滋賀農業公園・ブルーメの丘0748−52−2611 
グリム冒険の森管理事務所0748−53−0809 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会