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月〜金曜日 18時54分〜19時00分 |
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大阪・歴史を彩った人びと |
大阪は歴史、文化の豊かな都市であり、歴史上の著名人も枚挙にいとまがない。今週は歴史、文化の再発見の旅として、古代から現代まで歴史を彩った人物の足跡をたどって見た。 |
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御幸森天神宮付近は昔から朝鮮半島・百済からの渡来人たちが多く住んでいたが、今も天神宮から東に延びる御幸通商店街は、通称・コリアタウンと呼ばれている。在日韓国、朝鮮人の人たちが暮らし、ハングル文字があふれ、韓国語と大阪弁が交差しながら飛び交い、ほがらかな人たちの庶民感覚の息づく町である。 |
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(写真は 御幸通商店街(コリアタウン)) |
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ガラシャ夫人が自決した忠興の屋敷は大坂城の南にあった。その台所の井戸が「越中井」と呼ばれ今も残っており、その脇に「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」の辞世の歌碑が立っている。 |
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(写真は 大阪カテドラル聖マリア大聖堂) |
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香具波志神社のある加島は、古くから中国や朝鮮半島から渡ってきた優れた技術を持った鍛冶職人が住みつき、鍛治の町として栄え「加島鍛冶千軒」と言われたほどだった。 |
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(写真は 加島鋳銭所) |
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福沢諭吉の家庭は中津藩士と言っても下級武士で、封建制では下級武士の子は下級武士で終わらねばならず、父は諭吉を努力しだいで大僧正にもなれる僧侶にしようと考えていた。封建制度の中で苦労し若くして亡くなった父を思い、諭吉は涙し「封建的な門閥制度は親の敵(かたき)でござる」と福翁自伝で言い放っている。 |
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(写真は ヅーフ辞書) |
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祖母を亡くした後、祖父と二人きりの生活の中で、病で死の床にいる祖父を康成少年は冷徹な観察眼でノートに記録した。後年、この日記に手を加えて発表したのが「十六歳の日記」である。旧制茨木中学校時代に創作活動を始め、地元の地方新聞などへ投稿して掲載されるようになった。 |
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(写真は 茨木市川端康成文学館) |
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