月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・新選組の足跡 

 幕末の京都を駆け抜けたひとつの武装集団・新選組。「尽忠報国」を旗印に京都守護職の指揮下で、将軍の警護、尊王攘夷派の志士の取り締まりに当たったが、サの凄まじさに京都の人たちは「壬生の狼」と恐れた。だが、尾ひれのついた伝聞や史実に基づかないフィクションもあり、新選組の心意気を理解する人はそれを嘆く。徳川幕府の崩壊とともに散った新選組隊士たちの足跡をたどってみた。


 
新選組起つ  放送 6月21日(月)
 幕末の嘉永6年(1853)浦賀沖にアメリカ東インド艦隊の黒船4隻が来航、艦隊司令長官・ベリーは日本に開国を迫った。「太平の眠りを覚ます蒸気船、たった四杯で夜も眠れず」との落首が、鎖国で太平の夢をむさぼっていた幕府や国内の動揺、狼狽ぶりを如実に物語っている。
 徳川幕府は、ペリーの要求に対し、勅許なしで開国を決めたため、尊王攘夷の公家や志士たちの倒幕の動きが激しくなり、京都でも天誅と称する暗殺事件が頻発した。
幕府はこうした不穏な世情を憂慮し、京都で将軍警護など治安維持に当たらせる浪士を募集した。

近藤 勇(壬生寺)

(写真は 近藤 勇(壬生寺))

八木邸

 武蔵国多摩郡上原村の豪農の3男に生まれ、武士になる夢を持っていた近藤勇(1834〜68)は、文久3年(1863)この浪士募集に応じて上洛。ここに同じ武蔵国多摩郡石田村の豪農の4男・土方歳三のほかに芹沢鴨、山南敬介、沖田総司ら後の新選組のメンバーがいた。
 京都に着いた浪士隊は行動目的などが、当初の方針から変更されるなどのトラブルが生じ、横浜で起きた生麦事件を口実に江戸へ帰されることになった。だが、近藤ら13人は京都に残り、京都守護職・松平容保(かたもり)の支配下に入り、壬生寺そばの壬生の郷士・八木邸、前川邸を宿所として新選組を名乗った。

(写真は 八木邸)

 二条城の南に位置する壬生寺は地蔵信仰の参詣者が多い律宗の寺で、境内で新選組が兵法や大砲の訓練をしていた。また、相撲興行を催したり、有名な壬生狂言を楽しんだり、沖田総司らは境内に子供たちを集めて遊ぶ人気者だった。境内の壬生塚には近藤勇の胸像と遺髪塔があるほか、新選組隊士の11人の墓がある。
 新選組の屯所のひとつだった八木邸は現在、和菓子屋となっているが、当時は壬生郷士の家柄で長屋門に「松平肥後守御預新選組宿」の表札が掲げられた。今も鴨居などに新選組の隊士がつけた刀傷が残る部屋は、見学者が後を絶たない。現当主の八木喜久男さんは「歴史に忠実な新選組を描いて欲しい」と映画やテレビドラマに注文をつけている。

芹沢鴨の墓

(写真は 芹沢鴨の墓)


 
池田屋騒動  放送 6月22日(火)
 新選組結成後間もない文久3年(1863)9月、目にあまる乱行や暴力沙汰などを理由に、中心人物の一人だった芹沢鴨が、暗殺によって粛正された。こうして水戸一派が除かれ、新選組は近藤勇の息のかかった浪士たちで固められ、結束の固い組織へと歩み始める。
 「誠」の一字を染め抜いた隊旗や羽織の背や袖に「誠」の字を染め抜いたダンダラ模様の制服もできた。さらに「尽忠報国」の志のもとに厳しい隊則を設け、より一層の結束を図った。勢力も増大し、血で血を洗う尊王攘夷派弾圧で新選組は「壬生の狼」と恐れられる存在となってゆく。

旧前川邸

(写真は 旧前川邸)

地下室(旧前川邸)

 約6年間の新選組の活動の中で最も華々しく、一躍勇名を馳せたのが元治元年(1864)6月5日の池田屋騒動である。
 前年の「8月18日の政変」で公武合体派が京都を制圧したが、巻き返しをはかる尊王攘夷派は、要人の暗殺や市中放火の混乱に乗じて、天皇を長州へ送るなどの計画を進めていた。京都守護職は新選組にこれらの動きを探索させた。その結果、池田屋騒動の前日、四条小橋の武具商・升屋喜右衛門を捕らえ家宅捜索をしたところ、武器弾薬や尊王攘夷派の企みにつながる証拠品が出てきた。

(写真は 地下室(旧前川邸))

 捕らえられた武具商・喜右衛門は仮の姿で、近江出身の尊王攘夷派志士・古高俊太郎だった。古高は新選組屯所となっていた前川邸の土蔵の中で、拷問に耐えられず「御所への放火、朝廷内の要人暗殺、京都守護職暗殺」など陰謀を白状した。一方、古高を救出しようとする尊王攘夷派の動きを新選組が察知、その密談場所のひとつが三条小橋の旅籠・池田屋であった。
 長州、肥後、土佐などの藩士約30人が密談していた池田屋へ、近藤勇を先頭に新選組隊士が斬り込んだ。死者、自決者6人、負傷後の死者5人、捕縛者23人にのぼり、新選組にも死者1人、負傷後の死者2人、負傷者2人の犠牲者が出た。この事件で新選組に朝廷や幕府から感状や褒賞金が出され、その地位を高めた。今は「池田屋騒動之跡」の石碑がひっそりと立っている。

池田屋騒動之址碑

(写真は 池田屋騒動之址碑)


 
局中法度  放送 6月23日(水)
 横暴を振る舞っていた芹沢鴨らが暗殺され、近藤勇と土方歳三が新選組の実権を握るようになると、隊の組織を固めるため「局中法度」と言う厳しい規律を定めた。
 局中法度は「命令の順守」「敵味方の強弱批判や奇矯、噂を放つことの禁止」「美食の禁制」「私事による遺恨の喧嘩の禁止」「組頭戦死の時は組員も戦死のこと」「逃亡、脱走は切腹」など。組頭戦死の時は組員全員戦死せよと言うのは凄まじいもので、これは太平の世で堕落していた武士道に活を入れる意味合いと同時に、新選組が無節操な暴力集団ではないことを世間に示すためのものでもあった。

光緑寺

(写真は 光緑寺)

山南敬介の墓

 「脱走は切腹」と厳しく戒めている局中法度を無視して、元治2年(1865)副長だった山南敬介が屯所を脱走すると言う大事件が起こる。脱走の翌々日、山南は連れ戻され、屯所の前川邸で切腹させられた。新選組旗揚げ以前からの同志であり、文武両道、人格円満で隊員の人望も篤かった山南の脱走には謎が残る。尊王攘夷派と見れば斬りまくる近藤、土方の方針に違和感を感じるようになったのではないかとの見方もある。山南の亡き骸は住職と親交のあった四条大宮の光縁寺に埋葬された。
 山南が切腹する時、島原のなじみの芸妓・明里が駆けつけ、出窓越しに別れを惜しんだと伝えれているが、今はその出窓はなく当時の面影はない。

(写真は 山南敬介の墓)

 山南ら新選組隊士28人が埋葬された光縁寺は、慶長18年(1613)に創建された浄土宗知恩院の末寺。壬生寺のすぐ東にあり、門前近くに新選組の馬小屋があって隊士たちがよく往来していた。山門の瓦の三つ葉立葵の紋が山南の家紋と同じで、当時の住職・良誉和尚との親交が生まれた。こうしたことから切腹した隊士の埋葬を山南が住職に依頼、後に自分も埋葬されることになった。
 新選組誕生当時、壬生の郷士・八木邸と隣り合わせで同じく壬生の郷士だった前川邸も屯所となった。隊士の山南や野口健司が切腹した部屋、尊王攘夷派志士・古高俊太郎が拷問にかけられた土蔵、近藤が落書きした雨戸などが残っているが、前川邸は現在、製袋所を営み生活の場にもなっており一般公開はされていない。

山南敬介の切腹した部屋(旧前川邸)

(写真は 山南敬介の切腹した部屋(旧前川邸))


 
京都守護職本陣  放送 6月24日(木)
 広々とした境内と諸堂の威容がいかにも時代劇の舞台に似つかわしい金戒光明寺は、京都の人びとには「黒谷さん」と呼ばれている。黒谷は浄土宗の宗祖・法然上人・源空が承安5年(1175)初めて庵を結んだ地である。
 文久2年(1862)京都守護職となった会津藩主・松平容保(かたもり)はこの寺を本陣とした。なぜ金戒光明寺が本陣に選ばれたのであろう。その理由は徳川幕府発足当時にまでさかのぼる。徳川家康は西国ににらみをきかし幕府を盤石なものにするため、直轄地として二条城を築き所司代を置いた。さらに変事の時に軍隊を配置できるように、密かに金戒光明寺と知恩院を城塞化した。小高い丘の上にある金戒光明寺は自然の要塞でもあり、さらに南門を小さくしたり、西門を城門のようにして固めるなど、戦闘に備えた構えが施されていた。

金戒光明寺

(写真は 金戒光明寺)

上段の間

 松平容保は14代将軍徳川家茂から京都守護職を命じられたが、初めは固辞した。
家老たちも「薪を背負って火を防ぐようなものだ」と反対した。しかし、重ねての依頼に容保も藩祖・保科正之(3代将軍徳川家光の異母弟)が残した家訓「わが家は宗家と盛衰存亡をともにせよ」に従い守護職を引き受けた。家臣らも「君臣、京の地を死所となすべきなり」と決意を新たにしながら泣き崩れたと言う。
 容保は家臣約1000人を率いて文久2年(1862)12月24日入洛、金戒光明寺へはいった。世情不安な毎日を送っていた京都の町民らは、道の両側に人垣を作って威風堂々の会津兵を迎えたと言う。

(写真は 上段の間)

 金戒光明寺に本陣を置いた容保の配下に入った近藤勇率いる新選組の隊士たちは、市中見回りの結果報告のため、毎日この本陣を訪れていた。慶応3年(1867)までの6年間、容保と会津藩兵は京の秩序維持に努めた。その間、池田屋騒動、蛤門の変(禁門の変)、長州征伐、鳥羽伏見の戦、戊辰戦争と倒幕、佐幕派が争ったが、時に利あらず、遂には会津藩は「朝敵」の汚名を着せられる結果ととなってしまった。
 金戒光明寺の墓地には「会津藩殉難者墓地」があり、約240人の武士の霊とともに使役で仕えていた者や婦人たちの霊も祀られている。毎年6月の第2日曜日慰霊碑の前で会津藩殉難者追討法要が、松平家現当主も参列して営まれている。

会津墓地

(写真は 会津墓地)


 
遊里・島原  放送 6月25日(金)
 壬生寺の南西にある島原は、天正17年(1589)豊臣秀吉が公に許し柳馬場二条に開かれ、柳町と呼ばれた花街が起こり。その後、江戸時代にはいり六条柳町に移され、さらに寛永18年(1641)現在地の西新屋敷に移された。この時の移転があまりにも急だったので大騒動となり、直前にあった九州・島原の乱になぞらえて「島原」と名づけられた。
 江戸時代の花街「島原」は大変栄えたが、明治時代以降はすっかりさびれ、現在では料亭にあたる揚屋の「角屋」と太夫や芸妓の置屋「輪違屋」、それに島原大門だけが残り往時の面影をしのばせている。

青貝の間(角屋)

(写真は 青貝の間(角屋))

松の間(角屋)

 角屋は寛永18年(1641)創業の店で、揚屋建築の唯一の遺構として国の重要文化財に指定されている。幕末の「角屋」には西郷隆盛、桂小五郎、坂本龍馬の勤王の志士が集い、新選組の近藤勇、芹沢鴨らも出入りした。また、西郷たちは豪商をこの角屋に招き饗宴を催し、軍資金の調達を依頼していた。角屋の2階「青貝の間」の床柱には、酔って暴れた新選組隊士による刀傷が残っている。
 現在、角屋は「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されている。扇面を貼った「扇の間」、青貝をちりばめた「青貝の間」など豪華な造りや襖絵などのある座敷が見学でき、江戸時代に太夫を招いての饗宴を楽しんだ様子をしのぶことができる。
一部の部屋の見学は事前の予約が必要。

(写真は 松の間(角屋))

 置屋の「輪違屋」は元禄元年(1688)創業の店で、現在の建物は江戸時代末の安政4年(1857)に再建されたもので、当時の花街の建築様式をよく伝えており、京都市の文化財に指定されている。輪違屋は現在も営業中の揚屋と置屋。現在、日本で唯一、太夫がいる店で花扇、司、春日、花琴と呼ばれる4人の太夫がいる。
 江戸時代の太夫は正五位の位を持ち、10万石の大名に匹敵するとされたほど格式が高かった。茶、花、詩歌、俳諧、舞踊、文学などの教養を身につけた女性で、歴史上で有名なのが吉野太夫、八千代太夫。輪違屋の遊女では糸里、明里、花香太夫が新選組隊士と関わりがあったと言われており、近藤勇の書を貼った襖が残っている。輪違屋は営業中の店なので非公開で、客としても「一見(いちげん)さんはお断り」となっている。

傘の間(輪違屋)

(写真は 傘の間(輪違屋))


◇あ    し◇
壬生寺、新選組壬生屯所跡(八木邸、前川邸)阪急電鉄京都線大宮駅下車徒歩8分。
京都市バス壬生寺通下車徒歩3分。
池田屋跡京阪電鉄三条駅、地下鉄三条京阪駅、
京都市役所前駅下車徒歩3分。
京都市バス河原町三条下車徒歩3分。
光縁寺阪急電鉄京都線大宮駅下車徒歩3分。 
京都市バス四条大宮下車徒歩3分。
金戒光明寺京都市バス岡崎道下車徒歩5分。 
京都市バス東天王町下車徒歩10分。
島原・角屋JR山陰線丹波口駅下車徒歩7分。 
京都市バス島原口又は梅小路公園前下車
徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
壬生寺075−841−3381 
八木邸(京都鶴屋・鶴寿庵)075−841−0751 
光縁寺075−811−0883 
金戒光明寺075−771−2204 
財団法人角屋保存会075−351−0024 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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