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月〜金曜日 18時54分〜19時00分 |
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京都市・新選組の足跡 |
幕末の京都を駆け抜けたひとつの武装集団・新選組。「尽忠報国」を旗印に京都守護職の指揮下で、将軍の警護、尊王攘夷派の志士の取り締まりに当たったが、サの凄まじさに京都の人たちは「壬生の狼」と恐れた。だが、尾ひれのついた伝聞や史実に基づかないフィクションもあり、新選組の心意気を理解する人はそれを嘆く。徳川幕府の崩壊とともに散った新選組隊士たちの足跡をたどってみた。 |
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二条城の南に位置する壬生寺は地蔵信仰の参詣者が多い律宗の寺で、境内で新選組が兵法や大砲の訓練をしていた。また、相撲興行を催したり、有名な壬生狂言を楽しんだり、沖田総司らは境内に子供たちを集めて遊ぶ人気者だった。境内の壬生塚には近藤勇の胸像と遺髪塔があるほか、新選組隊士の11人の墓がある。 |
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(写真は 芹沢鴨の墓) |
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捕らえられた武具商・喜右衛門は仮の姿で、近江出身の尊王攘夷派志士・古高俊太郎だった。古高は新選組屯所となっていた前川邸の土蔵の中で、拷問に耐えられず「御所への放火、朝廷内の要人暗殺、京都守護職暗殺」など陰謀を白状した。一方、古高を救出しようとする尊王攘夷派の動きを新選組が察知、その密談場所のひとつが三条小橋の旅籠・池田屋であった。 |
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(写真は 池田屋騒動之址碑) |
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山南ら新選組隊士28人が埋葬された光縁寺は、慶長18年(1613)に創建された浄土宗知恩院の末寺。壬生寺のすぐ東にあり、門前近くに新選組の馬小屋があって隊士たちがよく往来していた。山門の瓦の三つ葉立葵の紋が山南の家紋と同じで、当時の住職・良誉和尚との親交が生まれた。こうしたことから切腹した隊士の埋葬を山南が住職に依頼、後に自分も埋葬されることになった。 |
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(写真は 山南敬介の切腹した部屋(旧前川邸)) |
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金戒光明寺に本陣を置いた容保の配下に入った近藤勇率いる新選組の隊士たちは、市中見回りの結果報告のため、毎日この本陣を訪れていた。慶応3年(1867)までの6年間、容保と会津藩兵は京の秩序維持に努めた。その間、池田屋騒動、蛤門の変(禁門の変)、長州征伐、鳥羽伏見の戦、戊辰戦争と倒幕、佐幕派が争ったが、時に利あらず、遂には会津藩は「朝敵」の汚名を着せられる結果ととなってしまった。 |
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(写真は 会津墓地) |
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置屋の「輪違屋」は元禄元年(1688)創業の店で、現在の建物は江戸時代末の安政4年(1857)に再建されたもので、当時の花街の建築様式をよく伝えており、京都市の文化財に指定されている。輪違屋は現在も営業中の揚屋と置屋。現在、日本で唯一、太夫がいる店で花扇、司、春日、花琴と呼ばれる4人の太夫がいる。 |
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(写真は 傘の間(輪違屋)) |
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