月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪の熊野古道 

 平安時代に始まった熊野詣は、上皇、天皇、皇族や公家らの貴族から武士、庶民まで身分を問わず、善男善女が熊野の聖地を目指した。その様子を「蟻(あり)の熊野詣」と言った。京の都からの熊野詣は船で淀川を下り、現在の大阪・天満橋付近の渡辺の津に上陸、泉州から和歌山、田辺にいたり、ここから山中の中辺路を通って熊野本宮大社への道がメインルートで、これを「御幸道」と呼んでいた。この沿道の要所には休憩所を兼ねた九十九王子が祀られていた。今もその王子跡が残っている。今回は大阪市内と大阪府下の熊野街道をたどり王子跡を訪ねた。


 
街道の起点(大阪市)  放送 6月28日(月)
 熊野三山へ参拝する熊野詣は平安時代から盛んになり、上皇、天皇や貴族から次第に武士、庶民にまで広がった。熊野街道は「蟻(あり)の熊野詣」と言われるほど、熊野を目指す巡礼者たちの列が続いた。
 京都から熊野三山を目指した人びとは、まず京都・伏見から淀川を船で下って、大阪の天満橋と天神橋の間にあった渡辺の津に上陸した。ここから陸路をたどって熊野へ向かっており、ここが熊野街道が始まりである。江戸時代には渡辺の津に8軒の船宿があったことから八軒家と呼ばれたが、人の往来や物資の動きが盛んになるにつれ、船宿は増え軒を連ね大変にぎわった。今は高層ビルの建つビジネス街に変わり「八軒家船着場跡」の石碑が往時をしのばせる。

坐摩神社行宮

(写真は 坐摩神社行宮)

朝日神明社跡(坂口王子伝承地)

 八軒家から始まる熊野街道には、熊野権現の分霊を祀ったいわゆる九十九王子が、熊野本宮大社までの街道筋に点在する。大阪市内から泉州地方の大阪府下には第一王子社に始まる王子跡が街道筋にいくつもある。
 八軒家の船着場の渡辺の津には窪津王子があったが、今は四天王寺西の堀越神社へ移されている。窪津王子の位置ははっきりしない。南御堂難波別院の西にある坐摩(いかすり)神社が、元は渡辺の津にあった。現在、坐摩神社行宮として祀られている付近に窪津王子があったとの説が有力。坐摩神社は五祭神を総称して坐摩神(いかすりのかみ)と言い、神功皇后が新羅遠征の帰途、創建したと伝わる古社。「いかすり」の語源は諸説あるが土地や居住地を守る「居所知(いかしり)」が転訛したものと言われる。

(写真は 朝日神明社跡(坂口王子伝承地))

 八軒家からの熊野街道(現・御祓筋)のスタート地点に、大阪市が建てた石にはめられた銅板の「熊野かいどう」の案内板の碑があり、熊野街道の紹介文と大和川までの地図が鋳込まれている。
 旧熊野街道を南へ進み、阪神高速道路が走る中央大通りを渡ってさらに進むと南大江公園がある。この公園の南西隅に坂口王子の小さな社がある。かつてこの地にあった朝日神明社が、坂口王子だとの説もあるが定かではない。朝日神明社は現在は大阪市此花区春日出中に移されている。さらに南下し長堀通にぶつかったところに、樹齢650年のエノキの古木と小さな社に祀られた榎大明神に出会う。楠木正成お手植えとも言われ、地元の人たちが「エノキさん」と呼んでいる古木は、本当は中国産の槐(えんじゅ)と言う樹種で、熊野詣、伊勢参りなどの旅人のよき目印だったことであろう。

榎木大明神

(写真は 榎木大明神)


 
熊野権現礼拝石(大阪市)  放送 6月29日(火)
 熊野街道は天満橋から御祓筋を南下し、長堀通にぶつかったところの榎大明神から上町台地を南へ延びて四天王寺いたる。
 当時は御祓筋と長堀通にぶつかる付近まで海が迫っていたので、そのまま南下することができず、左折して上町台地へ方向を転じた。上町台地のどのルートを通ったかははっきりせず、3ルートほどが推測されてる。だが、いずれのルートも上町台地の南端で四天王寺に通じ、その途中に郡戸王子跡、上野王子跡と見られるところには、それぞれ石碑が建てられている。

四天王寺

(写真は 四天王寺)

熊野権現礼拝石

 四天王寺の南門を入ったところに「熊野権現礼拝石」が玉垣に囲まれて保存されている。長さ約
2m、幅約1m、地上部分の高さ約15cmの大きな平らな石が南北に置かれている。この石の上に立ちこれから訪れようとする遥か彼方の熊野権現を拝んだ人たち。熊野までは行けない人たちは「願いだけでも届け」と一心に熊野権現を遥拝したことであろう。
 四天王寺の西門に沈む太陽を見て、西方の極楽浄土に思いをはせる「日想観(にっそうかん)」の修行の場でもあった。浄土信仰が盛んなころの春秋の彼岸の日は、西門の鳥居の中心に沈む夕日を拝み、極楽往生を願う貴族から庶民にいたる参詣者でごった返した。こうした浄土信仰が熊野詣をする人びとを四天王寺へ立ち寄らせ、阿弥陀如来の慈悲にすがり、熊野の神にも望みを託したのであろう。

(写真は 熊野権現礼拝石)

 聖徳太子が四天王寺建立と同時期に、叔父の崇峻天皇をしのんで四天王寺の南西に創建したと言う堀越神社の境内に、八軒家の渡辺の津にあった第一王子の窪津王子が祀られている。ここでは八咫烏(やたがらす)の御朱印が授かれる。八咫烏は神武天皇の東征の道案内をしたとされる三本足のカラスで、日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている。
 かつて四天王寺西門近くに熊野権現の分霊を祀った熊野神社があったが、この神社が豊臣秀吉の大坂城築城の際に移転を強いられた窪津王子を祀ったものとされている。さらに大正4年(1915)窪津王子は現在地の堀越神社に移された。

熊野第一王子之宮(堀越神社)

(写真は 熊野第一王子之宮(堀越神社))


 
府下唯一の王子社(大阪市)  放送 6月30日(水)
 阿倍野から住吉大社までチンチン電車が走る阿倍野筋の路線沿いに南下、途中で旧街道の雰囲気を残す道に入った道路に面して安倍清明神社、その南に「府下唯一旧地現存熊野王子社」と称する阿倍王子神社がある。
 八軒家の渡辺の津を起点にした大阪市、大阪府下の熊野街道には数多くの王子社があったが、今はその姿を消したものがほとんどで、姿を消した王子跡には石碑が立ちその存在を知ることができる。小さな社に祀られている王子社もあるが、いずれも後に建てられたもので、当時のまま残っているのは阿倍野王子だけとなった。

阿倍王子神社

(写真は 阿倍王子神社)

願掛霊鳥

 熊野街道から入る参道中央に「安倍王子旧跡」と刻まれた石柱が立つ石の鳥居をくぐり、阿倍王子神社境内にはいると参道両側に4本のクスノキがあり、このうち3本は神木とされている。参道正面の本殿は昭和42年(1967)に改築されたコンクリート造で、江戸時代末期の旧本殿は総合末社の社殿として境内に残っている。
 境内に人びとの願い事を熊野の本社まで取り次いでくれる「願掛霊烏(がんかけみからす)」と呼ばれる八咫烏(やたがらす)の像がある。八咫烏は神武天皇の東征の道案内をしたとされ、熊野権現の神の使いをするカラスで、阿倍王子神社の願掛絵馬や紅白御幣に願い事を書いて願掛霊烏にお願いすると熊野三山まで届くそうだ。

(写真は 願掛霊鳥)

 阿倍王子神社をあとに熊野街道をさらに南下して現在の住吉区にはいる。住吉大社を過ぎ、さらに進んで長居公園通を横断したところにある墨江小学校の南に、津守王子跡があったと言われているが今は何もない。
 そこから約300mほど進んだところに、後鳥羽上皇が承久2年(1220)の熊野詣の時、行宮を置いたとされる止止呂支比売命(ととろきひめのみこと)神社がある。朱塗りの本殿裏に「後鳥羽天皇行宮址」と刻まれた石碑が立っており、当時、若松御所と称し、この神社を通称「若松宮」と呼ぶのはこの古事に由来している。この止止呂支比売命神社をあとに南下すると大和川の堤防に出る。ここで大阪市内の熊野街道は終わり、遠里小野橋を渡って堺市へと続く。

止止呂支比売命神社

(写真は 止止呂支比売命神社)


 
泉州の神々
(堺市、和泉市、岸和田市) 
放送 7月1日(木)
 熊野街道は大和川を渡り堺市に入る。堺市を含め泉州の熊野街道沿いの王子社は、所在地がはっきりしないものが多い。熊野詣が衰退すると同時に地域の開発が進み、しっかりした記録もないままに姿を消したのであろう。郷土史家らが文献や古老の話などから、王子跡と推定されるところに石碑を建て、後世に伝えようとしているものが多い。
 熊野街道が堺に入り最初の王子が境王子。だがその痕跡は残っておらず、推定地の大阪刑務所の西側の一角に比較的新しい「境王子跡」の碑が建てられている。また、この付近の熊野街道の位置も定かでなく、研究家たちがいろいろと検証して推定ルートを定めている。

境王子跡

(写真は 境王子跡)

大鳥神社

 堺市内で次ぎに目指すのは大鳥居王子(又は大鳥王子)。だか、その途中にある大鳥大社に参拝するのが当時の熊野詣の順路とされていた。平治元年(1159)に熊野詣をした平清盛もこの順路に従い、大鳥大社に参拝し「かいこぞよ かへりはてなば 飛びかけり はぐくみたてよ 大鳥の神」と歌を詠み、その歌碑が境内にある。
 大鳥居王子跡は大鳥大社鳥居前にあったとされているが、ほかに大鳥居王子跡ではないかとされる候補地があり、この王子跡も不明な部分が多い。このあたりから和泉市にかけての熊野街道は、重病の小栗判官を車に乗せ照手姫が引いて熊野詣に行き、湯の峰温泉の薬湯で全快したと言う伝説にちなんで、小栗街道と親しみを持って呼ぶ人の方が多い。

(写真は 大鳥神社)

 大鳥大社を後にして熊野街道は和泉市に入る。和泉市での最初の王子は篠田王子。
だが、この王子も今は姿がなく、熊野街道に面して鎮座する聖神社の近くにあったとされる場所に「篠田王子跡」と刻まれた石碑が建てられている。
 ひっそりとたたずむ篠田王子跡の碑からさらに南下し、平松王子跡を過ぎ和泉の五社を合わせた祀り泉州全体の氏神として崇敬されている泉井上神社に着く。境内には「和泉清水」又は「国府清水」と呼ばれる霊泉が湧き出ている。豊臣秀吉はこの水を大坂城まで運ばせ、茶の湯に用いたとも伝えられている。「和泉」の地名や「泉井上神社」の社名もこの泉に由来していると言う。この神社から井ノ口王子跡を過ぎると熊野街道は岸和田市へと入る。

泉井上神社

(写真は 泉井上神社)


 
貝塚の王子(貝塚市)  放送 7月2日(金)
 岸和田市には池田王子と積川王子があったが、今はその跡地を知らせるものや熊野街道の位置を示す道標も見当たらない。
 岸和田市を過ぎ貝塚市に入る。かつて熊野街道沿いには一里塚があったが、明治時代にほとんど取り壊されてしまった。そうした中で貝塚市の半田一里塚は、ほぼ完全な形で残っている数少ない一里塚である。一里塚は道の両側に一里(約4km)ごとに塚を築き、その上に木を植えて旅人の目安とした。半田の一里塚は熊野街道を往来した旅人のために設けられたものと見られ、高さ約2m、周囲約30mで樹木に覆われている。以前は道路の向かい側にも塚があったが今はない。

半田一里塚

(写真は 半田一里塚)

南近義神社

 貝塚市も他の市町村と同じく熊野街道沿いにあった王子がそのままの形で残っている例はない。貝塚市には浅宇川王子、鞍持王子、近木王子があったが、現存せずその跡を示すものもない。浅宇川王子はJR阪和線東貝塚駅南東500mほどの半田地区にあったと推測され、のちに近くの阿理莫神社に合祀された。鞍持王子は阪和線和泉橋本駅のすぐそばにあったようだが、今はそれを示すものはない。
 さらに進むと南近義(みなみこぎ)神社の森が見え、この近くに近木王子があった。
その場所は吉祥園寺か善正寺、正福寺付近ではないかとの説があるが、決定的なものはない。鞍持王子も近木王子も今は南近義神社に合祀されている。

(写真は 南近義神社)

 吉祥園寺付近に近木王子があったのではないかとの説の根拠にされているのは、白河法皇、後鳥羽上皇が熊野詣の折に、吉祥園寺で昼食をとったとの記録があるからだ。
 吉祥園寺は白鳳時代の創建と言われ、戦国時代の戦乱で焼失するまでは壮麗な堂塔が建ち並んでいた。本尊の十一面観音像は海から貝に乗って現れたとの伝説があり、吉祥天女像は日本霊異記に記されている説話のある像。こうした寺院なら法皇や上皇が食事をしても不思議ではない。
 熊野の霊場へ向かう熊野街道はさらに泉佐野市、泉南市、阪南市を経て紀州へ入る。

吉祥園寺

(写真は 吉祥園寺)


◇あ    し◇
八軒家船着場跡、坐摩神社行宮京阪電鉄、地下鉄谷町線天満橋駅下車。
坐摩神社地下鉄御堂筋選、中央線、四つ橋線本町駅下車徒歩3分。
朝日神明社跡・坂口王子跡地下鉄中央線、谷町線谷町4丁目駅下車徒歩10分。
榎木大明神地下鉄中央線松屋町駅又は谷町6丁目駅、
谷町線谷町6丁目駅下車徒歩3分。
四天王寺地下鉄谷町線四天王寺夕陽ケ丘駅下車徒歩5分。 
JR、地下鉄天王寺駅、近鉄南大阪線阿部野橋駅下車
徒歩それぞれ15分。
堀越神社JR、地下鉄天王寺駅、近鉄南大阪線阿部野橋駅下車
徒歩5分。
阿倍王子神社、安倍晴明神社阪堺電気軌道上町線東天下茶屋駅下車徒歩3分。
止止呂支比売命神社南海電鉄高野線沢ノ町駅下車徒歩3分。 
境王子跡南海電鉄高野線堺東駅下車徒歩6分。 
大鳥大社JR阪和線鳳駅下車徒歩10分。 
篠田王子跡JR阪和線北信太駅又は信太山駅下車徒歩30分。
泉井上神社JR阪和線和泉府中駅下車徒歩5分。 
南近義神社、吉祥園寺JR和泉橋本駅下車徒歩15分。 
南海電鉄本線二色浜駅下車徒歩15分。
◇問い合わせ先◇
坐摩神社06−6251−4792 
四天王寺06−6771−0066 
堀越神社06−6771−9072 
阿倍王子神社06−6622−2565 
止止呂支比売命神社06−6671−0443 
大鳥大社072−262−0040 
泉井上神社0725−44−8182 
南近義神社0724−23−5258 
吉祥園寺0724−23−1654 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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