月〜金曜日 18時54分〜19時00分


高野山 

 修験道のメッカ「吉野・大峯」、熊野信仰の霊地「熊野三山」、真言密教の聖地「高野山」とその参詣道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として、このほどユネスコの世界遺産に登録された。今回はその中から高野山を訪ねてみた。


 
空海の聖域  放送 8月2日(月)
 標高約1000mの高野山は、弘仁7年(816)弘法大師・空海によって開かれた真言密教の聖地。山麓の九度山町の慈尊院から高野山の大門へといたる参道には、1町(約109m)毎に五輪卒塔婆型の町石が立っており、参詣者を高野山へと導いてくれる。これを高野町石道と言う。
 延暦23年(804)30歳で中国・唐へ留学した空海は、長安で密教の奥義を極め、師の恵果阿闍梨から「伝えるべき法はすべて伝えた。日本へ帰り国家の安泰、国民の幸福のために仏法を流布せよ」と言われた。大同元年(806)空海は帰国に際し、中国・明州の浜で「伽藍(がらん)建立の地を示したまえ」と仏具の三鈷を宙に投げた。

町石

(写真は 町石)

胎蔵界大日如来像

 唐から帰国した空海はこの三鈷の行方を探し求めていた時、大和で出会った猟師に案内され、山中で会った神が化身した女性に導かれ高野山の入った。その高野山の松の枝に三鈷が留まっているのを見つけ、この地こそ真言密教にふさわしい地として定めた。
 高野山の地を嵯峨天皇から下賜され、ここに伽藍の建立を始めた。まず大塔、金堂をはじめ諸堂、僧坊を建設し、高野山全体を金剛峯寺と名づけ真言密教の立教と開宗を宣言した。この高野山開創の地を壇上伽藍と言う。奥の院とともに高野山の二大聖地であり、現在もこの地に「三鈷の松」が植えられている。その松葉は3本に分かれている珍しい松である。

(写真は 胎蔵大日如来像)

 参道を上り詰めた所にある高さ25.1mの大門(国・重文)は高野山の総門。
現在の建物は江戸時代中期の宝永2年(1705)に再建されたものである。
 壇上伽藍に空海が真言密教の根本道場として建立したのが根本大塔。多宝塔としては日本で最初のもので、高さ48.5mの大塔内陣には、胎蔵界大日如来像を中心に四方に金剛界の四仏が安置されている。内陣の16本の柱には堂本印象画伯が十六大菩薩を描いている。一山の総本堂の金堂は何度も焼失、現在の金堂は昭和7年(1932)に再建され、高村光雲作の薬師如来像を本尊として安置している。御影堂は空海の住坊だったが、弘法大師の御影を祀るようになってこの名がつけられた。

御影堂

(写真は 御影堂)


 
金剛峯寺  放送 8月3日(火)
 金剛峯寺は高野山に弘法大師が開創した密教の根本道場で、その当時は高野山全域の総称だった。現在の金剛峰寺は豊臣秀吉が文禄2年(1593)に亡き母の菩提を供養するために建立した青巌寺を、明治元年(1868)に金剛峯寺に改称した。
 高野山は度々火災に見舞われ、現在の金剛峯寺本殿は江戸時代末期の文久2年(1862)に再建されたもので、全国3600余りの真言宗寺院を統括する総本山で、宗務一切を司る宗務庁がある。また高野山真言宗管長兼金剛峯寺座主(住職)の住坊にもなっている。真言密教の根本経典「大日経」をもとにした座禅瞑想法の阿字観の修行をする阿字観道場も境内にある。

大広間

(写真は 大広間)

柳の間

 本山の重要な儀式、法事が行われる大広間のふすまの「群鶴」の絵は狩野元信の筆と伝えられている。大広間正面の持仏間(一般家庭の仏壇)には弘法大師を祀り、両側には歴代天皇の位牌が祀られている。
 狩野探斎の四季の柳がふすまに描かれていることから「柳の間」と呼ばれるこの部屋は、文禄4年(1595)秀吉の甥の秀次が自害させられた所で「秀次自刃の間」とも言われている。このほか梅の間、奥殿、奥書院、新書院、別殿のふすまにも、それぞれ見事なふすま絵が描かれており、訪れた人たちに感銘を与えている。

(写真は 柳の間)

 天皇、上皇らが高野山に参詣した時、応接の間に当てられた上壇の間は、金箔押しの壁、天井は格天井となっており、上上壇の格天井はすべて花の彫刻が施されている。欄間は透かし彫りになっているなど、その豪華さには目を見張る。現在は本山の重要儀式の場に使われている。
 奥殿の前にある蟠龍(ばんりゅう)庭は、石庭としてはわが国最大で2340平方mもある。白砂で現された雲海の中に雌雄一対の龍が向かいあい、奥殿を守っているように表現されている。龍は四国産の青花崗岩140個、雲海の白砂は京都の白川砂が使われている。

蟠龍庭

(写真は 蟠龍庭)


 
奥の院  放送 8月4日(水)
 死期が迫った空海は承知2年(835)3月15日、高弟たちを集め「3月21日が自分が入定する日である」と予言し、弟子たちが守らなくてはならない25カ条の遺告(ゆいごう)を示した。予告した日に結跏趺坐(けっかふざ)し、大日如来の定印を結び真言を唱えながら、生身のまま仏となって62歳で入定した。後に醍醐天皇から弘法大師号を贈られた。
 弘法大師が祀られている御廟を中心とする大師信仰の聖地が奥の院で、即身成仏した大師は、今日も生き続けていると考えられ、生前と同様に一日も欠かさず食事の給仕が続けられている。ご詠歌の「ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだ おわしまする」は、大師が今日もなお生きて人びとを救ってくださると詠じている。

織田信長供養塔

(写真は 織田信長供養塔)

豊臣秀吉供養塔

 奥の院への入口の橋を「一の橋」と言う。正式には「大渡橋」または「大橋」と言い、大師が参詣人をここまで送り迎えするとの伝承がある。「一の橋」から御廟まで老杉が高くそびえ、生い茂る約2kmの参道の両側には、皇族、戦国武将、諸大名、文人、庶民、あらゆる階層の人びとの20万基を越える墓碑、供養塔が立ち並ぶ。
 有名人の墓石、供養塔、石碑群をあげると親鸞、平敦盛、熊谷直実、上杉謙信、武田信玄・勝頼、柴田勝家、織田信長、豊臣家、明智光秀、石田三成、千姫、大岡越前守、徳川吉宗、伊達政宗、井伊直弼、浅野内匠頭、赤穂四十七士など。高野山は日本第一の死者供養の霊場であり、宗派を越えた日本の総菩提所であることをこの墓原が示している。

(写真は 豊臣秀吉供養塔)

 御廟の手前にある燈籠堂には千年近く燃え続けている二つの“消えずの火”がある。そのひとつが貧しい女性が、父母の菩提のために自らの髪の毛を切り、それを売った金で献じた「貧女の一灯」である。このほか堂内には先祖の供養、家内安全などを祈って奉納された燈籠が堂内いっぱいに光り輝いている。
 燈籠堂は弘法大師の後を継いだ二世・真然大徳が建立し、後に藤原道真が現在に近い大きさの籠籠堂を建立した。現在の燈籠堂は昭和39年(1964)に建て替えられたが、堂内が献燈籠でいっぱいになったため、東側に隣接して昭和59年(1984)弘法大師御入定1150年を記念して、鉄筋コンクリート造の記念燈籠堂が建立された。

燈籠堂

(写真は 燈籠堂)


 
密教美術の輝き  放送 8月5日(木)
 高野山は1200年にわたる長い歴史の中で、栄枯盛衰を繰り返してきた。その間に自然災害や火災、明治維新の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)などで、優れた文化遺産の焼失、散逸があった。しかし現在なお、山内117寺院には膨大な量の文化財があり、文化財の宝庫、仏教芸術の殿堂と言われている。
 高野山霊宝館はこうした山内の文化財、仏教芸術品を保護し、一般公開するために大正10年(1921)に開館した。国宝、重要文化財をはじめ5万点以上の仏像、書画などを収蔵、この建物自体も登録有形文化財に指定されている。その後も指定文化財が増え、収蔵庫を増設して貴重な文化財の保存に努めている。

不動明王像

(写真は 不動明王像)

仏涅槃図

 高野山霊宝館には現在、国宝21件(4686点)、国指定の重要文化財142件(1万3884点)、和歌山県指定文化財13件(2850点)のほか、未指定の文化財を含め5万点以上を収蔵している。
 その中の代表的なものを数点紹介する。不動堂(国宝)に安置されていた不動明王像(国・重文)と八大童子像(国宝)。不動明王像は左目をやや細め、口元からは上下の歯牙が露出している怖い表情の仏像で、平安時代後期の作。八大童子像は本尊を守護する脇侍で、8体のうち6体は運慶の作とされ、ヒノキの寄木造りで鎌倉時代の量感のある作風がよく現れている。両界曼荼羅(りょうかいまんだら=国・重文)は、平清盛が頭の血を絵の具に混ぜて描かせたことから血曼荼羅とも呼ばれている。

(写真は 仏涅槃図)

 仏涅槃図(ぶつねはんず=国宝)は、釈迦が沙羅双樹の下で入滅する情景を描いたもので、涅槃会の本尊として用いられてきた。この涅槃図には平安時代の応徳3年(1086)の墨書銘があり、現存する多くの涅槃図の中で最古の作。 またその優雅で気品あふれる表現は、日本仏画の最高傑作と呼ばれている。
 西塔の本尊・大日如来座像(国・重文)は、山内に現存する仏像の中で最も古い。
弘法大師が中国から持ち帰ったと伝えられる諸尊仏龕(しょそんぶつがん=国宝)は、白檀の丸材を二等分し、さらにそのひとつを二等分して三面開きにした各材に釈迦如来像を中心に諸菩薩像が細かく彫られている。

大日如来像

(写真は 大日如来像)


 
宿坊の楽しみ  放送 8月6日(金)
 蓮の花弁に見立てられた高野山の山並みに囲まれた聖地・高野山の山内には117の寺院がある。そのうち53の寺は一般人の人たちも宿泊できる「宿坊」となっている。
 日ごろは仕事などに追われ、心を落ち着けて考えることのできる場所や時間のない人たちにとって、宿坊に泊まり、落ち着いた雰囲気の中での体験は、貴重なひとときになるかもしれない。各宿坊では早朝の勤行や写経、阿字観(あじかん)、護摩供養などに参加でき、修行体験をすることができる。各宿坊によってすべての修行が体験できるとは限らないので、高野山宿坊組合に問い合わせ、体験したい修行のできる宿坊を紹介してもらうのがよい。

恵光院

(写真は 恵光院)

精進料理

 宿坊での一番の楽しみは精進料理の食事であろう。肉、魚抜きの料理だが、旬の野菜や山菜など、食材本来の味を生かすために手間をかけて調理されている。品数も豊富で、観光地の旅館の食事とは一味違う。和歌山らしいおいしい果物も並んでおり、見方を変えれば贅沢な食事とも言える。
 食事の用意、寝具のふとんの上げ下げなどの身の回りの世話は、若い修行僧がやってくれる。これも宿坊ならではの体験である。木造建築の客間でぐっすりと眠り、すがすがしい朝を迎え本堂での朝の勤行に加わり、仏様の前で読経すればストレスも取れ、心はさわやかになるかもしれない。

(写真は 精進料理)

 高野山ならではの修行体験が阿字観。阿字観は真言密教の根本経典「大日経」をもとにした座禅瞑想法。真言宗ではすべての言葉の始まりを「阿」とし、梵字の「阿」は本尊・大日如来そのもので大宇宙を表す。結跏趺坐(けっかふざ)し、手で法界定印を結び半眼でゆっくり呼吸し、心に「阿」を描き瞑想することで、大日如来と自分を含めた大自然が一体であることを体感する。宿坊で阿字観の修行ができる所もあるほか、前もって予約しておけば金剛峯寺の阿字観道場での修行を宿坊で手配してくれる。
 このほか恵光院では毘沙門堂での護摩供養に参加し、商売繁盛や家内安全、交通安全などの祈祷を受けることができる。

毘沙門堂

(写真は 毘沙門堂)


◇あ    し◇
高野山内各寺院、奥の院南海電鉄高野線極楽橋駅で高野山ケーブルに乗り換え
高野山駅下車、山内を巡回する南海りんかんバスで
それぞれの目的地で下車。山内一日フリー乗車
券(800円)が便利でお得。
◇問い合わせ先◇
和歌山県観光連盟073−422−4631 
高野山観光協会・高野山宿坊組合0736−56−2616
総本山・金剛峯寺0736−56−2011 
壇上伽藍(伽藍納経所)0736−56−3215 
高野山霊宝館0736−56−2029 
恵光院0736−56−2514 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

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                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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