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月〜金曜日 18時54分〜19時00分 |
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京都市・清水 |
京都の観光スポットで人気が高く、参詣者の絶えることのないのが清水寺と清水の舞台。清水寺の参道とも言える五条坂には清水焼の店が軒を連ね、この一帯は京焼のひとつ清水焼の窯元が多く、戦前までは登り窯の煙突からから真っ黒な煙を吐き出していた。今回は東山の名刹のひとつ清水寺と清水焼の陶芸の一端をのぞいてみた。 |
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音羽山の山中から湧き出る清水が三筋の滝となって落ちている音羽の滝は、創建以来絶えることのない清水で日本十大名水のひとつにあげられ、清水寺の寺名もここから起こったと言われている。観音霊場としての御詠歌にも「まつかぜや おとわのたきの きよみずを むすぶこころは すずしかるらん」と詠まれている。 |
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(写真は 音羽の滝) |
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清水焼の守護神的な存在となった陶器神社の祭として、毎年8月7日から10日まで催される陶器祭と陶器市は、大勢の人でにぎわう京都の夏の名物となっている。 |
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(写真は 陶祖神社) |
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雅な焼物を追求していた清水焼の業界にも第2次世界大戦の重苦しい空気が押し寄せてきた。資材不足から鉄製品の供出が強要され、寺院の梵鐘、大阪の通天閣まで供出させられていた時、金属の代用品として陶製手榴弾の製造が命じられた。この陶製手榴弾は敗戦後に処分されたが、このほど藤平陶芸で所蔵品を整理していたところ、256個の陶製手榴弾が見つかった。藤平陶芸では戦争の苦しみを多くの人に知ってもらおうと、8月13日から約1ヵ月間、併設の「ギャリー・カフェ・ふじひら」で、この陶製手榴弾の展示会を開いている。 |
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(写真は 手榴弾) |
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この建物のもうひとつの大きな特徴は、2階へ通じる吹き抜けの空間である。そして吹き抜けの中央に設けられた滑車の存在がユニーク。この滑車は建築時に資材の運び入れに用いたものをそのまま残し、その後も滑車を使って2階への重量物の搬入をしていたようだ。 |
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(写真は 真鍮煙管) |
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大正13年(1924)思想家・柳宗悦と出会ったことが寛次郎にとって大きな転機となる。初め柳は寛次郎の作風を「模倣に過ぎない」と手厳しく批判、これに対し寛次郎は雑誌で反論するなどペンでやりあった間柄だった。この柳と東京高等工業学校(現東京工業大学)時代に知り合い、生涯の友として共に作陶の道を歩んだ後輩の浜田庄司の3人で「民芸運動」を提唱した。 |
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(写真は 木彫像) |
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