月〜金曜日 18時54分〜19時00分


福井・あわら市、三国町 

 芦原町と金津町が平成16年3月に合併して新しいあわら市が誕生した。新市・あわら市は、合併後も名湯・芦原温泉を核に、北陸観光の拠点としての新たな町づくりをしようとしている。あわら市に隣接する三国町は、海岸美を売り物にする東尋坊、越前松島で知られている。今回は越前の名湯と海岸美を訪ねた。


 
芦原湯の町(あわら市)  放送 9月6日(月)
 JR北陸線福井駅でえちぜん鉄道に乗り換え、福井市の北、どこまでも広がる稲田の中を電車に揺られること40分足らずで、芦原温泉の玄関口「あわら湯のまち駅」に着く。
 芦原温泉の歴史は比較的浅く、明治16年(1883)芦原町堀江十楽地区で、農民が灌漑用の井戸を掘っていたところ、水ならぬ塩分を含んだ湯が噴き出したのが始まりとなった。当時は土地の名を取って十楽(じゅうらく)温泉と呼び、付近の農民や湯治客を相手の湯屋を開いた。その後、田中々や舟津、二面などで温度の高い新しい泉源が掘り当てられ、新しい温泉街へと発展していった。

温泉発祥地公園

(写真は 温泉発祥地公園)

与謝野晶子歌碑

 最初に温泉が湧き出た泉源付近は温泉発祥地公園となっており、農民が掘った井戸も保存され、芦原温泉発祥の由来を記した記念碑が立っている。明治22年(1889)当時の舟津村阿原(あわら)の地名を取って芦原村となり、新しく生まれた温泉街も芦原温泉と名を変え、明治45年(1912)の鉄道の開通などと相まって関西方面からの温泉客が増えた。泉質はナトリウム、カリウムに富み、飲用としては胃カタルや胃酸減少、浴用としてはリウマチ、皮膚炎、神経痛などに効能がある。
 文人、墨客の訪れも多く、与謝野晶子が「越の国 あはらの湯場の 雪にさす いみじく清き あけぼのの色」と詠んだ歌碑が立っている。

(写真は 与謝野晶子歌碑)

 芦原温泉は戦後間もない昭和23年(1948)の福井大地震で大きな被害を受けた。さらに昭和31年(1956)には、町の半分が焼ける芦原大火に見舞われた。
温泉旅館も26軒のうち19軒が焼け、被害総額は50億8000万円、1軒当りに平均すると2億6800万円に達する甚大な被害を受けた。しかし、温泉街はそのつど力強く復興し、その度に近代的な温泉街へと発展していった。
 JRの北陸トンネル、北陸自動車道の開通などで関西方面からの交通の便が良くなり、北陸観光を兼ねた温泉客が増えた。にぎわう温泉街ではみやげ物を買い求めたり、そば屋さんでは、越前そばの代表格とも言えるおろしそばに舌鼓を打つ温泉客も多い。

越前おろしそば(そば処福乃家)

(写真は 越前おろしそば(そば処福乃家))


 
湯宿の趣(あわら市)  放送 9月7日(火)
 芦原温泉は「関西の奥座敷」とか「おしゃれ湯の町」と呼ばれ、北陸地方屈指の名湯で、近代的な和風造りの旅館が軒を並べ、風格のある温泉街を形成している。
 もともと田んぼの中に湧き出した温泉で、これと言ったメインになる観光資源もなかったところから、どの旅館も建物と庭園づくりにそれぞれ趣向を凝らし競ってきた。
温泉街に入ると軒を連ねる和風造りの玄関が温泉客を出迎えてくれる。いずれも広々とした堂々たるもので、このような玄関に迎えられた温泉客の気分もゆったりとする。

芦原温泉

(写真は 芦原温泉)

開花亭・庭園

 昭和31年(1956)の芦原大火で温泉旅館のほとんどが焼け、新しく建て替えられた時にこうした豪壮な構えの玄関を持つ建物になった。
 この大火の時、旅館の当主や従業員は、燃える建物や家財道具類よりも、庭園に火が燃え移るのを心配したと言う。それほど芦原温泉の旅館にとっては、庭園が大切な財産であった。各旅館とも建物の奥に日本古来の伝統を生かした日本庭園を設けた。
湯上がり後にくつろきながら、部屋から眺める豪華で静かな日本庭園の風情は、芦原温泉ならではのものだと、温泉客の人気が高い、

(写真は 開花亭・庭園)

 創業100年の開花亭は天皇をはじめ皇族や多くの文人、墨客、俳優らに愛された宿。玄関を入ると奥には銘石や石灯籠が点在し、築山あり、滝あり、池ありの広さ1万平方mの回遊式大庭園があり、この庭を囲むように各部屋が配されている。
 どの部屋からも、露天風呂からも、それぞれ異なった大庭園の景色が愛でられる。
和室の部屋で庭を眺めながらいただく海の幸、山の幸の料理の味も格別と言える。こうした趣向は館内の施設にも取り入れられ、鉄筋コンクリート造りの高層ホテル風の温泉旅館には真似のできない、ゆったりとした温泉気分を満喫させてくれる。

開花亭・料理

(写真は 開花亭・料理)


 
恩師への想い・
藤野厳九郎記念館(あわら市) 
放送 9月8日(水)
 芦原温泉街のはずれ、芦原中学校の南の丘の上、芦原観光会館のそばに建つのが藤野厳九郎記念館。藤野は明治7年(1874)芦原町で医師の3男として生まれ、仙台医学専門学校(現東北大学医学部)で教べんをとっていた。
 この仙台医専に明治37年(1904)当時の清国から23歳の留学生が入学してきた。この学生が中国の革命運動にかかわり、後に「阿Q正伝」などを著した文豪・魯迅(本名周樹人)その人であった。当時の日本には中国を蔑視する風潮があり、学生たちの間にも魯迅に対し何かと差別的な言動があった。そうした中で藤野は真摯な気持ちで魯迅に接し、親切にノートの添削や指導をした。こうしてふたりの間には深い師弟関係が築かれていった。

「藤野先生」

(写真は 「藤野先生」)

藤野厳九郎記念館

 ふたりの交流、魯迅の師への想いは、後に小説「藤野先生」となって世に出される。その中で魯迅はこう書いている。「私のノートは、最初から最後まで、全部朱を入れて添削しあるではないか。たくさんのぬけたところが書き加えてあるばかりでなく、文法のまちがいまでいちいち訂正してあった」と。この作業は藤野が担任したすべての学科が終わるまで続けられた。
 また魯迅が仙台医専を中途退学して文学を目指す決意をし、藤野に別れの挨拶に行った時、藤野は自分の写真の裏に「惜別」の二文字を書いて与えた。魯迅は清国へ帰ってからも、この写真を机の前の壁に掲げて敬愛し、くじけそうになった時などには、恩師の写真を見て勇気を奮い立たせたと「藤野先生」の中で述懐している。

(写真は 藤野厳九郎記念館)

 藤野は幼少のころから父に漢文、漢学を学び、中国5000年の悠久の歴史に目を開かせた。こうした中国への思いが、仙台医専での魯迅に対する師弟愛に結びつく遠因ともなった。
 藤野は仙台医専を退職した後、生まれ故郷の芦原町で医院を開き町医者として尽くした。藤野厳九郎記念館は藤野が晩年住んでいた居宅で、昭和58年(1983)芦原町が魯迅の出身地・中国浙江省紹興市と友好都市の締結をした時、遺族から芦原町に寄贈された。翌年の芦原温泉開湯100周年の記念事業として現在地に移築され、記念館としてオープンした。別棟の資料展示室には藤野の遺品である書籍、医療器具、書簡などが展示され、藤野の人柄を知ることができる。

福円寺

(写真は 福円寺)


 
神の島・雄島(三国町)  放送 9月9日(木)
 あわら市から三国町の東尋坊、三国港にいたる海浜ドライブウエーのほぼ中間、梶漁港と崎漁港の間に点在する小島や岩礁が越前松島。岩礁に松の緑が風情を添える越前松島は、日本三景の松島に似ていることからこの名がついた。東尋坊と同じように安山岩の柱状節理の岩礁が露呈しているが、東尋坊の大断崖と異なり、奇岩、奇礁が見どころ。松島の名に恥じない景勝地は遊歩道で結ばれ、一周20分ほどで磯歩きが楽しめる。
 近くには世界最大の甲殻類のタカアシガニなどをはじめ約300種の魚類、貝類、海藻類を飼育、展示している越前松島水族館や江戸時代後期に沿岸警備のために丸岡藩が築いた砲台跡などがある。

越前松島

(写真は 越前松島)

雄島

 越前松島と東尋坊のほぼ中間にあるのが雄島。島へは224mの朱塗りの橋が架けられており歩いて渡れる。越前海岸では最大の島で、地元の人たちは神の島と崇めてきた。約1200万年前に噴出した安山岩からなる島で、外海に臨んだ断崖には見事な柱状節理の岩礁が見える。
 雄島は1000年以上も斧が入れられたことがない常緑広葉樹が繁茂する樹林が広がり、その原生林が神秘的な雰囲気を漂わせ、自然の景観が良く保たれている。特にヤブニッケイの純林は全国でもあまり例がなく、学術的にも貴重な樹林とされている。島には島内一周の遊歩道があり、約30分ほどでひと周りできる。

(写真は 雄島)

 雄島の南東部にこの地域の漁民の信仰を集めている大湊神社がある。大湊神社の鳥居がちょうど島の入口のようになっており、鳥居をくぐり78段の急な石段を登りきると社殿がある。現在の社殿は江戸時代初めの元和7年(1621)福井藩2代藩主・松平忠直が寄進したもので、桐材の一間社流造で一部に極彩色や金蒔絵が施されている。
 大湊神社は大宝元年(701)の創建と言われており、社伝には源義経が海上安全を祈願して兜を寄進したことが記されている。室町時代には一乗谷城主・朝倉氏の祈願所となっていた。社宝の平安時代の木像男神座像はケヤキの一木造で憤怒の相が神像の威厳を備えており、ほかに鎌倉時代の女神座像も祀られている。

大湊神社

(写真は 大湊神社)


 
大自然の芸術・東尋坊(三国町)  放送 9月10日(金)
 三国港の北をスタートして東尋坊にいたる荒磯遊歩道は、奇岩、奇礁、断崖を眺めながら歩け、越前海岸の大自然の造形を満喫することができる。遊歩道沿いにある三国ゆかりの高見順、三好達治、高浜虚子らの文学碑や変化に富んだ海と岩の風景を眺めながら歩を進めると、やがて国の天然記念物に指定されている天下の奇勝・東尋坊に出る。
 東尋坊はマグマが冷却して固まる時にできる柱状の割れ目の柱状節理が隆起した高さ70mの岩の絶壁が、約1kmにわたってそそり立っている。この雄大な自然の造形美の断崖に、日本海の荒波が打ち寄せる豪快な眺めは、ここ東尋坊でならではの景観である。

三好達治文学碑

(写真は 三好達治文学碑)

ライオン岩

 雄大な断崖絶壁の先端が海に没するあたりには奇岩、奇礁が連なっている。ロウソク岩、ライオン岩、舟着岩、千畳敷などの名前がつけられ、その名の通りの大自然が創造した芸術作品が人びとの目を楽しませてくれる。断崖の下からは遊覧船も出ており、海から眺めるこの大自然の造形美はまた違った迫力で迫ってくる。この荒々しくも美しい人知を越えた自然の景観に、訪れた観光客らは驚嘆し、満足する。
 この雄大な自然の造形美の東尋坊の名が、1300年前の悪名高い僧兵の名に由来すると言う伝説がもっともらしく感じられる。

(写真は ライオン岩)

 現在の勝山市にあった平泉寺は、数千の寺坊を持つ大寺で数多くの僧兵を抱えていた。僧兵の一部は非道の限りをつくし、近郷の民、百姓を苦しめる悪僧兵たちだった。その悪僧兵の旗頭とも言えるのが東尋坊と言う名の僧兵で、手を焼いていた寺は何とか追い出そうと策をめぐらし、これも強力で知られる寺侍の真柄覚念に頼んだ。
 覚念は東尋坊を三国見物に誘い、酒盛りをして東尋坊を前後不覚に酔いつぶし、断崖から海に突き落としてしまった。ところが毎年、突き落とされた日なると海が荒れたので、東尋坊の亡霊のたたりだと言われるようになった。僧侶が絶壁の上で東尋坊の供養をしたところ海の荒れるのは収まったことから、このあたりの海岸を東尋坊と呼ぶようになったとの伝えが残っている。

東尋坊観光遊覧船

(写真は 東尋坊観光遊覧船)


◇あ    し◇
芦原温泉えちぜん鉄道三国芦原線あわら湯のまち駅下車。 
JR北陸線芦原温泉駅からバスで芦原湯町下車。
芦原温泉発祥地公園えちぜん鉄道三国芦原線あわら湯のまち駅下車徒歩8分。
JR北陸線芦原温泉駅からバスで芦原湯町下車徒歩8分。
藤野厳九郎記念館えちぜん鉄道三国芦原線あわら湯のまち駅からバスで
芦原中学校前下車徒歩3分。
越前松島えちぜん鉄道三国芦原線三国港駅からバスで
越前松島水族館前下車。
雄島えちぜん鉄道三国芦原線三国港駅からバスで安島下車
徒歩10分。
東尋坊えちぜん鉄道三国芦原線三国港駅からバスで東尋坊下車。
◇問い合わせ先◇
あわら市役所商工観光課0776−73−8029 
芦原温泉観光協会、
芦原温泉旅館協同組合
0776−77−2040
福乃屋(おろしそば)0776−77−2075 
開花亭(旅館)0776−77−2525 
藤野厳九郎記念館0776−77−3331 
三国町役場商工観光課0776−82−3111 
三国町観光協会0776−82−5515 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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