月〜金曜日 18時54分〜19時00分


神戸市 

 国際都市・神戸市は海と六甲山に挟まれ東西に広がる都市。その西部の須磨、垂水区には、まだ白砂青松の浜辺が残り、六甲山麓には自然を取り入れた公園などが多い。
また源平合戦の戦場となったところでもあり、その悲話や史跡が戦のむなしさを伝えている。


 
兵庫津  放送 9月20日(月)
 現在の兵庫区あたりの海岸は、平安時代の昔から天然の良港として栄えた。平清盛が治承4年(1180)に都を神戸・福原に遷都したり、兵庫津を日宋貿易の拠点としたことなどからさらににぎわい発展を続けた。
 兵庫津の南端、三菱重工業神戸造船所内にある和田岬砲台は、幕末にロシア艦が大阪湾に来航したことで情勢が緊迫。大阪湾防備の強化を迫られた幕府は、阿波、明石、紀州の各藩に沿岸に砲台を作るよう命じて作られた砲台のひとつ。砲台の設計、建設は当時の軍艦奉行・勝海舟に命じられ、和田岬砲台も勝の設計によるもので、元治元年(1864)に完成した。

和田岬砲台跡

(写真は 和田岬砲台跡)

和田岬灯台

 和田岬砲台は直径14m、高さ11.5mの円形で、外部は花崗岩の石造、内部は木造になっている。1階は弾薬庫となっており、砲身冷却用の井戸もある。2階には11の砲門があり、屋上にも16門の大砲が装備できるようになっている。だが、実際に大砲が乗せられることはなかった。
 能福寺は中国・唐に留学していた最澄が帰国した時、和田岬に上陸した縁で最澄が自ら彫った薬師如来像を安置して建立したと伝えられている。後に平家一門の帰依を受け、清盛はこの寺で剃髪、出家した。福原遷都に失敗した清盛は、再び都を京都へ戻した翌年の治承5年(1181)に死亡、当時の能福寺の住職・円実法眼が清盛の遺骨を持ち帰り寺に納骨した。

(写真は 和田岬灯台)

 なんと言っても能福寺で目を引くのが、平成3年(1991)に再造立され、野外にどっかりと座っている高さ11mの兵庫大仏。この大仏は明治24年(1891)兵庫の豪商が造立、奈良、鎌倉の大仏とともに日本三大仏と言われていた。第2次世界大戦中の昭和19年(1944)に金属回収のため供出させられ、台座だけの姿になっていた。
 能福寺から南へ歩いて5〜6分のところに、高さ9.3mの石造十三重塔が立つ清盛塚がある。鎌倉幕府の執権・北条貞時が清盛の霊を弔うために弘安9年(1286)建立したとされている。すぐそばには清盛像や平経正の琵琶の名器「青山」を埋めたと言う琵琶塚がある。

兵庫大仏

(写真は 兵庫大仏)


 
源平ゆかりの名刹・須磨寺  放送 9月21日(火)
 平安時代末の寿永3年(1184)須磨のあたりは一の谷の戦など源平合戦の戦場となり、この戦を優勢に進めた源氏が平氏を海に追い落とした。この激戦の地に生じた数々の悲話が今に伝わっており、その源平合戦にゆかりの古刹が、須磨寺の名で知られている上野山福祥寺。
 漁師が和田岬の海底から拾い上げたと言われた聖観世音菩薩像を会下山・北峯寺に安置していた。この聖観世音菩薩像が霊験があらたかなことから、光孝天皇の勅命で聞鏡が仁和2年(886)に須磨寺を創建。北峯寺に安置されていた聖観世音菩薩像(国・重文)を安置した。

六観音菩薩

(写真は 六観音菩薩)

源平の庭

 広い境内には慶長7年(1602)豊臣秀頼が再建した本堂、須磨のお大師さんで知られる大師堂などの諸堂が建ち並んでいる。本堂内陣の宮殿(国・重文)は南北朝時代のもので、下層が唐様、上層が和様の折衷様式となっている。
 境内には源平合戦の数々の遺跡やモニュメントがある。平家物語の中でも最も哀れを誘うエピソードとして知られるのが、平家の公達・敦盛と源氏の武将・熊谷次郎直実の一騎打ち。須磨寺境内の源平の庭にはその一騎打ちの場面を再現した馬上の鎧武者姿のふたりの像がある。

(写真は 源平の庭)

 熊谷は少年だった敦盛を討ったことが心の傷として残っていた。さらに戦で命を落とした多くの武者の霊を弔うため、後に浄土宗の開祖・法然上人のもとに走って出家、蓮生坊と名乗り仏門で武者たちの霊を供養した。
 敦盛が熊谷に討たれるまで身につけていた遺愛の「青葉の笛」が、一の谷合戦錦絵など源平ゆかりの品々とともに宝物館で展示されている。さらに境内には討ち取られた敦盛の首を洗ったと言われる敦盛首洗い池、近くに敦盛首塚もある。一の谷合戦後に源義経が腰をかけて敦盛の笛と首を検分したと言う腰掛の松など、820年前の源平合戦をしのばせる遺跡が戦のむなしさを今に伝えている。

敦盛首塚

(写真は 敦盛首塚)


 
緑と水のオアシス  放送 9月22日(水)
 山陽電鉄須磨浦公園駅から須磨浦ロープウェイに乗り換え約3分、海抜246mの鉢伏山の山上に着く。ここからは神戸の市街地や大阪湾、瀬戸内海が一望できる素晴らしい眺めが楽しめる。さらにカーレーター、観光リフトを乗り継いで進むと須磨浦山上遊園の各施設があり、子供連れで遊具などが楽しめる。
 須磨寺の東北、海から約1kmの高台に広がる須磨離宮公園は、元は明治45年(1912)から大正3年(1914)にかけて造営された武庫離宮だった。この武庫離宮は西本願寺・大谷光瑞貫首の別荘だったものを買収して離宮にした。

須磨浦山上遊園

(写真は 須磨浦山上遊園)

須磨離宮公園

 武庫離宮は大正天皇が療養に使われたり、昭和天皇が宿泊されたりもしたが、第2次世界大戦の戦火で焼失した。戦後、この離宮用地が神戸市に払い下げられたが、進駐軍が射撃練習場として使用、昭和31年(1956)やっと神戸市に返還された。
神戸市はこの旧武庫離宮跡地を昭和33年(1958)皇太子(現天皇)御成婚記念事業として公園化することにし、造成工事を始め昭和42年(1967)に開園した。
 六甲山の山麓に抱かれた自然の中に「松と石と水」をテーマに造成された須磨離宮公園は、神戸市民はもとより広く近畿の市民の憩いの場となり「日本の都市公園100選」にも選ばれた。

(写真は 須磨離宮公園)

 須磨離宮公園は約112haの広大な土地に、77.4haの公園と5.2ha植物園からなっている。公園のテーマである松・石・水はそれぞれの施設に表現されている。松は海岸から始まり、離宮道の並木、正門の石垣、園内から裏山へと続いている。石は離宮道の縁石、園内の石垣、流れ落ちる滝の周辺など、あらゆる所にさまざまな石が巧みに配置されている。
 離宮公園のメインは何と言っても水。レストハウス前から湧き出したように現れた水は、滝となるメインフォールから段々の滝となるカスケード、そしてメインの噴水広場の大噴水となり、さらに池やショウブ園へと旅をし、最後には海へ流れ込む。隣接の植物園では四季の花が咲き、秋には紅葉が楽しめる。

噴水広場

(写真は 噴水広場)


 
グランブルーの世界・
須磨海浜水族園 
放送 9月23日(木)
 万葉の昔から松林と白砂の美しさで知られた須磨の浜辺一帯はは須磨海浜公園となっている。夏は阪神間で最大の海水浴場として海水浴客で埋めつくされ、子供連れの家族たちで大にぎわいとなる。他の季節もヨットやウインドサーフィンなどのマリンスポーツを楽しむ人たちで年中にぎわっている。
 須磨海浜公園内には須磨海浜水族園、ヨットハーバー、野球場、国民宿舎などのレジャー施設が整っている。公園の西端には和田岬から移された日本最古の鉄骨造の和田岬灯台が、浜辺にアクセントをつけている。

須磨海浜水族園

(写真は 須磨海浜水族園)

ラッコ

 須磨海浜公園の東にある神戸市立須磨海浜水族園は、飼育水族約500種、2万点と言う日本最大級の水族園。
2万4000平方mの敷地にサメやエイ、小魚の大群が泳ぐ「波の大水槽」の「世界のさかな館」、アマゾン川に棲む世界最大の淡水魚・ピラクルなど、アマゾン川に生息する魚類や両棲類など40種が水中トンネルで見られる「アマゾン館」、可愛い4頭のラッコが人気を集めている「ラッコ館」、この水族園で生まれた「スマイル」をはじめ4頭のイルカがいる「イルカ館」のほか、ひょうきんな仕草を見せるマゼランペンギンが泳ぐペンギンプールやウミガメプールなど楽しい見どころがいっぱい。

(写真は ラッコ)

 イルカライブ館では4頭のイルカがさまざまなパフォーマンスを見せてくれる。
一番大きなオスのイルカは、おだてられるとご褒美の魚がもらえなくてもジャンプをする。300kgもある体の側面を水面にたたきつけるスプラッシュジャンプで迫力ある水しぶきをあげ、観客にしぶきをかけるサービスをする。
 もう1頭のオスのイルカはプールサイドを歩く人に「ねえ、遊ぼうよ」と胸びれを振ってアピールする。メスのイルカは演技中に「これでいいの?」とトレーナーの顔をチラチラと横目で見る。「大丈夫だよ」とうなずくと安心して演技を続けると言う。
水族園生まれのオスのイルカ「スマイル」は、先輩イルカに演技の邪魔をされても、最後までやり抜く頑張り屋さんだ。自分たちの演技に盛んな拍手をしてくれた観客にプールサイドで握手のサービスもしてくれると言うから楽しみだ。

イルカライブ館

(写真は イルカライブ館)


 
日中の架け橋孫中山記念館  放送 9月24日(金)
 明石海峡大橋のたもとにある八角三層の異国風の楼閣は、移情閣(いじょうかく)と呼ばれている孫中山(そんちゅうざん)記念館。明石海峡を望む白砂青松の舞子浜は、古くから風光明媚な景勝地として知られ、明治時代から旅館や別荘が建ち並んでいた。
 この地に大正4年(1915)神戸華僑の豪商・呉錦堂(ごきんどう)が別荘として建てたのが八角形をした3階建ての移情閣。八角のそれぞれの窓から見える明石海峡、淡路島、六甲山などの景色が刻々と移り変わることから移情閣と名付けられたとも、あるいは遠い故郷・中国に情を移すとの意味からの命名とも言われている。1階天井には黄金を使った龍、2階にはサンゴを使ったボタンの花と鳳凰の彫刻で飾られている。

孫中山記念館

(写真は 孫中山記念館)

金庫紙

 平成6年(1994)から始まった解体修理工事中に、1階カーテンボックス裏から金唐紙(きんからかみ)が見つかった。明治から大正時代にかけて鹿鳴館や国会議事堂など一流の建物に使われたのが金唐紙。解体修理を機に移情閣でもこの金唐紙が復元された。
 中国革命の父・孫文=号・中山(1866〜1925)が大正2年(1913)に神戸に着いた時、呉錦堂や神戸の中国人の財界有志が温かく迎え、移情閣で歓迎昼食会を催した。移情閣は昭和57年(1982)神戸華僑総会から兵庫県に寄贈され、2年後に孫文との関わりから「孫中山記念館」として一般公開された。館内には孫文に関する著書、書、新聞記事、写真などの資料約300点が展示されている。

(写真は 金唐紙)

 明石海峡大橋の建設が本決まりとなり、JR舞子駅周辺や国道2号の拡幅に伴って移情閣も約200m海側への移転が決まった。これを機会に舞子浜の別荘文化を語る建築物、日中交流の歴史を語る文化遺産として、本格的な解体修理工事がされることになった。
 解体修理では建築当時のものを忠実に復原するため英国製タイルを英国で製作するなど、いたる所に忠実な復原作業が行われた。また、阪神淡路大震災の教訓を生かし耐震性を高めるための補強も行われ、平成12年(2000)一連の工事が終わり再オープンした。近代技術の粋を集めた明石海峡大橋と移情閣、沈む夕日に浮かぶ明石海峡大橋と移情閣など新しい景観が生まれ、舞子浜公園の新名所になっている。

孫文愛用の天目台茶碗

(写真は 孫文愛用の天目台付茶碗)


◇あ    し◇
和田岬砲台
   (三菱重工業神戸造船所内)
JR和田岬線、地下鉄海岸線和田岬駅下車
徒歩10分。
JR山陽線神戸駅からバス和田岬下車徒歩10分。
能福寺(兵庫大仏)、清盛塚JR山陽線兵庫駅下車徒歩10分。 
須磨寺(福祥寺)山陽電鉄須磨寺駅下車徒歩5分。 
JR山陽線須磨駅下車徒歩12分。
須磨浦山上遊園山陽電鉄須磨浦公園駅下車、
須磨浦ロープウェイで鉢伏山上駅下車。
須磨離宮公園山陽電鉄月見山駅又は須磨寺駅下車徒歩10分。 
JR山陽線須磨駅下車徒歩18分。
須磨海浜公園、須磨海浜水族園JR山陽線須磨駅下車徒歩15分。 
JR山陽線須磨駅からバス須磨海浜水族園下車。
山陽電鉄月見山駅下車徒歩10分。
孫中山記念館(移情館)JR山陽線舞子駅下車5分。 
山陽電鉄舞子公園駅下車徒歩7分。
◇問い合わせ先◇
神戸市観光交流課078−322−5339 
和田岬砲台
   (三菱重工業神戸造船所総務課)
078−672−2221
能福寺(兵庫大仏)078−652−1715 
須磨寺(福祥寺)078−731−0416 
須磨浦山上遊園078−731−2520 
須磨離宮公園078−732−6688 
須磨海浜公園078−734−5652 
須磨海浜水族園078−731−7301 
孫中山記念館(移情館)078−783−7172 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会