月〜金曜日 18時54分〜19時00分


八幡市・石清水八幡宮 

 京都市の南に位置する八幡市は、北西で木津川、宇治川、桂川の三川が合流し、対岸には天下分け目の戦いが行われ天王山があり、古くから交通、政治、戦略上の要衝の地とされてきた。この要衝の地で天王山と相対峙する八幡市の男山に鎮座する石清水八幡宮は、まさに国家鎮護の神であり、古くから朝廷、武門から篤い崇敬を受けてきた。
今回は全国の八幡神社のシンボル的存在とも言える石清水八幡宮を拝観した。


 
男山に座す神々  放送 9月27日(月)
 京都の南、八幡市男山(142.5m)の東麓に鎮座する石清水八幡宮は、貞観元年(859)九州の宇佐神宮に参籠していた奈良・大安寺の高僧・行教が「都付近に移座し、国家鎮護にあたらん」との神託をうけ、八幡大神をこの地に勧請したことに始まる。朝廷は男山に本殿などを造営し、八幡大神を祀った。
 男山は都の裏鬼門に当り北西の天王山と対峙し、木津川、宇治川、桂川の三川が合流するなど、交通の要衝をしめている。こうした政治上でも重要な地点に鎮座している石清水八幡宮は、国家鎮護に重要な意味を持ち、皇室や時の権力者の崇敬が篤く、たびたびの国難を救ってきたとされる。

南総門

(写真は 南総門)

本殿楼門

 石清水八幡宮の名称は今も男山の中腹から湧き出ている霊泉「石清水」に因んでいる。明治元年
(1868)男山八幡宮に改称されたが、大正7年
(1918)再び石清水八幡宮に戻された。天皇、上皇の行幸、御幸は天元2年(979)円融天皇以来、明治10年(1877)の明治天皇の行幸まで250余におよんだ。
 石清水八幡宮は武門の神、弓矢の神として武家からも崇拝されていたほか、厄除けの神、安産の神としても崇められ、多くの参拝者が祈願している。宇佐(大分県)、筥崎(福岡県)の八幡宮とともに日本三大八幡宮の一つとされている。

(写真は 本殿楼門)

 参詣には山麓からケーブルカーの利用が便利だが、うっそうと茂るクスノキ、アラカシ、シイ、ツバキなどの樹林の中に続く、九十九折の参道を一歩一歩登ってゆくのもすがすがしい気分にさせられる。本殿に続く石畳の参道の両側には、寄進された石灯籠がびっしりと並んでいる。鎌倉時代の永仁3年(1295)の銘がある石灯籠と鎌倉時代後期のものと見られる高さ6mの石造五輪塔は、いずれも国の重要文化財に指定されている。
 境内の神苑にはエジソン記念碑が立っている。エジソンが発明した炭素電球のフィラメントに使用した竹が、この地のものであったことに由来する。

若宮社(左)、若宮殿社(右)

(写真は 若宮社(左)、若宮殿社(右))


 
敬神の美  放送 9月28日(火)
 石清水八幡宮の八幡大神は武門の神、守護神として崇められてきた。特に河内源氏一族は、義家が石清水八幡宮で元服して八幡太郎義家と名乗ったことなどもあって、源氏一門は氏神として仰ぎ、全国に八幡宮を祀った。足利、豊臣、徳川の各一門も石清水八幡宮を、武門の神としての崇敬ぶりは変わることがなかった。
 その社殿は平安時代から室町時代にかけて3度焼失し、現在の本殿(国・重文)は、寛永11年
(1634)徳川家光によって造営されている。家康を神のごとく崇めていた家光だけに、本殿や楼門の意匠、装飾などは日光東照宮との類似点が多く、江戸時代初期の桃山風神社建築の様式をよく伝えており、東照宮造営にかかわった多くの職人が参加したと考えられる。

古神像

(写真は 古神像)

群鳩図絵馬(丸山応挙 筆)

 本殿は八幡造と呼ばれる様式で、外陣(外殿)と内陣(本殿)に分かれ、その間に合の間が作られている。外陣と内陣の間に掛かっている金銅の雨樋は、長さ21.6m、内径54cmと言う巨大な樋。天正7年(1579)織田信長が大山崎の宝積寺に雨宿りをしていた時に、石清水八幡宮の木樋が破損しているのを聞いて修理を命じ、翌年、黄金色に輝く樋を寄進したと伝えられている。
 本殿正面の楼門は、桧皮葺きの屋根が見事な反りを見せ、その下の向拝の唐破風などにも江戸時代前期の豪壮な神社建築の威厳が感じられる。唐破風の下には龍虎の透かし彫りが施されている。

(写真は 群鳩図絵馬(円山応挙 筆))

 本殿や楼門などの細部を飾る花鳥などの巧緻な透かし彫りは152点にのぼり、建立時はその極彩色と相まって多くの人びとの目を奪ったことかと想像される。西門上にある蟇股(かえるまた)の「目貫き猿」の彫り物には、猿が夜に抜け出していたずらをするので、右目に細い釘を刺して封じたとの伝承がある。
 神宝の校倉宝庫から見つかった8体の古神像群は、今も唇や衣装に彩色が残っており、優美で雅な雰囲気を漂わせている。ほかに円山応挙筆による「群鳩図絵馬」や祭神のひとり、神功皇后の三韓出兵などを描いた「八幡宮縁起絵巻」(国・重文)などがある。

八幡宮縁起絵巻(石清水八幡宮文書)

(写真は 八幡宮縁起絵巻(石清水八幡宮文書))


 
松花堂昭乗  放送 9月29日(水)
 石清水八幡宮の八幡大神は神でもあるが、仏でもあるとされ「八幡大菩薩」とも呼ばれた。
遷座当初は石清水寺(後に護国寺と改称)と言う寺があり、神社と寺は一体となっており僧侶が主導権を握っていた。このように石清水八幡宮は神仏習合の形態を取り、その歴史は長く続いた。かつて山中には男山48坊と言われた多数の僧坊が散在していたが、今は参道脇にその名残の石垣が見られるのみとなっている。
 そうした僧坊に暮らした社僧のひとりに松花堂昭乗(1582?〜1639)がいる。
昭乗は摂津・堺の生まれで、17歳の時、石清水八幡宮の滝本坊実乗のもとで剃髪、昭乗と名乗り、真言密教を学びやがて阿闍梨になった。師の実乗が亡くなった後、滝本坊の住職となる。

昭乗自画像

(写真は 昭乗自画像)

草庵茶室 松花堂

 昭乗は56歳で滝本坊の住職を弟子に譲り、滝本坊近くの泉坊に草庵茶室「松花堂」を構え、号も「松花堂」と名乗った。今も石清水八幡宮本殿東下の山麓に松花堂跡がある。
 風流三昧の生活を送った昭乗は和歌、書、絵画、茶の湯など多方面に秀でていた。特に書にかけては近衛信尹(のぶただ)、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称され、流麗な書風の松花堂流の祖となり、徳川将軍家の書道の師範にもなった。晩年、茶室「松花堂」には、作庭の名手・小堀遠州、禅僧・沢庵宗彭、大徳寺の僧・江月宗玩、儒学者・林羅山、漢詩人・石川丈山らを始め多くの文化人が会した。こうした時代を桃山文化と元禄文化のちょうど谷間に位置したので寛永文化とも言った。

(写真は 草庵茶室 松花堂)

 寛永時代の文化人が集まった茶室「松花堂」は、明治維新の神仏分離の際に男山の麓に遷され、さらに明治24年(1891)男山の南東、八幡市女郎花の地に移転させられた。現在は八幡市立松花堂庭園として整備され、茶室と泉坊書院、泉坊庭園が復元され、ありし日の昭乗をしのぶことができる。復元された茶室「松花堂」は茅葺きの宝形造りで一見すると仏堂のようで、天井には極彩色の日輪と
2羽の鳳凰が描かれている。ほかに松花堂資料館や3つの茶室が作られ、茶室は一般に有料で貸し出されている。
 名高い松花堂弁当は、昭乗が愛用していた内部が四つに区切られた、木製の絵具箱(一説にはたばこ盆)を模した塗箱に料理を盛りつけたもので、ここ八幡が発祥の地。
松花堂庭園内の吉兆・松花堂店で名物の松花堂弁当(要予約)を賞味することができる。

松花堂弁当(吉兆)

(写真は 松花堂弁当(吉兆))


 
石清水祭  放送 9月30日(木)
 石清水八幡宮最大の例祭は9月15日の石清水祭。この石清水祭は山すその放生川に魚や鳥を解き放つ石清水放生会を催し、諸々の霊を慰める祭で、石清水八幡宮が九州の宇佐神宮から勧請されて遷座した4年後の平安時代の貞観5年
(863)に始められた。
 その後、天暦2年(948)朱雀天皇が勅使を遣わして国家安寧と国民の幸福を祈られて以来、毎年、天皇が勅使を派遣する勅祭となった。また、雅楽寮の楽人、舞人が楽舞を奏することが定められたり、太政官勤務の最上位の上卿(じょうけい)が勅使となり、参議以下の朝廷の諸官を率いて参列し、天皇行幸に準じた形式をとるようになった。

御鳳輦

(写真は 御鳳輦)

御鳳輦発御

 石清水祭は朝廷から遣わされた上卿と呼ばれる勅使を迎え、午前2時、本殿で三座の神霊を3基の御鳳輦(ごほうれん)に遷す儀式から祭は始まる。午前3時、3基の御鳳輦は約500人の神人(じにん)と呼ばれる供の人びとを従え、松明と提灯の明かり中を山麓の頓宮(とんぐう)へ向かう。頓宮へ入る前に頓宮前にしつらえられた絹屋殿に到着した御鳳輦を迎え里神楽が奏される。
 絹屋殿は4本の堀立柱に支えられた臨時の建物で、四方に白絹を張り巡らしているのでこう呼ばれている。この後、御鳳輦が頓宮へ入り石清水祭はいよいよクライマックスを迎える。

(写真は 御鳳輦発御)

 石清水祭は京都の賀茂祭、奈良の春日祭とともに三大勅祭のひとつに数えられ、平安時代の王朝絵巻を見るような優美典雅な祭の形式を現代に伝える正統祭祀と言える。
 この祭は室町時代の文明年間(1469〜87)から約200年間中断し、江戸時代の延宝7年
(1679)に再興された。明治維新の大改革による神仏分離令が出たことなどから、石清水放生会の名は仲秋祭、男山祭となり、その後、石清水祭となった。戦後の混乱期に一時中断があったが、平安時代の古いしきたりに従ったままの祭として今日に続いている。

絹屋殿著御の儀

(写真は 絹屋殿著御の儀)


 
石清水祭放生会  放送 10月1日(金)
 石清水祭で約500人の神人(じにん)と呼ばれる平安風俗の供の人びとを従え、絹屋殿に入った
3基の御鳳輦(ごほうれん)は、勅使らの一向に迎えられて頓宮(とんぐう)に入る。頓宮では天皇の奉納品である御弊物や神饌(しんせん)などが古いしきたりに従って神霊に供えられ、上卿(じょうけい)が国家繁栄、国民の安泰、世界平和を願う天皇の御祭文を奏上する。
 御祭文に使われる紙も鶏卵の殻のような淡黄色の色をした、鳥子紙と言われる和紙と決められている。また、上卿や宮司らが祭儀で行う所作は、平安時代に行われていた形式もので独特な作法と言われている。

御馬牽廻

(写真は 御馬牽廻)

放生会

 石清水祭で供えられる神饌は石清水八幡宮独特のもので、御飯(おんいい)、焼鳥など火を通した熟饌(じゅくせん)とサケ、ブドウ、ナスなど火を通さない生饌(せいせん)に供花の3種。
 頓宮の神前での祭儀が終わり、2頭の神馬が神前を3周する御馬牽廻(けんかい)があり、雅楽の奉納、八幡の産土神として頓宮の南門脇に鎮座する高良神社に朝御饌(あさみけ)が供えられる。午前8時、いよいよ祭は終盤に近づき、頓宮の東を流れる放生川で大勢の人たちが魚や鳥を放つ放生行事が行われる。

(写真は 放生会)

 この放生会は宇佐神宮の放生会にならって、八幡大神がこの地に遷座した4年後の貞観5年
(863)から始まった。仏教の教えによって生類の殺生を慎み、捕らわれた魚や鳥を川や山に解き放ち、祖霊を追善供養する善行を勧めたもので、多くの人びとがこの放生会に参加する。
 放生川に架かる安居橋(あんごばし)の上では、優美で可憐な「胡蝶の舞」が奉納される。夕刻、御鳳輦が本殿に戻り未明の午前2時から始まった石清水祭は終了する。

胡蝶の舞

(写真は 胡蝶の舞)


◇あ    し◇
石清水八幡宮 京阪電鉄八幡市駅下車、男山ケーブルで男山山上駅下車。 
八幡市立松花堂庭園 京阪電鉄八幡市駅、又は樟葉駅からバスで大芝下車。 
◇問い合わせ先◇
石清水八幡宮 075−981−3001 
八幡市役所商工観光課 075−983−1111 
八幡市立松花堂庭園 075−981−0010 
吉兆松花堂店 075−971−3311 

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