月〜金曜日 18時54分〜19時00分


滋賀・東近江 

 湖東の東近江は古くから開け、さらに渡来人が住みつき大陸文化や技術が根づき、飛鳥時代には万葉ロマンの里とも言われた。近江源氏発祥の地でもあり、由緒ある社寺も多い。戦国時代には織田信長が安土城を築くなど幅広い歴史に包まれた東近江を訪ねた。


 
万葉ロマンの里(蒲生町)  放送 10月18日(月)
 蒲生町は額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子の情熱的な相聞歌が生まれた蒲生野の地、そして万葉歌人・山部赤人終焉の地でもあった。額田王は大海人皇子に胸を焦がし「あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守はみずや 君が袖振る」と詠めば、大海人皇子が「紫野の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも」と詠んだ。額田王らがこの歌を詠んだ蒲生野は、蒲生町蒲生堂あたりと言われている。このあたりは今でも日野川の流れに沿ったのどかな田園地帯で、当時も心を癒してくれる風景が広がっていたのであろう。
 5世紀ごろに築造された木村古墳群の保護と活用のため整備された、史跡公園・あかね古墳公園には、一辺が65mの方墳の天乞山古墳と直径57mの円墳の久保田山古墳が復元され、悠久の歴史を現代人に知らせている。

あかね古墳公園

(写真は あかね古墳公園)

赤人寺・七重塔(重文)

 蒲生町下麻生には万葉歌人・山部赤人ゆかりの山部神社と赤人寺(しゃくにんじ)が隣接して建っている。赤人寺の本尊・如意輪観音像は、赤人が詠んだ有名な歌の静岡県田子の浦から迎えて安置したと伝えられている。境内にある赤人桜は別名・冠かけの桜とも呼ばれ、赤人がこの桜の枝に冠をかけたところ、はずれなくなったので、赤人はこの地に永住するようになったと言われている。境内に立つ石造七重塔は鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されている。
 山部神社には赤人の歌を刻んだ歌碑が立っており、江戸時代末の歌人・渡忠秋が刻んだものである。春には町内の高木神社、旭野神社との三神社合同の国の無形文化財のケント祭が行われる。

(写真は 赤人寺・七重塔(重文))

 蒲生町は明治27年(1894)謄写版印刷機を発明した堀井新治郎父子の生地であり、ガリ版伝承館が懐かしいガリ版印刷時代の思い出をかき立ててくれる。堀井父子は毛筆が主流だった明治時代、大量に同じ文章を簡単に印刷する方法の研究に財力をつぎ込み、鉄筆で書いた印刷原紙から印刷する簡易印刷機を考案、謄写版と名づけた。この発明は明治時代の印刷手段に一大革命を起こし、大学や会社、官庁などで手軽な印刷機として使われるようになり、コピー機が登場するまで大活躍した。
 ガリ版伝承館にはガリ版印刷1号機やガリ版印刷機材、明治、大正時代のガリ版印刷物などが展示され、実際にガリ版印刷が体験できるコーナーもある。

ガリ版伝承館

(写真は ガリ版伝承館)


 
太郎坊宮(八日市市)  放送 10月19日(火)
 八日市市内を一望のもとに見おろす、標高350mの赤神山(別名・太郎坊山)の中腹に建つ阿賀神社は、通称・太郎坊宮、地元では「太郎坊さん」と呼び親しまれている。
太郎坊とはこの社を守護する天狗のことで、京都・鞍馬山の次郎坊天狗の兄と言われているが、昔の行者の姿を天狗として伝えたのが真相のようだ。
 創建は約1400年前で、聖徳太子が近くに瓦屋寺を建立した時、この神社が霊験があらたかなことを聞き、国家安泰と万民の幸福を祈念した。平安時代初めに伝教大師・最澄も参籠し、その後、50有余の社坊を建立したと伝わる。現在は殊に勝運の神様として篤い信仰を集めており、ほかにも商売繁盛や家内安全、無病息災、厄除けなどを願う参詣者が多い。

本殿

(写真は 本殿)

夫婦岩

 本殿の周りには多くの巨岩、奇石が散在しており、その中でも本殿前にある高さ数十mの夫婦岩は、二つの巨岩がわずか80cmの隙間をあけて向かい合う巨岩信仰の御神体・磐座(いわくら)である。この夫婦岩は神の神力よって巨岩を左右に押し開かれたと伝えられ、悪心のある者がこの狭い隙間を通ると途端に挟まれ、無事通り抜けた人は病苦が取り除かれ、その他の願い事がかなうと言われている。
 裏参道(女坂)の途中にある一願成就社は、参拝者自身が願掛け神事を行う神社。お百度詣りの願掛け道や石に願いを書いて納める石塚がある。

(写真は 夫婦岩)

 源頼朝が東国に去った後、鞍馬山から奥羽に向かう途中の義経は、太郎坊宮に参拝して源氏再興を祈願している。源平の戦に勝利した頼朝は、上洛する際に当宮に参拝しており、その後、近江国守護職の佐々木氏がこの神社を崇敬し、保護していたが、織田信長との戦の時にほとんどの社坊が焼失している。
 7月23、24日の千日大祭は、この日に参拝すれば千日間の日参と同じご利益があると言われ、多くの参拝者でにぎわう。12月8日のお火焚大祭は、全国各地から祈りを込めて奉納された神木に火をつけて燃やす神道護摩が祭の中心で、護摩の燃えた後を歩く火渡り神事が修験者によって行われる。この二つの祭が太郎坊宮での最も大きな祭である。

一願成就社

(写真は 一願成就社)


 
西国三十三カ所第32番札所・
観音正寺(安土町) 
放送 10月20日(水)
 日本のほぼ中央、近江国のそのまた中央、日本のへそとも言うべき所に位置する繖山(きぬがさやま)の中腹にひっそりとたたずむ古刹が、西国三十三カ所第32番札所・観音正寺である。参道入口から1300段の石段は三十三カ所霊場中一番の難所となっている。
 寺伝によれば推古天皇13年(605)この地を訪れた聖徳太子が、湖中から目の前に現れた人魚が「前世に漁師だった私は、殺生をこととしたため、このような姿になった。
その罪をあがないたい」との哀願を聞き、千手観世音菩薩像を刻み、堂宇を建立したのが縁起と言う。中世には近江源氏の佐々木氏の崇敬も篤く、僧坊75を数え大きな勢力を擁する寺になっていた。

聖徳太子像

(写真は 聖徳太子像)

本堂

 戦国時代、近江源氏の六角氏が繖山に観音寺城を築いたため、諸堂は山麓に移転を強いられた。永禄11年(1568)観音寺城は落城して焼失、廃城後の慶長10年(1605)山上の旧寺地に諸堂が再建され、それ以後、霊場詣の参詣者でにぎわった。
 明治15年(1882)彦根城の旧槻(けやき)御殿を移して建てられた本堂は、平成5年(1993)5月22日に焼失、同時に千手観音菩薩像も焼失してしまった。岡村潤應住職は本堂の再建に向けた托鉢を続ける中で、白檀の香木を衆生の中に安置すれば、その香りで諸々の罪業が消滅するとの「不空羂索神変真言経」の言葉を思い出し、本尊は総白檀の丈六千手千眼観世音菩薩像を造立することを決意した。

(写真は 本堂)

 住職のこの決意に大きな難題が立ちはだかった。白檀原木を仏教伝来の地、インドで求めようとしたところ、白檀は輸出禁止品目になっており入手不可能とわかった。岡村住職は20回以上もインドを訪れ、インド政府と交渉を重ねた結果、格別の計らいで輸出が特別許可された。その調印式の時、インド商務省の長官は「ヒンズー教の神さまと観音正寺の観音さまが話し合って許可を決められました」とあいさつした。
 京都市の大仏師・松本明慶さんの手で彫り進められた総白檀の丈六千手千眼観世音菩薩座像は、像の高さ3.5m、光背も含めると高さ6.3mにもなる大観音座像。2004年5月22日、本堂落慶法要、本尊・千手千眼観世音菩薩座像開眼法要が行われ、信者らの念願がかなった。
御詠歌は「あなとうと みちびきたまえ かんのんじ とおきくにより はこぶあゆみを」。

千手千眼観世音菩薩

(写真は 千手千眼観世音菩薩)


 
佐々木源氏発祥の地
(安土町) 
放送 10月21日(木)
 繖山(きぬがさやま)の頂上近くに、今は石垣や礎石を残すのみの観音寺城跡は、中世の近江国守護職であった近江源氏嫡流の佐々木氏(後の六角氏)の居城跡で、佐々木城跡とも言う。築城年代は定かでないが、応仁2年(1468)六角高頼が、家臣の伊庭行隆、山内政綱らに命じて築城させ、以後、次第に整備して典型的な山城となった。南麓の石寺は城下町としてにぎわい、天文18年(1549)わが国初の楽市の制が敷かれたところでもある。
 永禄11年(1568)織田信長の上洛軍を迎えた六角義賢、義治父子が城を捨て、甲賀に逃げ以後は廃城になった。城跡には本丸跡の石垣、石段や平井丸、落合丸、池田丸と呼ばれる三つの城郭跡が残り、往時の堅城ぶりをしのばせている。

観音寺城跡

(写真は 観音寺城跡)

沙沙貴神社・楼門

 昭和44年(1969)から2年間にわたる発掘調査で、本丸跡付近から曲水の宴を催したと見られる遣り水(やりみず)の遺構、大夫殿の池と言われる籠城に備えた命水、雨水の排水溝などが発見され、茶器、硯、水指、杯、鉢、皿、壺なども出土した。
 近江源氏は宇多天皇の流れの汲む宇多源氏の子孫が、近江国の佐々木荘に住みつき佐々木を名乗った。平安時代末期、佐々木秀義が源頼朝の平家追討に加わって武勲をあげ、鎌倉幕府成立とともに近江国守護職に任じられた。源義仲追討の宇治川の戦で梶原景季と先陣争いをして有名になった佐々木高綱は秀義の四男。

(写真は 沙沙貴神社・楼門)

 この佐々木氏の氏神として栄えたのが沙沙貴(ささき)神社で、うっそうと茂る杉の森に建ち並ぶ社殿の棟には、佐々木氏の家紋「四目結(よつめゆい)」が神紋として刻まれているほか、随所にこの紋が見られる。茅葺きの豪壮な楼門をくぐると正面に拝殿、権殿、本殿が建ち並び、由緒ある神社らしいたたずまいを見せている。
 この神社は奈良、平安時代に近江国の蒲生、神崎の豪族として君臨した狭々城山君(ささきやまぎみ)の祖神を祀ったのが起こりで、後に近江源氏・佐々木氏の氏神として崇敬されるようになった。現在、佐々木氏の子孫は全国に約300万人とも言われ、旧大名の京極氏、黒田氏、旧財閥の三井氏や明治の軍人・乃木希典大将らもその子孫で、乃木さんは沙沙貴神社の境内社として祀られている。

沙沙貴神社・社殿

(写真は 沙沙貴神社・社殿)


 
伊庭内湖と大水車(能登川町)  放送 10月22日(金)
 JR能登川駅南の猪子山中腹の観音堂の岩屋の中に、高さ55cmの石造十一面観世音菩薩像が安置され、北向観音と呼ばれている。奈良時代に安置されたと言われており、古くから地元の人たちの信仰を集めていた。平安時代、坂上田村麻呂が鈴鹿峠の鬼退治に向かう際、この岩屋に籠もり十一面観世音菩薩像に武運を祈願したとの伝えがある。この観音堂から眺める湖西の比良の山並みは素晴らしい。
 能登川町で人気を集めているのが、琵琶湖の内湖、伊庭(いば)内湖畔の親水公園「能登川水車とカヌーランド」にある関西一の直径13mの大水車で、遠くの琵琶湖上からも人目をひいている。

北向岩屋十一面観音

(写真は 北向岩屋十一面観音)

伊庭内湖

 能登川水車は今は実用として使われてはいないが、その歴史は古く7世紀前半に朝鮮半島の高句麗の僧・曇徴が水車の原型を日本へ伝え、それが能登川の地へも伝わったと言われている。水に恵まれたこの地では家や小屋に水車を設置し、川の流れを活用して精米や製粉を行った。多い時には36基もの水車が活躍していたが、昭和46年(1971)にすべて姿を消した。
 能登川水車は大きなものは直径6mもあり、その巨大な姿に加え効率良く水車を回す水受け羽根や、水車の動力を調整する木製歯車などの工夫が凝らされていたのが特徴だった。

(写真は 伊庭内湖)

 能登川水車とカヌーランドには、13mの大水車のほかに直径5mの水車を備えた、高床式のユニークな建物の水車資料館がある。明治時代から昭和30年代まで活躍した水車の部品や石臼などが並べられている。
 資料館に備えられている水車を利用して、希望者から預かった玄米を無料で精米している。水車での精米は機械による精米より時間がかかるが、精米時に熱を出さず、ぬかと一緒につくので潤いのある白米になり、栄養価のある胚芽が傷つきにくいのでおいしいご飯になると言われている。
 公園内には芝生広場がひろがり子供連れで楽しく遊べ、湖畔にはレンタルカヌーもあり、初心者は指導を受けながら湖上でのカヌーが楽しめる。

能登川水車とカヌーランド

(写真は 能登川水車とカヌーランド)


◇あ    し◇
あかね古墳公園JR東海道線近江八幡駅から
バスで蒲生下車徒歩2分。 
山部神社、赤人寺JR東海道線近江八幡駅から
バスで麻生口下車徒歩8分。 
ガリ版伝承館JR東海道線近江八幡駅から
バスで岡本下車徒歩2分。 
太郎坊宮(阿賀神社)近江鉄道太郎坊宮前駅下車徒歩15分。 
観音正寺JR東海道線安土駅下車徒歩90分。 
JR東海道線安土駅からタクシーで
桑実寺まで行き徒歩50分。
観音寺城跡JR東海道線安土駅下車徒歩40分。 
沙沙貴神社JR東海道線安土駅下車徒歩10分。 
北向岩屋十一面観音JR東海道線能登川駅下車徒歩10分。 
能登川町水車資料館JR東海道線能登川駅下車タクシーで10分。 
JR東海道線能登川駅下車、
レンタサイクル利用が便利、約30分。
◇問い合わせ先◇
蒲生町役場産業課、
蒲生町観光協会、
山部神社、赤人寺
0748−55−4885
あかね古墳公園、ガリ版伝承館
(蒲生町教委)
0748−55−4893
八日市市役所商工観光課、
八日市市観光協会
0748−24−1234
太郎坊宮(阿賀神社)0748−23−1341 
安土町役場地域振興課、
安土町観光協会
0748−46−7201
観音正寺0748−46−2549 
沙沙貴神社0748−46−3564 
能登川町役場都市整備商工課、
能登川町観光協会
0748−42−9913
能登川町水車資料館0748−42−3000 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
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          郵便番号 530−6691
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歴史街道推進協議会