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月〜金曜日 18時54分〜19時00分 |
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文芸、学問の都・大阪 |
古代から都があった関西には歌や文学、雅な文芸が盛んだった。そうした土壌で独特の難波文芸が花開き、浄瑠璃、文楽、歌舞伎、芝居などで演じられるようになった。文学も大阪独特の人情を描写したものが、なにわっ子に受けたようだ。今週はこうした大阪が育んだ文芸と学問の一部にスポットを当ててみた。 |
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料亭・浮瀬は姿を消したが、芭蕉が詠んだ松風の句の句碑はそのまま残り、大阪星光学院が開校してからも校地にあった。星光学院は昭和58年(1983)に高校創設30周年の記念事業として、浮瀬で絶唱の句を詠んだ芭蕉の句碑や、浮瀬を訪れたことのある蕪村の句碑を建立し、句碑の周辺を整備して「浮瀬俳跡蕉蕪園」と名づけ、史跡として後世に伝えた。浮瀬に元からあった松風碑を除く芭蕉、蕪村の句碑は、星光学院高校の27期、28期、29期の卒業生たちが、卒業記念として建立した。 |
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(写真は 芭蕉堂(梅旧院)) |
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「夫婦善哉」は、苦労にもめげず、明るく、たくましく生き抜くしっかり者の大阪女の蝶子と、放蕩に明け暮れるぐうたら亭主の柳吉との男と女の生活を描いた。遊んで帰ってきた柳吉が「なんぞ、うまいもん食いに行こか」と蝶子を誘い、法善寺境内にあるぜんざい屋で夫婦ぜんざいを食べた。ほかに自由軒のカレーライス、正弁丹吾亭の関東煮など、大阪のうまいもんを食べ歩いている。今も夫婦ぜんざい屋や自由軒、正弁丹吾亭は健在で、正弁丹吾亭の前には「行き暮れて ここが思案の 善哉かな」の織田作之助の句碑がある。 |
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(写真は 記念館(大阪府立高津高等学校)) |
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一心寺は納骨された遺骨で造立された仏像「お骨仏(こつぶつ)の寺」としても知られている。お骨仏の造立は江戸時代後期の嘉永年間(1848〜54)に始まる。宗派を問わず年中無休で施餓鬼法要を営む寺として信仰を集め、納骨をする人が絶えなかった。 |
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(写真は お骨佛) |
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秋田は東大在学中から漫才台本を書き始め、生涯に8千本近い漫才台本を書いた。秋田が好んだ「月よりも 花よりも なお美しき 人の笑い顔なり」の言葉のように笑いを大切にし、エンタツ、アチャコをはじめ多くの漫才師を育てた。秋田のその精神と情熱は、今の吉本興業など大阪のお笑いに引き継がれている。 |
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(写真は 秋田實笑魂碑) |
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51歳の時、妙法寺で共に過ごした母が亡くなると「鎌八幡」こと円珠庵に移った。、ここで国学の研究に専念し、多くの著作を著し、その成果を光圀に贈り、その功績によって水戸藩から毎年10両をもらっていた。元禄13年(1700)水戸光圀が没し、それをいたく悲しみ、翌年、後を追うように契沖も他界した。 |
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(写真は 円殊庵(鎌八幡)) |
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