月〜金曜日 18時54分〜19時00分


文芸、学問の都・大阪 

 古代から都があった関西には歌や文学、雅な文芸が盛んだった。そうした土壌で独特の難波文芸が花開き、浄瑠璃、文楽、歌舞伎、芝居などで演じられるようになった。文学も大阪独特の人情を描写したものが、なにわっ子に受けたようだ。今週はこうした大阪が育んだ文芸と学問の一部にスポットを当ててみた。


 
芭蕉・絶唱の句  放送 11月1日(月)
 大阪・天王寺区の上町台地・夕陽丘の大阪星光学院が建つところは、江戸時代に大阪随一と言われた料亭「浮瀬(うかむせ)亭」の跡地。
 この浮瀬で元禄7年(1694)9月26日、松尾芭蕉が門人と共に「所思」と題した句会を開いた。句会の発句で「此道や 行人なしに 秋の暮」と詠んだ。この句は人の姿の絶えた秋の夕暮れのように、自分が生涯かけて追い求めてきた俳諧の道を共に歩んでくれる者は誰もいない、と寂寥(せきりょう)の思いを披露したのであろう。同じく「此秋は 何で年よる 雲に鳥」とも詠んでいる。体が衰え、年老いた寂しさが身にしみ、空を行く雲のようにさすらいの旅を続け、風雅に生きるのが自分の定めであろう、と本音を漏らしたようである。

浮瀬(うむかせ・摂津名所図会)

(写真は 浮瀬(うむかせ・摂津名所図会))

浮瀬俳跡蕉蕪園

 芭蕉はこの浮瀬の句会から半月後の10月12日、大阪・南御堂前の花屋仁右衛門宅で51歳の生涯を閉じている。亡くなる4日前に詠んだ句が「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」が辞世の句となった。花屋仁右衛門宅で病が重くなり、門人たちが枕辺に集まった。その時、門人らが辞世の句を望んだところ「平生即ち辞世なり」と断り「きのうの発句はきょうの辞世、きょうの発句はあすの辞世、一句として辞世ならざるはなし」と言ったと花屋日記にあり、たえず死を念頭に置いた人生観がうかがえる。
 芭蕉の亡き骸は「骸(から)は木曽塚に送るべし」の遺言に従い、生前に愛した風光明媚な大津市膳所の琵琶湖湖岸にある木曽義仲の墓所・義仲寺に葬られた。

(写真は 浮瀬俳跡蕉蕪園)

 料亭・浮瀬は姿を消したが、芭蕉が詠んだ松風の句の句碑はそのまま残り、大阪星光学院が開校してからも校地にあった。星光学院は昭和58年(1983)に高校創設30周年の記念事業として、浮瀬で絶唱の句を詠んだ芭蕉の句碑や、浮瀬を訪れたことのある蕪村の句碑を建立し、句碑の周辺を整備して「浮瀬俳跡蕉蕪園」と名づけ、史跡として後世に伝えた。浮瀬に元からあった松風碑を除く芭蕉、蕪村の句碑は、星光学院高校の27期、28期、29期の卒業生たちが、卒業記念として建立した。
 星光学院のすぐ北の梅旧院境内にも門人らによって墓と芭蕉堂が建てられ、堂内には芭蕉像が安置されている。芭蕉が亡くなった時、梅旧院の住職が芭蕉の枕元でお経を読んだと花屋日記にあり、当時から深い関わりがある。

芭蕉堂(梅旧院)

(写真は 芭蕉堂(梅旧院))


 
織田作之助・可能性の文学  放送 11月2日(火)
 大阪を舞台にした数々の小説を書き、戦後間もなく33歳の若さで没した織田作之助(1913〜47)の墓が、天王寺区の楞厳寺(りょうごんじ)にある。
 「織田なくして大阪の文学は語れない」と言われた織田作之助は、大阪・天王寺区の生国魂神社近くの生玉前町で、大正2年(1913)に鮮魚商兼仕出し屋の長男として生まれた。スタンダール、西鶴を師と仰いだ織田は、昭和15年(1940)に発表した「夫婦善哉」で認められて後、続々と作品を発表して、太宰治らと共に流行作家となった。戦後は志賀直哉の私小説を否定して「可能性の文学」を唱えたが、若年のころからの肺の病に倒れ、この病が元で夭折した。

楞厳寺

(写真は 楞厳寺)

織田作之助墓所

 織田は墓所のある楞厳寺東の旧制大阪府立高津中学校(現大阪府立高津高校)から第三高校(現京都大学)に入学した。母校の高津高校には、織田の作品を集めた「織田作之助記念文庫」が設けられている。
 自由な校風の三高で水を得た魚のごとき学生生活を過ごし、後に作家になった多くの友人らと文芸論を戦わしながら、同人誌などに作品を発表した。肺の病で三高を中退、後に新聞記者になるが、スタンダールの「赤と黒」と読み小説家になることを決意する。27歳になった昭和14年(1939)に「俗臭」を発表、翌年に芥川賞候補となり最後まで賞を争った。この年の4月「夫婦善哉」を発表、この作品が好評を得て、新聞記者を辞め作家生活に入った。

(写真は 織田作之助墓所)

 「夫婦善哉」は、苦労にもめげず、明るく、たくましく生き抜くしっかり者の大阪女の蝶子と、放蕩に明け暮れるぐうたら亭主の柳吉との男と女の生活を描いた。遊んで帰ってきた柳吉が「なんぞ、うまいもん食いに行こか」と蝶子を誘い、法善寺境内にあるぜんざい屋で夫婦ぜんざいを食べた。ほかに自由軒のカレーライス、正弁丹吾亭の関東煮など、大阪のうまいもんを食べ歩いている。今も夫婦ぜんざい屋や自由軒、正弁丹吾亭は健在で、正弁丹吾亭の前には「行き暮れて ここが思案の 善哉かな」の織田作之助の句碑がある。
 友人との再会を四天王寺の西門石鳥居の間に夕日が沈む、彼岸の中日の3月21日約束した小説「アド・バルーン」を死の前年の昭和21年(1946)に発表しており、戦災で焼け野原になった生まれ故郷の天王寺周辺に愛惜を感じ、書き残そうとしたのであろう。

記念館(大阪府立高津高等学校)

(写真は 記念館(大阪府立高津高等学校))


 
一心寺  放送 11月3日(水)
 四天王寺にほど近い一心寺は今から800年前、浄土宗の宗祖・法然上人によって開かれた。文治元年(1185)当時、四天王寺の別当だった慈鎮和尚(慈円)に招かれて四天王寺を訪れた法然上人は、四天王寺の西門下の坂のあたりで美しい夕日を目にした。
 空と難波津の海を黄金色に染め、明石海峡に沈んで行く太陽の荘厳な光景は、観無量寿経に説かれた極楽浄土観想法「日想観(にっそうかん)」の修法の最適地と気づき、ここに草庵を結び日想観の修行をした。この草庵が現在の一心寺の起こり。今は一心寺の周辺にはビルが建ち並び昔の面影は薄れたが、春秋の彼岸のころには通天閣をシルエットにして西に沈む夕日が美しい。

小西来山句碑

(写真は 小西来山句碑)

納骨堂

 一心寺の境内には江戸時代前期の俳人・小西来山(1654〜1716)の「時雨るるや しぐれぬ中の 一心寺」の句碑が立つ。一心寺の西、現在の浪速区恵美須西1丁目あたりに「十万堂」と言う庵を構えていた来山は、東の高台にある一心寺を見やり、十万堂のあたりは時雨れているが、東の方はもう雨があがり、一心寺がひときわ明るく見える様子を詠んだのがこの句。来山はこの句を一心寺に奉納しており、ほかに一心寺を詠んだ「花散りて より古びたり 一心寺」の句もある。
 「吾はただ 生まれたとがで 死ぬるなり それで名残も なにもかもなし」の辞世の歌を残し、63歳で没し、一心寺に墓がある。

(写真は 納骨堂)

 一心寺は納骨された遺骨で造立された仏像「お骨仏(こつぶつ)の寺」としても知られている。お骨仏の造立は江戸時代後期の嘉永年間(1848〜54)に始まる。宗派を問わず年中無休で施餓鬼法要を営む寺として信仰を集め、納骨をする人が絶えなかった。
納骨堂に入りきらなくなった遺骨に当時の住職が悩み、思案の末、遺骨を最も丁重に祀る方法として遺骨を粉にして10年毎に阿弥陀仏像を造ることにした。戦前までに造立されたお骨仏は戦災で納骨堂と共に焼失し、戦後に造立されたお骨仏6体が納骨堂に安置されている。
 平成9年(1997)に再建された新山門は、21世紀の都市型寺院を象徴するデザインで、ブロンズの仁王像、強化ガラスの屋根、門扉の天女のレリーフなど、造形美と機能美を合わせた山門と言える。

お骨佛

(写真は お骨佛)


 
上方漫才の父・秋田實  放送 11月4日(木)
 エンタツ、アチャコを全国的な人気者に押し上げた「漫才・早慶戦」をはじめとして、多くの名作漫才台本を手がけ、上方漫才の父と言われる秋田實(1905〜77)は、大阪・玉造で生まれ育った。
 JR・大阪環状線玉造駅周辺は、戦前まで寄席や演芸場、映画館などが軒を連ね、初代ミス・ワカサ、玉松一郎コンビら多くの芸能人が住みついていた。エンタツ、アチャコが初舞台を踏んだのも玉造の演芸場だった。秋田實は演芸好きの両親に連れられて、寄席にもよく行ったようで、このころから上方演芸への親しみが育まれ、猥雑な芸であった万歳を家族そろって楽しめる漫才に作り上げた。

秋田實

(写真は 秋田實)

玉造稲荷神社

 幼いころにはよく遊んだと言う玉造稲荷神社の境内に立つ、秋田實笑魂碑には自筆の文字で「笑いを大切に。怒ってよくなるものは猫の背中の曲線だけ」と刻まれている。笑魂碑のそばの自然石には「渡り来て うき世の橋を 眺むれば さても危うく 過ぎしものかな」の辞世の歌が刻まれている。
 秋田が亡くなった直後、演芸評論家の吉田留三郎氏を中心にミヤコ蝶々、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケと言った上方の漫才師らが「秋田さんの記念碑を」との話が持ち上がった。秋田が幼いころから馴染み親しんでいた、玉造稲荷神社境内が記念碑建立の地に選ばれ、死亡の翌年の昭和53年(1978)の春分の日に除幕された。

(写真は 玉造稲荷神社)

 秋田は東大在学中から漫才台本を書き始め、生涯に8千本近い漫才台本を書いた。秋田が好んだ「月よりも 花よりも なお美しき 人の笑い顔なり」の言葉のように笑いを大切にし、エンタツ、アチャコをはじめ多くの漫才師を育てた。秋田のその精神と情熱は、今の吉本興業など大阪のお笑いに引き継がれている。
 毎年7月15日の玉造稲荷神社の夏祭りに行われる「上方笑いの父・秋田實笑魂奉納演芸」では、若手の漫才師らが舞台に上がり、お笑いを披露して秋田をしのんでいる。昭和56年(1981)の奉納演芸で、海原小浜さんの4歳と8歳の女児の孫が舞台にあがり集まった客を爆笑させ、今は若手女性漫才師のホープに成長している。秋田は死しても漫才師を育てる情熱を失っていないようだ。

秋田實笑魂碑

(写真は 秋田實笑魂碑)


 
国学の先覚者・契沖  放送 11月5日(金)
 大阪・東成区大今里の妙法寺は、江戸時代前期の国学者・契沖(1640〜1701)にかかわりの深い寺である。契沖は尼崎に生まれ11歳の時に妙法寺で得度し、高野山で修行した後、40歳から妙法寺の住職を務めた。
 契沖は幼いころ母から百人一首をひもといてもらったり、父から実語教を教えてもらうなど教育熱心な家庭環境の中で育った。高野山での修行後に江戸時代の古典学者・下河辺長流との交流が始まり、歌の贈答をしている。妙法寺の住職を務めながら、古典の研究にも情熱を傾けた。

聖観世音菩薩(妙法寺)

(写真は 聖観世音菩薩(妙法寺))

水戸光圀公より拝領の香炉(妙法寺)

 契沖の古典を学ぶ姿勢は、出典、注釈、語源に厳密で、実証的研究法を確立、国学勃興の先駆者となった。下河辺長流の推挙で、徳川光圀から研究の援助を受けるようになり、光圀の依頼で万葉集の注釈「万葉代匠記(まんようだいしょうき)」を著した。寺には光圀から賜った三葉葵の紋の入った香炉が伝わっている。また契沖直筆の「詠富士山百首和歌」も残されている。こうした古典研究は後の本居宣長、荷田春満、賀茂真淵らに引き継がれている。
 光圀や水戸藩からもらった謝礼は、すべて寺の修復や信徒の救済に当てていた。妙法寺には契沖や母、兄の墓がある。

(写真は                                                 
 水戸光圀公より拝領の香炉(妙法寺))

 51歳の時、妙法寺で共に過ごした母が亡くなると「鎌八幡」こと円珠庵に移った。、ここで国学の研究に専念し、多くの著作を著し、その成果を光圀に贈り、その功績によって水戸藩から毎年10両をもらっていた。元禄13年(1700)水戸光圀が没し、それをいたく悲しみ、翌年、後を追うように契沖も他界した。
 円珠庵境内にあるエノキの大木は、古来から霊木として人びとの信仰を集めていた。真田幸村が大坂冬の陣でこのエノキに鎌を打ちつけ「鎌八幡大菩薩」と唱えて戦勝を祈願したところ、大いに戦功をあげたと伝えられ、以来「鎌八幡」と呼ばれ、このエノキに鎌を打ち込み悪縁を絶つ願いをする人が増えた。

円殊庵(鎌八幡)

(写真は 円殊庵(鎌八幡))


◇あ    し◇
浮瀬俳跡蕉蕪園
(大阪星光学院内)、梅旧院
地下鉄谷町線四天王寺夕陽ケ丘下車徒歩2分。
真宗大谷派別院南御堂地下鉄御堂筋線本町駅下車3分。 
楞厳寺近鉄奈良線上本町駅下車徒歩10分。 
地下鉄千日前線谷町九丁目駅下車徒歩15分。
四天王寺JR、地下鉄天王寺駅、近鉄南大阪線阿部野橋駅下車
徒歩15分。
地下鉄谷町線四天王寺夕陽ケ丘下車徒歩5分。
一心寺JR、地下鉄天王寺駅、近鉄南大阪線阿部野橋駅下車
徒歩15分。
玉造稲荷神社JR大阪環状線、地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅下車
徒歩10分。
妙法寺近鉄奈良線、大阪線、地下鉄千日前線今里駅下車
徒歩7分。 
円珠庵(鎌八幡)JR大阪環状線、地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅下車
徒歩12分。
近鉄奈良線、大阪線上本町駅下車徒歩12分。
◇問い合わせ先◇
大阪星光学院06−6771−0737 
梅旧院06−6771−1667 
楞厳寺06−6768−1525 
四天王寺06−6771−0066 
一心寺06−6771−0444 
玉造稲荷神社06−6941−3821 
妙法寺06−6971−1568 
円珠庵(鎌八幡)06−6761−3691 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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歴史街道推進協議会