月〜金曜日 18時54分〜19時00分


兵庫・丹波、但馬の里 

 兵庫県の中央東部に位置する丹波は山紫水明の地で名刹、古刹も多い。地理的に山陰と京都、大阪を結ぶ交通の要衝にあって山城や砦が多く、戦国時代の戦乱に巻き込まれた。
こうした歴史的背景を持つ篠山市(1999年誕生)と丹波市(2004年11月誕生)さらに但馬の和田山町を訪ねた。


 
城下町の秋(篠山市)  放送 11月15日(月)
 関ヶ原の戦に勝利した徳川家康が、慶長14年(1609)大坂城攻略の拠点にすると同時に豊臣家恩顧の西国大名の抑えとして、交通の要衝の地であった篠山に実子・松平康重に命じて築かせたのが篠山城。築城の普請奉行は姫路城主・池田輝政、設計担当の縄張り役は築城の名手と言われた津城主・藤堂高虎で、近畿、中国、四国の15カ国、20の大名が築城工事を担当、総勢8万人が動員され、約200日足らずで完成させた。篠山城の石垣には工事を担当した大名の刻印が刻まれた石が、ところどころに積まれているのを目にすることができる。
 敵の侵入を防ぐために馬出と言う城への出入り口が東西と南の3カ所に設けられ、そのうちのひとつ、南の馬出の土塁がほぼ完全な形で残っており、全国的にも例のない貴重な資料とされている。

大書院

(写真は 大書院)

河原町妻入り商家群

 このほかにも枡形の石垣など敵に備えた守りが随所に見られ、余りにも堅固な城に築城を命じた家康も驚き、築かれた天守台への天守閣の建設を禁止したほどだった。この城は松平、青山両氏の居城として明治維新まで続いた。
 篠山城は明治維新の廃城令で取り壊された。藩の公式行事などに使われていた大書院は、地元の多くの人たちの嘆願がかなえられて取り壊しをまぬがれたが、昭和19年(1944)火災で焼失した。平成12年(2000)城跡に復元された大書院は、規模の大きな木造建築でその様式や装飾も往時のままに再現され、50数年ぶりに美しい姿がよみがえった。入母屋造りの 葺(こけらぶき)で面積739.33平方m、高さ12.88mもあり、京都・二条城の二の丸御殿に匹敵する建物は、優雅で堂々たる風格を備えている。

(写真は 河原町妻入り商家群)

 篠山城の城下町として栄えた篠山の町の外堀の周囲には今も武家屋敷が残っており、市の文化財に指定されている安間家住宅は、市立安間家資料館として一般公開され、当時の武士の暮らしぶりがわかる。
 城下の河原町通りには、千本格子、荒格子、虫籠窓(むしこまど)、袖壁、うだつなどを備えた妻入りの商家が建ち並び、古美術、民芸品、竹細工品などの店が江戸時代の情緒を感じさせる。篠山の味覚と言えば秋のマツタケ、冬のぼたん鍋。特に寒い時期のぼたん鍋が最高で、地元産の新鮮なシイタケや野菜、黒豆豆腐などと一緒に煮込まれた猪肉が体を温めてくれる。自然を生かしたリゾート施設「ニユトピアささやま」でも名物のぼたん鍋で、スポーツや散策の疲れを癒している利用者が多い。

ユニトピア ささやま

(写真は ユニトピア ささやま)


 
丹波焼の里(篠山市)  放送 11月16日(火)
 篠山市の中心地・河原町通りの妻入り商家群の一角に建つ丹波古陶館は、丹波焼の草創期の平安時代末期から江戸時代末期までの700年の間に作られた代表的な作品を、年代・形・釉薬・装飾別などに分類して展示している。
 窯の所在地から立杭焼と呼ばれている丹波焼は、日本六古窯(丹波、瀬戸、常滑、信楽、備前、越前)のひとつ。丹波焼が伝わったのは平安時代末期と見られ、約800年の歴史を持っている。丹波焼が始まったころの穴窯(あながま)跡が市内今田町三本峠付近に10基ほど見つかっている。

丹波古陶館

(写真は 丹波古陶館)

丹波立杭焼の里 今田町

 穴窯は江戸時代初期の慶長年間(1596〜
1615)に作られた作品を最後に姿を消し、その後は大量の作品が焼ける登り窯に代わった。穴窯時代の丹波焼は壺や甕(かめ)、すり鉢などを中心に作っていた。穴窯で長時間焼かれることで燃えた薪の灰が器にかかり、土の中の鉄分と融け合って緑色や鳶(とび)色に自然発色する自然釉(ビードロ釉)となるのが丹波焼の特徴と言われている。
 丹波焼は登り窯を使うようになっても一貫して日用生活雑器を焼き続け、灰釉や鉄紬による素朴で飾り気のない陶器が特徴である。登り窯時代にはいった江戸時代前期には小堀遠州の指導を受けるなどして、茶入れ、水指、茶碗などの茶器なども作るようになった。

(写真は 丹波立杭焼の里 今田町)

 現代の丹波焼は赤土部(あかどべ)と呼ばれる釉薬や灰釉、鉄釉などの釉薬を使った素朴で野趣あふれる湯呑み、皿、鉢、花瓶、徳利などの生活用器を主製品としている。釉薬の掛け合わせによる多彩な文様や登り窯の「灰被り」と呼ばれる窯変による色や模様が魅力的でもある。
 市町村合併で篠山市となった今田町は、もともと日本六古窯のひとつ、丹波立杭焼の里として知られており、今も約60軒の窯元が丹波焼の伝統の技を受け継いで製作している。
 この丹波焼の里・今田地区の丹波伝統工芸公園に「立杭陶の郷(たちくいすえのさと)」があり、古丹波の名品の展示や現代陶芸家の作品の展示即売をしている。陶芸教室も開いておりオリジナルな丹波焼を作ることもできる。

丹波焼 陶幸窯

(写真は 丹波焼 陶幸窯)


 
春日局生誕の地(丹波市)  放送 11月17日(水)
 のどかな田園風景が広がる丹波市春日町は、徳川幕府3代将軍・徳川家光の乳母で大奥に君臨した春日局・幼名お福が生まれ、3歳まで育った土地である。お福の生誕地とされる興禅寺は、戦国時代の黒井城の下館だった。七間堀と呼ばれる堀や黒井城と同じ野面(のづら)積みの石垣、黒井城の門材を使った大きな門、周囲に巡らした白壁など、城郭を思わせるような構えで、門前には「春日の局出生地」と刻まれた石碑が立っている。
 織田信長の丹波攻めで落城した黒井城には、明智光秀家臣・斎藤利三が、戦後処理のために入った。下館を陣屋としていた利三は、妻と子供たちをこの陣屋に呼び寄せ一緒に暮らすようになった。利三夫妻の末娘として天正7年(1579)この陣屋で生まれたのがお福である。

興禅寺

(写真は 興禅寺)

春日局

 お福が幼いころ、庭で遊んでいて腰をおろした平らな石が、興禅寺の本堂前に今もあり「お福の腰かけ石」と呼ばれている。庭で遊ぶこのころのお福の姿を目にした城下の領民たちから「斎藤屋敷のお福さま」と呼ばれ愛されていた。お福誕生の時、産湯に使う水を汲んだ井戸が「お福産湯の井戸」として残っており、今も水をたたえている。
 お福は3歳までこの陣屋で暮らし、4歳の時、京都・亀山城に移った。父・利三は明智光秀の本能寺の変に加わり、山崎の合戦で敗死、痛いは京都ではりつけにされた。悲惨な父の死を目の当たりにしたお福は、その後、波乱に富んだ人生を送った。だが、お福の脳裏からは、自然の中で両親とともに過ごした丹波・黒井の陣屋の平和な生活が離れなかったであろう。

(写真は 春日局)

 黒井城は鎌倉時代末期の建武3年(1336)春日部荘を支配していた赤松貞範(赤松則村の次男)が、標高356mの猪ノ口山に築いた山城。天文23年(1554)この城の城主となった荻野直正が城郭の全面的改築を行い、戦国時代の山城にふさわしい堅固な構えにした。織田信長の丹波攻めで、明智光秀の2度にわたる猛攻にあい天正7年(1579)落城、落城後の城は光秀の家臣・斎藤利三が管理することになった。
 黒井町内の和菓子の老舗・竹田屋は春日局をしのび、ほのかな梅の香りがする白あんの饅頭「春日局」を作っており、春日局ゆかりの地を訪れた観光客らが土産品として買い求めている。

銘菓 春日局(竹田屋)

(写真は 銘菓 春日局(竹田屋))


 
丹波の名刹(丹波市)  放送 11月18日(木)
 8世紀、行基によって開かれたと言われる丹波市氷上町の古刹・達身寺は、国の重要文化財の12体をはじめ多数の貴重な仏像を有しており「丹波の正倉院」と呼ばれている。
山岳仏教の栄えた平安時代から鎌倉時代にかけて寺運も隆盛だったが、戦国時代に織田信長配下の明智光秀の丹波攻めによる兵火で、堂宇はことごとく焼失した。この時、僧兵たちが寺から仏像を谷へ運び下ろし、達身堂(たるみどう)に仏像を安置して法灯を守った。
 その後、江戸時代まで達身寺は荒廃したままになっていたが、元禄8年(1695)にこの地に疫病がはやり多くの死者が出た。「仏像を放置した仏罰」とのことから、村人たちが達身堂と堂内の仏像を現在地に移し、さらに谷間などに放置されたままになっていた仏像を集めて堂内に安置したと言う。

本尊阿弥陀如来坐像(達身寺)

(写真は 本尊阿弥陀如来坐像(達身寺))

独鈷の滝

 江戸時代中期の正徳2年(1712)氷上町内にある円通寺の住職を開山として再興され、曹洞宗に改宗して今日にいたっている。多くの仏像を有し「丹波の正倉院」「仏教美術の宝庫」と言われる由縁は、本尊の阿弥陀如来座像や兜跋(とばつ)毘沙門天立像など12体が国の重要文化財、34体が兵庫県指定文化財に指定され、ほかに指定されていない同じ時代に造られた仏像が約70体あることによる。宝物殿内に安置されているこれらの仏像は、大半が一木造りで、優美端麗な姿の仏像が多い。
 また未完成の仏像や本尊仏となる仏像が多いほか、同じ兜跋毘沙門天像が16体もあることなどから、達身寺に丹波仏師の工房があったのではないかとの説もある。

(写真は 独鈷の滝)

 落差20mの独鈷の滝には、弘法大師が仏具の独鈷を滝壷に投げ込み、大蛇を退治した言う伝説から名づけられた。周囲の自然ともよく調和した景観はすばらしく、兵庫県観光百選にも選ばれている。滝のそばにある洞窟には、弘法大師一夜の作と伝わる石造不動明王像が祀れている。霊験あらたかな不動明王像のそばで修行した伊賀の剣豪・浅山三五郎が、徳川家光の前での御前試合に勝ち、一伝流の祖となった。
 独鈷の滝近くの岩瀧寺は、弘仁年間(810〜24)嵯峨天皇が夢のお告げで弘法大師をこの地に遣わし、坊舎をたてたのが始まりと言う。達身寺と同じく明智光秀の丹波攻めの兵火で堂宇をことごとく焼失し、江戸時代初めの慶長年間(1596〜1615)になって領主の援助で再興された。

精進料理

(写真は 精進料理)


 
天空の山城(和田山町)  放送 11月19日(金)
 JR竹田駅の西、標高353mの古城山の山頂部に中世の典型的な山城の遺構、竹田城跡が広がっている。山頂に伏した虎の姿に見えたことから虎伏(とらふす)城とも呼ばれているこの城は、室町時代、但馬の守護職・山名持豊(宗全)が、中国の大内氏、播磨の赤松氏、丹波の細川氏に備え、配下の太田垣氏に命じて嘉吉3年(1443)から
13年間の歳月をかけて築いた山城で大田垣氏が城主となった。
 天下統一を狙う織田信長は天正5年(1577)羽柴秀吉に播州攻略をさせて平定、その勢いに乗っての但馬に攻め入った秀吉の弟・秀長の軍勢によって竹田城は落城した。この但馬攻めは生野の銀山の確保と中国の毛利氏を攻めるための準備でもあった。

竹田城跡

(写真は 竹田城跡)

竹田城跡からの眺望

 築城当初は砦のような小さいものであった竹田城を、但馬に攻め入った秀長や後に城主となった赤松広秀らが秀吉の援助を得て改築した。慶長時代には南北400m、東西100m、豪壮な石垣積みの強固な城郭とし、山城の中で完全な形で残る遺構としてわが国でも屈指の城郭とされ、国の史跡に指定されている。
 竹田城の石垣は織田信長の安土城と同じく自然石をそのままの形で積み重ねる穴太(あのう)積みで、今も城跡には天守台を中心に本丸、二の丸、三の丸、大手門、北千畳、南の二の丸、南千畳、平殿、花屋敷などが、鳥が両翼を広げたような形で広がり、その石垣が原形のまま残り、往時の威容をしのばせている。

(写真は 竹田城跡からの眺望)

 竹田城の最後の城主となった赤松広秀は、戦国の世に翻弄された非運の城主だった。
播州龍野城主の広秀は、羽柴秀吉の播州攻めで龍野城を明け渡し、秀吉の配下に入り中国、四国攻めでその功績を認められ竹田城主に取り立てられた。この時24歳。秀吉の小田原城攻めや二度にわたる朝鮮出兵にも参戦、関ヶ原の戦の際には西軍にくみした。
 因幡・鹿野城主亀井氏から「西軍方の鳥取城を攻撃に加われば、徳川家康に取りなしてやる」との誘いを受け、鳥取城を攻略した。しかしこの戦いの際に「城下に火を放ち市中を焼いた」として家康の怒りにふれ、濡れ衣を着せられたまま慶長5年(1600)自刃させられ、竹田城はこの年に廃城となり、幕府の天領となる。広秀は領民から「仁政の主君」として慕われており、死後、領民が城下の法樹寺に供養塔を建てその死を悼んだ。

赤松廣秀供養塔(法樹寺)

(写真は 赤松廣秀供養塔(法樹寺))


◇あ    し◇
篠山城跡JR福知山線篠山口駅からバスで二階町下車徒歩5分。 
河原町妻入商家群JR福知山線篠山口駅からバスで本篠山下車。 
ユニトピアささやまJR福知山線篠山口駅からタクシー10分。 
丹波古陶館JR福知山線篠山口駅からバスで本篠山下車徒歩3分。
丹波伝統工芸公園立杭陶の郷JR福知山線相野駅からバスで立杭公会堂前下車
徒歩7分。
興禅寺JR福知山線黒井駅下車徒歩15分。 
黒井城跡JR福知山線黒井駅下車徒歩約1時間。 
達身寺JR福知山線石生駅からバスで成松下車タクシーで
10分、徒歩約1時間。
岩滝寺、独鈷の滝JR福知山線石生駅からバスで香良口下車徒歩40分。 
竹田城跡JR播但線竹田駅下車徒歩40分。 
◇問い合わせ先◇
篠山市役所商工観光課079−552−2090 
篠山観光協会079−552−1111 
篠山観光案内所079−552−3380 
篠山城大書院079−552−4500 
ユニトピアささやま079−552−5222 
丹波古陶館079−552−2524 
丹波立杭焼陶磁器協同組合079−597−2034 
丹波市春日町地域振興課079−574−0221 
興禅寺079−574−0019 
春日町歴史民俗資料館079−574−0225 
竹田屋老舗(銘菓春日局)079−574−0002 
丹波市氷上町観光協会079−582−8210 
達身寺079−582−0762 
岩瀧寺079−582−7675 
和田山町観光協会079−672−3301 
和田山町観光案内センター079−674−2120 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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