月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良・高取町 

 古代の都があった飛鳥の南西に隣接する高取町は、古代国家・飛鳥とのかかわりがそこかしこに残る。飛鳥時代の後、都が置かれた奈良、京都と吉野を結ぶ要衝の位置を占め、軍事上の拠点として城が築かれ、江戸時代以降は城下町、そして「大和の薬売り」に代表されるくすりの町として発展してきた。その名残が色濃い高取町を訪ねた。


 
日本一の山城  放送 11月22日(月)
 奈良盆地と吉野地方の中間に位置する高取山(584m)の山上に、元弘2年(1332)高取の豪族・越智邦澄が築いた山城が高取城(国・史跡)。ここは飛鳥から芋峠を経て吉野に通じる軍事上の拠点に位置し、天険の要害で、越智氏は吉野山に本拠を置いた南朝方につき足利軍と戦った。
 越智氏は室町、戦国時代の豪族で、高取城は詰城として築城したもので、高取町西部の越智の里を本拠としていた。越智の里の菩提寺・光雲寺には越智氏の五輪塔があり、越智氏居館跡、丘陵地帯には貝吹山城跡がある。近世の本格的な城郭としての高取城の築造は、天正13年(1585)大和郡山城主・豊臣秀長が、重臣の本多正俊を高取城主にしてから始まる。

高取城跡

(写真は 高取城跡)

植村家長屋門

 徳川時代に入り大坂冬の陣、夏の陣で功績のあった植村家政が寛永17年(1640)入部、明治維新まで14代、約230年間、植村氏が藩主だった。初めは藩主も高取城内に住んでいたが、山上での生活が不便になり、山麓の下子島に下屋敷を作って生活するようになった。家臣らも城から降りて生活するようになり、武家屋敷が並ぶ城下町を形成するようになった。今も家老屋敷だった植村家長屋門や武家屋敷の一部が、高取町内に残っている。
 城は山頂に本丸を置き、三層の天守、小天守を擁し、櫓(やぐら)27,門32,堀の長さ2.8kmにもおよぶ大規模なもで、その威容、美観から芙蓉城の別名で讚えられた。
高取城は岡山県の備中松山城、岐阜県の美濃岩村城とともに日本三大山城と言われている。

(写真は 植村家長屋門)

 高取城の石垣には、飛鳥地方の古社寺の礎石や石造仏が運び込まれたと言われ、石垣のあちこちにそれらしき石が見受けられる。今も本丸、二の丸跡などに延々と連なる石垣は往時の城の威容をしのばせる。高取町中心部から下子島を通って、高取城跡へ通じる道路脇に猿を刻んだ猿石が一体立っている。飛鳥から運んだものだが、城に通じる途中にどうして置かれたかは不明で、郭内と城内の境目を示す結界石とした説もある。同類の猿石が明日香村の欽明天皇陵脇の吉備姫王墓のそばにある。
 幕末の天誅組事件の時には浪士が高取城を攻めたが、事前に攻撃を予想して備えていた高取藩士らに撃退された。高取町役場の近くには「天誅組鳥ヶ峰古戦場」と刻まれた石碑が立っている。

ありし日の高取城(明治時代)

(写真は ありし日の高取城(明治時代))


 
子嶋寺  放送 11月23日(火)
 旧高取城の「二ノ門」を山門としているのが子嶋寺で、唯一残っている高取城の遺構である。子嶋寺は東大寺と同じ時期の天平勝宝4年(752)孝謙天皇の勅願によって報恩法師が創建したと伝わる。清水寺の縁起と坂上田村麻呂が観音の助けで東北を平定したことを題材にした謡曲「田村」発祥の地でもある。
 子嶋寺2代目住職・延鎮(えんちん)僧都は、坂上田村麻呂と共に京都・東山に清水寺を開き、子嶋寺の支坊としている。宝亀9年(778)延鎮が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との夢のお告げで、音羽の滝のほとりにたどり着いた。草庵で修行中の僧・行叡(ぎょうえい)から霊木を授けられ、千手観音像を彫り祀っのが清水寺の起こり。

坂上田村麻呂自作像

(写真は 坂上田村麻呂自作像)

延鎮僧都木像

 2年後、坂上田村麻呂が、妻の安産を願い鹿を求めて音羽山へ来たが、延鎮から殺生を戒められた。これを機に観音に帰依、自宅に十一面観音像を安置して崇敬し、後に清水寺本堂を建立したとの伝えがある。
 こうした由来から南清水寺とも呼ばれていた子嶋寺だが、その後衰退し永観年間(983〜5)に興福寺から来た真興上人が中興し、真言宗子嶋流を起こして観覚寺と称した。
本堂、三重塔など20余の堂塔を建立、信者も集まり隆盛を極め、寛弘4年(1007)には藤原道長も参詣している。真興が一条天皇病気平癒祈願の功で賜った紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図が今に伝わり、国宝に指定されている。

(写真は 延鎮僧都木像)

 この両界曼荼羅図は紺紫色の綾地に金銀泥のみで諸尊像を描いたもので、京都・神護寺の高雄曼荼羅図と並んで両界曼荼羅図の代表作と言われている。一説には空海が中国・唐からもたらし、一条天皇に献上したとも言われている。この両界曼荼羅図は本尊・十一面観音立像(国・重文)ともに奈良国立博物館に寄託されており、4分の1の銅板製両界曼荼羅図のレプリカが寺にある。
 観覚寺は戦国時代の戦乱で衰微したが、高取城主・本多氏が祈願所として再興し千寿院と称した。幕末には僧・賢応が寺にはいり、現本堂を建立。明治時代にはいると高取城の二ノ門を移築するなど、庫裏や堂宇の整備が行われ、明治36年(1903)に子嶋寺に改めた。

紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図

(写真は 紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図)


 
土佐街道  放送 11月24日(水)
 高取町内の土佐街道は、奈良時代に平城京や東大寺を築造するため、土佐国から来た人びとが住みついたのでこの名がある。大和平野と吉野地方の文化の交流拠点として、また壺阪寺の参詣道としてにぎわった街道である。
 土佐街道北端の光永寺の庭にある高さ1mほどの人頭石は、西洋人と見られる顔が彫られている謎の石。飛鳥石と言う花崗岩に顔の左側だけを彫ったもので、製作年代やその由来はまったくわからない。頭の上にくぼみがつけられ、手水鉢として使われていたようだ。
飛鳥とペルシャのゾロアスター教との関係を主張する説もあり、この人頭石もペルシャ文化の影響を受けていると考えられるのかもしれない。

光永寺

(写真は 光永寺)

人頭石

 街道沿いには武家屋敷や古い商家が今も残っている。高取藩の下屋敷表門が移築された石川医院の重厚な門構えは、城下町の雰囲気を醸し出し、高取藩筆頭家老屋敷の門だった植村家長屋門(奈良県指定文化財)は、なまこ壁が城下町の風情を漂わせている。田塩邸は格子が横向きの与力窓を2つ付けた長屋門を備えており、両袖に物見所、馬屋がある。
塀につけられた監視窓は表口を警戒する構造で、他にあまり類を見ない武家屋敷として貴重な存在である。
 土佐街道の最も高取城跡寄りに高浜虚子門下のひとり、阿波野青畝の生家があり、その近くにある高取藩主・植村家の菩提寺の宗泉寺は、植村家政の邸宅跡に元禄11年(1698)建立したもので、今も天台宗延暦寺の末寺として信仰を集めている。

(写真は 人頭石)

 城下町の雰囲気が色濃く残るこんな町筋に、元は呉服商を営んでいた紅殻格子の町家を改修した「夢創館(むそうかん)」が、高取町の観光発信基地として平成12年(2000)にオープンした。高取町を訪れた人たちが気軽に出入りできる観光案内所。お茶のサービスのもてなしがある無料休憩所であり、地元の物産展示場でもある。
 2階には高取城の模型や鎧、兜が展示され、ギャラリーに利用できる空間や集会所としても利用できる和室もある。1階の土間には今でも使えるかまどがドッカリと座っており、井戸にはきれいな水が湧いている。裏庭もあり落ち着いた雰囲気にひたれる。

観光案内所 夢創館

(写真は 観光案内所 夢創館)


 
くすりの町  放送 11月25日(木)
 高取は江戸時代から全国の家庭に置き薬を売って歩く「大和の売薬」で栄えてきた町で、今も「観光とくすりの町」をキャッチフレーズにしている。壺阪寺への登り口にあたる清水谷地区には、商家風の製薬会社や薬問屋が何軒も並び、漢方の看板がそこかしこに見られる。土佐街道沿いの土佐恵美須神社には薬の神様と土佐えびすが祀られている。
 江戸時代の元禄年間(1688〜1704)には「合薬渡世」と言う協同組織が作られ、北海道から九州まで薬を売り歩いていた。高取町の薬行商は「大和の薬売り」として親しまれ、一定量の薬を各家庭に置き、次に来た時に使った分だけ代金を集金する「先用後利」と言う独特の商法で商売をしていた。

土佐恵美須神社・薬祖大神

(写真は 土佐恵美須神社・薬祖大神)

預け薬箱(歴史研修センター)

 明治時代までの薬の行商人は、着物に角帯を締め、前垂れ、股引、脚絆(きゃはん)、草履(ぞうり)ばきで、着物の裾を尻にからげ、薬を入れた柳行季(やなぎこうり)を大きなふろしきで包んで背負い、年に1、2回、得意先を1軒1軒訪ね歩いた。行く先々では子供たちに紙風船や簡単なおもちゃをプレゼントしたので、子供たちは薬売りのおじさんが来るのを楽しみにいていた。
 行く先々で珍しい話しを聞いたり、提供したりする情報伝達も行商人の大切な仕事のひとつになっていた。現代では柳行季が鞄やアタッシュケースに代わり、バイクや車を利用するようになっている。

(写真は 預け薬箱(歴史研修センター))

 高取町内の大和歴史研修センター内の「くすり民俗資料室」には、薬産業の歴史と製薬器具などが展示されており、庶民の健康を守ってきた大和の薬の変遷がよくわかる。
 製薬器具の代表的な器具の薬研(やげん)は、乾燥した薬用の草根、木皮などを粉末にする道具で、原料をつぶしては篩(ふるい)にかける作業を繰り返し行う根気のいる大変な仕事だった。このほかにポルトガルから伝わった薬用成分などを蒸留するランビキ、漢方の生薬を保管するたくさんの引き出しがついた百味タンス、薬を量る天秤や手ばかり、薬箱、薬壺、犀角(さいかく)や黄柏(おいばく)などの薬の原料、行商人が持ち歩いた柳行季、看板など、いろいろなものが展示されている。

薬研(歴史研修センター)

(写真は 薬研(歴史研修センター))


 
西国三十三カ所第六番札所・
壺阪寺 
放送 11月26日(金)
 盲目の夫・沢市と夫の開眼を祈る妻・お里の夫婦愛をテーマにした説話、人形浄瑠璃、歌舞伎の「壺坂霊験記」の舞台として有名な壺阪寺は、高取山の中腹に堂々たる伽藍(がらん)を構えている。
 大宝3年(703)元興寺の僧・弁基上人によって開かれ、西国三十三カ所第六番札所の観音信仰道場でもあり、正式な名称は南法華寺。弁基上人が壷坂山の霊峰に心ひかれて修行中、秘蔵の水晶の壺の中に観音さまの姿を感得した。この壺を坂の上に祀り、感得した観音の姿を彫って本尊としたのが始まりと伝えられ、壺阪の名の由来にもなっている。

お里・沢市の像

(写真は お里・沢市の像)

十一面千手千眼観世音菩薩

 本尊の十一面千手観音菩薩像が元正、桓武、一条天皇の眼病を治したと言う由緒から、今にいたるまで眼病に霊験があらたかなお寺として広く信仰を集め、お里・沢市の物語も生まれた。
 壺阪寺は目の不自由な人たちの福祉にも力を入れている。目の不自由な人が香・聴・触の3つの感覚で自然を愛し楽しむ施設「匂いの花園」は、約2300平方mの庭に約100種の四季の花が植えられ、点字で花の名が表示されている。このような花園は壺阪寺とニューヨークのブルックリン植物園だけと言う。盲老人福祉施設「慈母園」は、オープン当時の昭和36年(1961)には日本で初めての目の不自由な人の老人ホームだった。
ほかに特別養護盲老人福祉施設や重度精神薄弱者厚生施設などを運営している。

(写真は 十一面千手千眼観世音菩薩)

 壺阪寺は創建後、平安時代には大伽藍を擁し全盛を極めていたが、火災で堂塔を焼失し、現在は室町時代から江戸時代にかけて再建された本堂の八角堂、礼堂、三重塔(いずれも国・重文)や阿弥陀堂、因幡堂などがある。
 境内に立つ高さ20m、世界最大の観音石像はインドでのハンセン病救済の社会奉仕事業のお礼として、インド政府から贈られたもので、日印の友愛の礎となっている。ほかに釈迦の生涯を描いた石造大仏伝図、大涅槃石像、天竺渡来大石堂などの石造物がある。壺阪寺の奥の院と言われる香高山には、岩肌に彫られた五百羅漢と呼ばれる石仏群がある。
 御詠歌は「いわをたて みずをたたえて つぼさかの にわのいさごも じょうどなるらん」。

多宝塔

(写真は 多宝塔)


◇あ    し◇
高取城跡近鉄吉野線壺阪山駅からバスで壺阪寺前下車
徒歩50分。 
近鉄吉野線壺阪山駅下車高取町内を経て
徒歩1時間40分。
子嶋寺近鉄吉野線壺阪山駅下車徒歩10分。 
光永寺近鉄吉野線壺阪山駅下車徒歩7分。 
夢創館近鉄吉野線壺阪山駅下車徒歩10分。 
くすり民俗資料室
 (大和歴史研修センター内)
近鉄吉野線市尾駅下車徒歩7分。
壺阪寺近鉄吉野線壺阪山駅からバスで壺阪寺前下車 
◇問い合わせ先◇
高取町役場企画課0744−52−3334 
高取町観光協会、夢創館0744−52−1150 
子嶋寺0744−52−2074 
光永寺0744−52−2967 
大和歴史研修センター
 (くすり民俗資料室)
0744−52−4637
壺阪寺0744−52−2016 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

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                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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