月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大津市 

 大津は古くから渡来人らによる高度な文化が開けた地で、天智天皇が近江大津宮を造営してから歴史の表舞台に登場する。その後は園城寺(三井寺)、石山寺、延暦寺が創建され、大津市内の文化財は京都、奈良、東京に次いで多い。歴史と琵琶湖畔の景勝の地であると同時に京の都と東国、北陸を結ぶ湖上交通、陸上交通の要衝として発展した。


 
西国三十三カ所
第13番札所・石山寺 
放送 12月6日(月)
 瀬田川を前にする石山寺は、奈良時代後期の天平勝宝元年(749)聖武天皇の勅願で良弁(ろうべん)僧正によって開かれた。東大寺の建立に当たっていた良弁は、琵琶湖周辺の山々から切り出される東大寺建立用の木材の集積地だった瀬田川沿いに、石山院と言う役所を設け監督した。東大寺完成後の天平宝字5年(761)石山院を寺に改めたのが石山寺の起こりとされている。
 本堂の本尊・如意輪観世音菩薩(国・重文)は、自然の岩盤の上に安置されている秘仏で、33年に一度開帳される。つぎの開帳は2024年。

珪灰岩と多宝搭

(写真は 珪灰岩と多宝搭)

紫式部 源氏の間

 石山寺の境内には、国の天然記念物に指定されている珪灰石(けいかいせき)があちこちに露出しており、本堂(国宝)や多宝塔(国宝)など、境内の堂塔との独特な調和を見せている。石光山石山寺の山寺号もこの珪灰石に由来しており、本尊の如意輪観世音菩薩もこの珪灰石の上に立っている。
 都が京に移ってからは湖国の風情を楽しみながら、観音霊場を巡礼する「石山詣」が天皇や皇族、貴族の間に流行した。紫式部は仕えていた女院から物語の創作を命じられ、物語の成就を祈願するため石山寺に参籠し物語の構想を練った。石山寺の対岸の山から昇る美しい中秋の名月を眺めて源氏物語を着想し、須磨に流された光源氏が名月を眺め、都での管弦の遊びを回想する「須磨の巻」の物語を書き始めたと伝えられている。

(写真は 紫式部 源氏の間)

 本堂内には紫式部が須磨の巻、明石の巻を書き上げたと言う「源氏の間」があり、紫式部の人形が置かれている。石山寺から眺める月は素晴らしく、近江八景のひとつ「石山の名月」にも選ばれている。毎年、中秋名月の宵には境内で紫式部祭が催され、源氏物語を生んだ風情を楽しむことができる。寺には紫式部の画像や式部が使ったと言う中国産の「石山形源氏の硯石」がある。
 石山寺は多くの平安文学の舞台となった所で「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「枕草子」「更級日記」などにも取り上げられている。
 御詠歌は「のちのよを ねがうこころは かろくとも ほとけのちかい おもきいしやま」。

石山形 源氏の硯石

(写真は 石山形 源氏の硯石)


 
芭蕉安息の地  放送 12月7日(火)
 奥の細道に「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり…」と記しているように、人生を旅として全国を歩いた俳聖・松尾芭蕉が、殊にお気に入りの土地のひとつが琵琶湖を望む景勝の地・大津だった。芭蕉が初めて大津を訪れたのは貞享2年(1685)春の「野ざらし紀行」の途中で、近江の風光を愛した芭蕉は以後もたびたび大津を訪れている。
 元禄3年(1690)4月、前年までの「奥の細道」の旅の疲れを癒すため、大津・石山の西、国分山山腹の幻住庵で約4ヶ月半の間、起き臥して過ごした。芭蕉はここでの生活や眺望を心から愛し、その日々の暮らしや俳諧道への心境を綴ったのが「幻住庵記」で、「奥の細道」と並ぶ俳文の傑作とされている。

幻住庵

(写真は 幻住庵)

義仲寺

 この草庵・幻住庵は、近江の門人で膳所藩士・菅沼定常(曲翠)が、定常の伯父・菅沼定知(幻住老人)がかつて住んでいた庵を補修して芭蕉に提供した。幻住庵記の中で「谷の清水を汲みてみずから炊ぐ」と述べている清水は、今もこんこんと湧き出ている。
 現在の幻住庵は大津市が平成3年(1991)に「ふるさと吟遊芭蕉の里」事業の一環として、旧庵の上に再建した。近くには幻住庵記の結びにある「先ず頼む 椎(しい)の木も有り 夏木立」と詠んだ句碑があり、この句のように現在も周辺には椎の木が多く、往時をしのぶことができる。また「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」で始まる幻住庵記の全文が、陶板に記さた幻住庵記碑がある。

(写真は 義仲寺)

 芭蕉の墓がある義仲寺(ぎちゅうじ)は木曽義仲の墓所で、琵琶湖に面した景勝の地にある。義仲寺の無名庵は芭蕉がしばしば訪れて門人たちと交流したところで、元禄3年7月23日、幻住庵を出て8月15日義仲寺で月見の会を催しており、翌年にも再び義仲寺で月見の会を催すなど、義仲寺からの琵琶湖の眺めが気にいっていたようだ。
 芭蕉は琵琶湖が望める近江の風光をこよなく愛し、近江の門人に宛てた手紙に「貴境は旧里(ふるさと)のごとく存ぜられ…」と記している。生まれ故郷の伊賀上野以外を旧里と言ったのは近江だけで、終の住み処と考えていたようだ。こうしたことから元禄7年(1694)大坂・御堂筋の南御堂前の花屋仁右衛門宅で亡くなった芭蕉は、遺言によって遺骸はこの義仲寺に葬られた。

翁堂

(写真は 翁堂)


 
琵琶湖の色・唐橋焼  放送 12月8日(水)
 瀬田の唐橋の少し西に古来から愛されている鳥のフクロウを主なモチーフにし、琵琶湖のコバルトブルーを基調にした焼き物が並べられ、目を引いている店が平成元年(1989)に窯を開いた唐橋焼の窯元。古くから伝わる陶芸の技法に、新しい釉薬(ゆうやく)の色彩を加え、手描き、手造りで現代の生活に潤いをもたす陶芸作品を目指している。
 いろいろな表情を見せている作品のフクロウには愛嬌が感じられ、部屋を飾る置物などインテリア向きの作品が多い。

唐橋焼窯元

(写真は 唐橋焼窯元)

福籠

 フクロウは「福籠」で福がこもる、「不苦労」で苦労知らず、フクロウは長寿な鳥で不老(フクロウ)長寿で長生きできる、首が360度回ることから商売繁盛につながるなど、大変縁起のよい鳥とされている。唐橋焼のフクロウがどれも目を閉じているのは、目を閉じて夢を育て、目をパッチリ開いた時には世の中をしっかり見つめるためだと言う。
 唐橋焼の窯を開いた若山義和さんは、八日市市に古くから伝わる布引焼の窯元で修行し、新たな感覚で唐橋焼を創作した。唐橋焼の色彩やモチーフのフクロウには布引焼の技法が生かされている。

(写真は 福籠)

 若山さんは陶芸の楽しさを多くに人に味わってもらおうと、積極的に陶芸教室を開いている。3ヶ月間にわたる長期の本格的な陶芸教室のほかに、保育園、幼稚園、小中学校、PTA、企業、修学旅行生らを対象に体験教室を開くなどその活動の幅は広い。また「ちょっとだけ陶芸教室」と銘打った1時間から1時間半の陶芸教室も開き、陶芸を始めるきっかけ作りをしている。
 唐橋焼はフクロウの置物などのインテリア作品のほかに湯呑み、カップなどの生活用品も製作しており、窯元や大津市内のショップで販売している。

唐橋焼

(写真は 唐橋焼)


 
大津酒 放送 12月9日(木)
 大津は京、大阪と東国、北陸とを結ぶ陸上、湖上交通の要所で、古くから米の流通の中継地にもなっていた。文禄年間(1592〜96)にはその米から清酒を造る人たちが現われ、酒造りが盛んになり豊臣秀吉にも銘酒を献上したと言う。
 元禄10年(1697)には77軒の造り酒屋があり、「大津酒」として約50種もの銘柄が存在したとの記録が残されている。その後、造り酒屋は減少し、明治4年(1871)には24軒になり、現在は当時からの蔵元で残っているのは1軒だけになった。

大津酒

(写真は 大津酒)

醸造石高を記した文書

 江戸時代の大津酒の銘柄の中の「浅茅生(あさじお)」と言う酒が今も製造、販売されている。当時の大津酒の蔵元として1軒だけ残っている平井酒造は元は近江屋と言い、万治元年(1658)の創業の大津酒の蔵元で、340年の歴史を持っている。
 「浅茅生」の銘柄銘は、後水尾天皇の御子・道寛親王から賜った「浅茅生の しげき野中の 真清水は いく千世ふとも くみはつきせじ」の歌に由来する。道寛親王は大津の門跡寺院・円満院の門跡を務めていたことがあり、その当時、平井酒造の当主がこの歌を賜ったのではないかと見られている。

(写真は 醸造石高を記した文書)

 蔵元の平井酒造で、蔵元と杜氏を兼ねて21世紀の大津酒を造っている平井亨さんは「昔ながらの手づくりにこだわり、この蔵元ならではの味の酒造りを心がけている」と言う。酒米を蒸すにも昔ながらの和釜で甑(こしき)を使っている。麹(こうじ)造りから酒母造りなど、すべての工程でわが子を慈しみ育てるように丹念に扱っている。こうしてでき上がった「浅茅生」を口にした人は「人の手の温もりが伝わってくるような酒」と表現する。
 酒の仕込みは冬場が常識となっているが、平井さんは夏仕込みにも挑戦し、夏にもできたての大津酒のうまさとのど越しの爽快さを味わってもらおうとしている。

平井酒造

(写真は 平井酒造)


 
百足退治伝説  放送 12月10日(金)
 琵琶湖から流れ出る唯一の川である瀬田川に架かる瀬田唐橋は、宇治橋、淀橋と並ぶ日本三名橋のひとつ。平安時代中期の武将・俵藤太こと藤原秀郷の百足(むかで)退治伝説でも知られている橋である。夕暮れ時の瀬田唐橋の景色が素晴らしいことから「瀬田の夕照(せきしょう)」として近江八景にも選ばれている。
 一方、古来から「唐橋を制する者は天下を制する」と言われ、京の都ののど元に当たる軍事、交通の要衝の地であった。何度も戦乱の舞台となり焼失し、その都度、架け替えられてきた。現在の橋は交通量の増大に伴って昭和54年(1979)に架け替えられたが、欄干の擬宝珠(ぎぼし)などに優雅な昔の橋の姿を留めている。

俵藤太略縁起(雲住寺版)

(写真は 俵藤太略縁起(雲住寺版))

百足供養堂

 野洲市にそびえる近江富士と言われる標高432mの三上山に、山を7巻半する大百足が住みつき、付近の山野を荒らし回っていた。瀬田川に棲む龍神が大蛇に変身して、唐橋の上に横たわった。通行人はみんな恐れて通らなかったが、狩の途中に通りかかった藤原秀郷は大蛇の背中を踏み越えて通った。大蛇になって肝を試していた龍神は翁の姿になり、秀郷の豪勇さを見込んで百足退治を頼んだ。
 百足退治を引き受けた弓の名手の秀郷は、その夜、瀬田に現われた大百足に一の矢、二の矢を放ったが射損じた。百足は人間の唾液を嫌うことから、三の矢につばきをかけて矢を放ったところ左目を射貫き、百足は地響きを立てて倒れ見事に退治した、と言うのが百足退治伝説。

(写真は 百足供養堂)

 秀郷は百足退治のお礼に龍宮に招かれ、乙姫たちの歓待を受けたあと、太刀や鎧などのみやげをもらって帰った、との落ちがついている。この伝説は関東で内乱を起こし、秀郷に討たれた平将門を嫌われ者の百足に例えたものだとも言われる。
 唐橋の東詰にある雲住寺は、秀郷から14代目の子孫の蒲生郡小御門城主だった蒲生高秀が、室町時代中期の応永15年(1408)に秀郷追善供養のため建立した。この寺には百足退治をした秀郷ゆかりの品々や資料が多く保存されており、境内には百足供養堂が建立されている。秀郷ゆかりの品としては太刀の鍔(つば)や蕪矢根(かぶらやね)、槍鉾先(やりほこさき)などがある。雲住寺のそばに秀郷を祀った瀬田橋龍宮秀郷社もある。

勢田橋龍宮秀郷社

(写真は 勢田橋龍宮秀郷社)


◇あ    し◇
石山寺京阪電鉄石山坂本線石山寺駅下車徒歩10分。 
JR東海道線石山駅からバス石山寺山門前下車。
幻住庵跡JR東海道線石山駅からバス国分町下車徒歩15分。 
義仲寺JR東海道線膳所駅、
京阪電鉄石山坂本線京阪膳所駅下車徒歩10分。
唐橋焼窯元京阪電鉄石山坂本線唐橋前駅下車。 
平井酒造(清酒・浅茅生)JR東海道線大津駅、京阪電鉄京津線・
石山坂本線浜大津駅下車徒歩10分。
勢田橋龍宮秀郷社、雲住寺JR東海道線石山駅下車徒歩18分。 
京阪電鉄石山坂本線唐橋前駅下車徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
大津市役所観光振興課077−528−2756 
びわ湖大津観光協会077−528−2772 
石山寺077−537−0013 
幻住庵077−533−3701 
義仲寺077−523−2811 
唐橋焼窯元077−537−0543 
平井酒造(清酒・浅茅生)077−522−1277 
勢田橋龍宮秀郷社077−545−3054 
雲住寺077−545−0234 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会