月〜金曜日 18時54分〜19時00分


赤穂市 

 12月半ばになると日本人なら誰しも歌舞伎や映画でお馴染の忠臣蔵が頭をよぎる。
忠臣蔵と言えば…。お決まりながら「歴史街道」もやはり赤穗を訪ねばなるまい。その赤穂には300年前に展開した人間の葛藤ドラマが甦る。


 
忠臣蔵のふるさと  放送 12月13日(月)
 時は江戸時代中期。徳川幕府の治世も安定し、天下泰平の世に入った元禄14年(1701)3月14日、播州赤穂藩主・浅野内匠頭は江戸城での勅使饗応の指南役・吉良上野介の理不尽な仕様に堪忍袋の緒を切り、殿中松の廊下での刃傷におよぶ。上野介の額と背中を小刀で切りつけ傷を負わせたが、側にいた梶川与惣兵衛に組み伏せられ上野介を討ち損じた。
 即日、切腹を命じられた内匠頭は「風さそう 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」と、無念の思いを辞世に残し、35歳の生涯を閉じた。この殿中松の廊下の事件は内匠頭ひとりの問題で終わらず、家老・大石内蔵助を筆頭に赤穂藩士やその家族、城下の町人までを巻き込んだ騒動へと発展する忠臣蔵の幕開きとなる。

殿中刃傷の場(歌川国芳画・赤穂市立歴史博物館蔵)

(写真は 殿中刃傷の場(歌川国芳画・
       赤穂市立歴史博物館蔵))

息継ぎの井戸

 大石内蔵助ら四十七士が翌年12月14日吉良邸に討ち入り、上野介の首級を挙げるまでの苦心惨憺の物語の人気は衰えることがない。忠臣蔵のふるさと赤穂には、義士にゆかりの史跡、遺品などが数多く残り、主君に忠節を尽くした義士たちの心情を肌で感じとろうとこの季節、赤穂を訪れる観光客が多い。
 主君・浅野内匠頭の殿中松の廊下の刃傷、即日切腹の知らせを江戸詰の藩士・早水藤左衛門、萱野三平が、早かごで昼夜を通して駆け続け、赤穂へ知らせた。早水、萱野の二人が赤穂城下にはいり、井戸水でひと息ついた息継ぎ井戸が浅野家の菩提寺・花岳寺近くに残っている。

(写真は 息継ぎの井戸)

 家老・大石内蔵助邸の門前に駆けつけた早水、萱野の両名は、門の扉をたたいて急を知らせた。この大石邸はその後、火災で焼失したが、この長屋門は焼け残り早水、萱野がこぶしでたたいた門も当時のまま残っている。長屋門内には刃傷事件を知らせた手紙を読む大石内蔵助、それを見守る大石の長男・主税、早水、萱野の姿が人形で再現されている。
 その後、幕府は赤穂城明け渡しを命じた。主君の仇討を誓い合う藩士、赤穂を離れる藩士、それぞれ歩む道は分かれる。仇討を誓い最後まで結束した四十七士は、翌年の12月14日、吉良邸に討ち入り上野介の首級を挙げ本懐を遂げた。四十七士は泉岳寺の主君の墓前に首級を供え、後に切腹し忠臣蔵の幕は下りる。

大石内蔵助墓所

(写真は 大石内蔵助墓所)


 
大石神社 放送 12月14日(火)
 大石内蔵助ら四十七士と実家の事情で討ち入りに加われず、刃傷事件の10ヶ月後の浅野内匠頭の月命日の1月14日に自刃した萱野三平、浅野内匠頭ら浅野家三代の城主、浅野家の後に赤穂藩主となった森家の武将らを祀る大石神社は大正元年(1912)に創立された。
 大石神社の創立には浅野家菩提寺・花岳寺の21代住職・仙珪和尚が尽力した。仙珪和尚は大変な義士崇拝者で、同志を募り大石神社創立を発願し、全国を歩いて浄財を勧進した。一時は「和尚狂せり」とまで言われたほどだったが、遂に念願を果たし、今日の大石神社を完成させた。神社の本殿脇には仙珪和尚表功碑が立っている。

赤穂浪士47人画像

(写真は 赤穂浪士47人画像)

大石邸長屋門

 大石神社の神域は大石内蔵助と江戸詰家老・藤井又左衞門の屋敷跡が中心で、殿中での刃傷事件を知らせる江戸から使者が大石邸に駆けつけ、一大事を知らせるために叩いた長屋門や庭園がそのまま残っており、往時をしのばせている。大石神社の入口・義芳門へ向かう参道の両側に立ち並ぶ四十七士の石像は圧巻。この義士像は吉良邸討ち入りの時に編成された内蔵助をはじめとする表門隊23人、内蔵助の長男・主税を隊長とする裏門隊の24人に分けて並んでいる。
 宝物館には忠臣蔵・赤穂義士に関するあらゆるものと言っても過言ではない、おびただしい資料が集められている。

(写真は 大石邸長屋門)

 大石内蔵助・主税父子が主君浅野内匠頭から拝領した愛刀、内蔵助の書簡、義士の愛刀、槍、内蔵助が吉良邸討ち入りに振った采配や呼子の笛などを宝物館で目にすると、仇討物語が事実であったことを実感させられる。内蔵助が自ら杯に描いたユーモラスとも言える絵は彼の粋人ぶりを表している。
 義士木像奉安殿には浅野内匠頭と四十七士の木像が安置されている。こららの木像は義士切腹から250年の大祭を記念して制作された。浅野内匠頭像は文化勲章受章者・平櫛田中、大石内蔵助像は文化功労者・山崎朝雲と、当代一流の彫刻家の手によるもので、他の義士の像も一流の彫刻家が制作に当たり、それぞれ義士の特徴をよくとらえた姿となっている。

大石内蔵助使用采配

(写真は 大石内蔵助使用采配)


 
花岳寺  放送 12月15日(水)
 赤穂藩の藩祖・浅野長直によって正保2年(1645)に開かれてた花岳寺は、浅野・永井・森各氏の歴代赤穂城主の菩提寺であり、家老・大石氏の香華所にもなっていた。寺の山門は明治6年(1873)当時の住職・仙珪和尚が赤穂城の塩屋門を買い取り移築したもので、大石邸の長屋門とこの山門が元禄時代の建物を今日に伝えている。
 この山門を入ったところにある「大石名残の松」は、大石内蔵助が元禄4年(1691)母の冥福を祈って植樹したもので、刃傷事件の後、浅野家断絶となり内蔵助が赤穂を立ち去る時、この松の木の下で名残を惜しんだいわれの深い松である。この松は昭和2年(1927)に松食い虫の被害にあい枯れ、現在の松は二代目。

忠義像

(写真は 忠義像)

義士の墓

 本堂左に義士50回忌に建てらた忠義塚があり、その後ろに義士の墓がある。墓所の中央に主君浅野公と内蔵助・主税父子の墓、この3人をぐるっとコ字形に取り囲むように、右側から45人の義士の墓が格式順に並んでいる。この墓石は義士37回忌に建てられたもので、それぞれの法名の上に「刃」の一字が刻まれている。これは切腹して果てた証しで、墓石建立のころには存命だった寺坂吉右衛門は後に追建されたが、天寿をまっとうしたので刃の字は刻まれていない。
 義士木像堂には大石家の守り本尊・千手観音像と浅野内匠頭の位牌を正面に祀り、その右側に表門隊23人、左側に裏門隊24人と萱野三平の木像が置かれている。

(写真は 義士の墓)

 これらの木像は義士の33回忌のころから造り始められ、100回忌に完成した。赤穂近郷の人たちが義士を慕って次々に寺に奉納したもので、いずれも京都の名工たちが花岳寺3代住職・恵光和尚の描いた義士出立の図を参考に制作した。
 山門を入ってすぐの「大石名残の松」のそばにある鐘楼は「鳴らずの鐘」と呼ばれる。
吉良邸に討ち入った義士たちが切腹したとの悲報を聞いて、赤穂城下の人たちが続々と花岳寺に集まり、義士たちの冥福を祈ってこの鐘を打ち続けた。「この時以来、音を出すことを失った」と言われた梵鐘で、義士との由緒が深い鐘だったので、太平洋戦争中の金属類供出も免れた。

鳴かずの鐘

(写真は 鳴かずの鐘)


 
赤穂城跡  放送 12月16日(木)
 赤穂城は浅野長直が常陸から転封した3年後の慶安元年(1648)から13年を費やして築いた海岸平城。徳川幕府の世が治まって安定期に入ってからの築城ながら近世の名城と言われていた。天守閣こそ築かれなかったが、複雑に折れ曲がる石垣、角度を違えた諸門など戦を意識した造りになっている。
 明治以降、城は取り壊され、堀は埋め立てられて、城跡は民間に払い下げられた。城跡には旧制赤穂中学校(現赤穂高校)が建設されるなどしたが、昭和30年(1955)に大手門や大手隅櫓、城壁の一部が復元された。昭和46年(1971)赤穂城跡が国の史跡に指定され、赤穂高校も移転して本格的な城跡整備が始まり、本丸門、本丸隅櫓などが逐次復元、整備され、城趾公園としてその景観を整えてきた。

赤穂城

(写真は 赤穂城)

赤穂市立海洋科学館 塩の国

 「赤穂は塩焚く煙たなびき…」と言われ、赤穂では弥生時代から塩が生産されていた。
海水のついた海藻を燃やしてその灰を使う藻塩焼の言われる最も古い製塩法から始まって揚浜(あげはま)、入浜(いりはま)の塩浜塩田法、流下式枝条架塩田法へと進化し、今は完全に工業化されたイオン交換膜法による製塩になっている。
 赤穂藩の初代藩主・浅野長直は、塩田干拓を積極的に進め良質な塩の増産を図り、赤穂は「塩の国」と呼ばれるようになった。「忠臣蔵」の発端となった浅野家と吉良家の確執の原因は、一説にはこの製塩方法の秘伝をめぐってのこととも言われている。

(写真は 赤穂市立海洋科学館 塩の国)

 広大な塩田跡地は工業用地や文教用地に転用され、その一角に「赤穂市立海洋科学館・塩の国」がある。赤穂の製塩の歴史や海洋の知識を学ぶことがができ、塩作りの変遷や世界各地の塩を紹介したのが「塩ギャリー」。館外の広大な敷地に復元された「塩の国」には、今では見られなくなった揚浜式、入浜式、流下式の製塩方法が復元されている。流下式塩田では、今も昔ながらの方法での製塩作業が行われており、これらの塩田作業の実体験や塩田で塩分を濃くした水を煮詰める塩作りの体験学習ができる。
 赤穂のまろやかな塩を使った名物が塩味饅頭。江戸時代に将軍家にも献上されたと言う和菓子で、食べて初めてその味の良さがわかると言う独特の風味が、この饅頭の人気を高めている。

塩味饅頭(巴屋本舗)

(写真は 塩味饅頭(巴屋本舗))


 
瀬戸内の恵み  放送 12月17日(金)
 赤穂市の東部、天然の良港で知られた坂越(さこし)の町は、江戸時代、瀬戸内海航路の中継地としての廻船業と瀬戸内の海の幸の恵まれた漁業で栄え、当時をしのばせる情緒ある町並が今も残る。
 大庄屋で酒造りなどの事業を営み、西国大名の本陣にもなった奥藤家の入母屋造の建物は、300年の歴史が刻まれている。奥藤家の酒造りは関ヶ原の戦の翌年の慶長6年(1601)から始められ、今も芳醇な地酒「忠臣蔵」の製造を続けている。義士の町・赤穗にふさわしい銘酒「忠臣蔵」は、千種川の澄んだ水から生まれ、赤穂を訪れる観光客らに「赤穂みやげには最適」と人気がある。 
坂越

(写真は 坂越)

奥藤酒造

 坂越には幕末の天保3年(1832)建てられた旧坂越浦会所の建物がある。坂越の行政や商業などの事務を取るための村会所で、赤穂藩の茶屋の役割も備え、2階には藩主専用の部屋が設けられている。大正末期に建てられた旧奥藤銀行の建物を改修した「坂越まち並み館」は観光案内所も兼ね、坂越ゆかりの品々や銀行時代のアメリカ製の巨大な金庫が展示されている。この建物の屋根裏は竹を使った竹野地仕上げになっており、今ではなかなか目にすることができないものである。
 坂越浦に浮かぶ生島は大避(おおさけ)神社の神域で、立入が禁じられていたので原始林が残り、国の天然記念物に指定されている。

(写真は 奥藤酒造)

 赤穂市の南部、瀬戸内海に突き出た赤穂御崎は瀬戸内海国立公園の一部で、奇岩が男性的で豪放な海岸美を創り出している。海岸沿いに遊歩道が整備され、週末には家族連れ、夏には海水浴客でにぎわう。
 この一角にあるのが赤穂温泉。昭和45年(1970)に温泉の掘削に成功し、海岸の景観美と合わせ赤穂御崎温泉として観光客に親しまれてきた。しかし湯量が減少したため新しい泉源を求めて掘削を行い、平成12年(2000)地下1600mで温泉を掘り当てた。これを機に赤穂温泉と改め、ミネラル成分を多く含む食塩泉の優れた温泉成分から「よみがえりの湯」として売り出した。温泉旅館からは瀬戸内海の景観が楽しめ、カキ、アナゴ、タイ、エビなどの瀬戸内海の幸が賞味できる。

赤穂温泉 祥吉

(写真は 赤穂温泉 祥吉)


◇あ    し◇
大石神社JR赤穂線播州赤穂駅下車徒歩15分。 
花岳寺JR赤穂線播州赤穂駅下車徒歩10分。 
赤穂城跡JR赤穂線播州赤穂駅下車徒歩20分。 
赤穂市立海洋科学館・塩の国JR赤穂線播州赤穂駅からバスで明神木下車
徒歩15分。
巴屋本舗(塩味饅頭)JR赤穂線播州赤穂駅下車徒歩15分。 
奥藤酒造郷土館(銘酒「忠臣蔵」)JR赤穂線坂越駅下車徒歩15分。 
赤穂御崎JR赤穂線播州赤穂駅からバスで赤穂御崎下車。 
◇問い合わせ先◇
赤穂市役所観光商工課0791−43−6839 
赤穂市観光情報センター0791−42−2602 
赤穂市教育委員会、赤穂城跡0791−43−6858 
赤穂市立歴史博物館0791−43−4600 
大石神社0791−42−2054 
花岳寺0791−42−2068 
赤穂市立海洋科学館・塩の国0791−43−4192 
巴屋本舗(塩味饅頭)0791−42−2470 
奥藤酒造郷土館(銘酒「忠臣蔵」)0791−48−8005 
祥吉(赤穂温泉旅館)0791−43−7600 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会