月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪城とその周辺 

 大阪城は大阪のシンボルで、なにわっ子の心のよりどころでもある。新年、大阪城内を散策し、天守閣の展望台に登り、大阪の街を見渡し心を新たにするのも、正月のひとときの過ごし方のひとつでは。


 
天守閣の輝き  放送 1月4日(火)
 大坂城は豊臣秀吉が石山本願寺跡に天正11年(1583)築城を始め、2年後に天守閣が完成する。だが、秀吉が築いた城は慶長20年(1615)の大坂夏の陣で、豊臣氏の滅亡ともに天守閣も炎上して焼失した。徳川の世となって大坂城が再建され、現在の石垣や堀などは江戸時代に築かれたものである。この時再建された天守閣は、寛文5年(1665)に落雷によって焼失、以来、大坂城は天守閣のない時代が長く続いた。
 昭和3年(1928)関一・大阪市長が、昭和天皇の即位を祝う記念事業として、大阪城天守閣の復興を提案し、復興費150万円(現在の約750億円に相当)は、市民からの寄付でまかなうことにした。

大阪城天守閣

(写真は 大阪城天守閣)

西の丸庭園

 ちょうど不況の時代であったにもかかわらず、住友財閥の住友吉左衛門氏の25万円を筆頭に最低10銭までの市民の寄付が続々と集まり、わずか半年で目標の250万円を達成した。
 こうして昭和6年(1931)地上55m、5層8階、最上層の屋根の鯱(しゃちほこ)、勾欄下の伏虎など、いたるところに施された黄金の装飾が燦然と輝く大阪城天守閣が、266年ぶりによみがえった。大阪市民は「大阪城天守閣は自分たちの浄財で再建した」との自負が強く、強い愛着を抱いている。天守閣再建後70年が過ぎ、平成7〜9年(1995〜97)にかけて「平成の大修理」が行われ、美しい姿を取り戻し大阪のシンボルとして輝きわたっている。

(写真は 西の丸庭園)

 大阪城内の西の丸庭園(有料)は昭和40年(1965)に開園した芝生庭園で、本丸の石垣、その上にそびえる天守閣が最も美しく、堂々とした姿が望める絶好のポイントである。この庭園は徳川時代の西の丸跡地やその南側の城代屋敷跡などをまてめて庭園にしたもので、総面積は6万4000平方m(約2万坪)、周囲を樹木に囲まれた静かな庭で、春は桜の名所として知られている。
 この西の丸庭園の東北隅にある茶室「豊松庵」は、昭和44年(1969)松下幸之助氏から寄贈されたもので、市民らがお茶を楽しんでいる。茶室の利用のない日は、予約しておけば立礼席で点出し(たてだし)のお茶を楽しむことができる。

茶室豊松庵

(写真は 茶室豊松庵)


 
城郭の風光  放送 1月5日(水)
 大阪城天守閣のある本丸の南側の門が桜門。豊臣時代にはこの門の前が、桜並木だったので桜門の名がつけられたと言われている。その桜門の南東の二の丸の一角に秀吉・秀頼・秀長を祀る豊国神社がある。豊臣時代には山里丸に豊国社があったが、豊臣氏滅亡後の徳川時代には再建されなかった。
 この豊国神社は、明治12年(1879)現在の大阪市中之島、大阪市中央公会堂がある場所に創建されたが、昭和36年(1961)に現在地へ移された。

豊国神社

(写真は 豊国神社)

秀石庭

 豊臣秀吉は慶長3年(1598)京都伏見城で没し、京都・東山の阿弥陀ケ峰に葬られ、その麓に広壮な豊国神社が創建された。しかし、豊臣氏滅亡後は徳川氏によって神社は破棄されていた。明治6年(1873)朝廷の命で京都の豊国神社が再建された。これについで大阪でも朝廷の命で明治12年(1879)中之島に京都・豊国神社の別社として再建され、後に大阪城内へ移さるなどの変遷をたどった神社である。
 豊国神社では秀吉の馬印だった千成瓢箪(せんなりひょうたん)が、出世開運瓢箪のお守りとして売られている。この瓢箪をひとつずつ増やし、千成瓢箪のお守りにしようとしている人も多い。

(写真は 秀石庭)

 大阪城のある場所は、はもともと浄土真宗の蓮如上人の石山御坊があった所で、織田信長との長期にわたる戦いの石山合戦の場でもあった。この石山本願寺の跡に大坂城を築いた豊臣秀吉の「秀」と石山の「石」を取って、秀石庭と命名された庭が豊国神社境内にある。秀吉ゆかりの千成瓢箪の形を庭の地割模様とし、巨石を組み合わせた日本庭園で、大阪の発展は海に面したことが原動力となっていたことから、一木一草を用いずに海洋を表現している。
 大阪城の東側に広がる市民のいこいの広場・大阪城公園の一角に大坂城弓道場がある。
25人が弓を射ることができる射場があり、心静かに精神を整え弓を射る人の姿が見られる。

大阪城弓道場

(写真は 大阪城弓道場)


 
街道の起点  放送 1月6日(木)
 昭和初めに再建された大阪城天守閣は、その内部を歴史博物館として活用している。
昭和時代にはいって全国で大小40ほどの天守閣が再建されたが、天守閣を博物館として利用したのは大阪城天守閣が第1号で、その後、各地の天守閣も博物館や資料館として活用されるようになった。大阪城天守閣の歴史博物館では、大阪城天守閣が所蔵している豊臣秀吉関係の資料を中心に約8000点を順次展示している。
 このおびただしい収蔵品の中に、大坂夏の陣の戦勝記念に徳川方が持ち帰ったと言う高麗橋の擬宝珠(ぎぼし)がある。慶長9年(1604)の刻銘があるこの擬宝珠は、豊臣秀頼の時代に高麗橋の欄干に取り付けられていたものと推定される。

高麗橋擬宝珠(大阪城天守閣蔵)

(写真は 高麗橋擬宝珠(大阪城天守閣蔵))

淀川両岸一覧(大阪城天守閣蔵)

 高麗橋通は大坂城築城に合わせて、東の真正面に天守閣が望めるように計画され通りで、その通りの東横堀川に架かるのが高麗橋。江戸の日本橋、京都の三条大橋と並んで天下の三名橋とも言われた。高麗橋の名称は、近くに朝鮮からの使節を迎える迎賓館のような「高麗館(こまのむろつみ)」があったことに由来するとか、豊臣時代に朝鮮との貿易が盛んになり、この橋の周辺に商人らが集まったので高麗橋と呼ばれたなどの説がある。
 当時、高麗橋の西詰に櫓(やぐら)屋敷が作られた。橋を渡る通行人を役人が監視するためと、大坂城の眺めを楽しむためのようだった。現在の高麗橋にはその櫓屋敷を模した装飾が各所につけられている。

(写真は 淀川両岸一覧(大阪城天守閣蔵))

 当時の高麗橋は、大坂から諸国への街道の起点であり、京へは大坂城北の寝屋川に架かる京橋を渡って行った。明治時代には橋の東南詰めに里程元標があったが、今は里程標跡の碑が建てられている。
 大坂城の北の玄関口・京橋門を出て京へ向かう出発点だった京橋は大坂夏の陣で焼失、徳川時代に再び架けられた。大正13年(1924)に架け替えられた現在の京橋のすぐそばに、今はもうひとつ橋が架かっている。これを大坂橋と言い歩行者、自転車専用橋で、名称は現代の大阪でなく、江戸時代まで使われた大坂の字を当てている。JR環状線、東西線と京阪電鉄の「京橋駅」は、この京橋よりかなりかけ離れた東にあり、地理に不案内な人は戸惑うこともあるだろう。

滑稽浪花名所天満市場(大阪城天守閣蔵)

(写真は 滑稽浪花名所天満市場
                       (大阪城天守閣蔵))


 
文明開化の息吹・泉布観  放送 1月7日(金)
 大阪城の北を流れる大川べりに優雅な姿を見せる泉布観(せんぷかん=国・重文)は、造幣寮(現造幣局)の応接所として明治4年(1871)に建設された建物で、大阪で現存する最古の洋風建築。設計者は英国人のウォートルスで、造幣寮のすべての建物を設計したほか、東京の煉瓦街を設計したことでも知られ、日本の洋風建築の歴史に大きな業績を残した設計者だった。
 完成の翌年、明治天皇が行幸し、この時、天皇が自ら泉布観と命名した。「泉布」は貨幣、「観」は館を意味する。明治天皇は泉布観を3回も訪れており、明治時代を通じて皇族や外国からの要人を数多く迎えた。

泉布観

(写真は 泉布観)

2階北西室暖炉のタイル

 建物の構造は煉瓦造2階建てで、建物のまわり全体にヴェランダを巡らせた「ヴェランダ・コロニアル」と言われる形式。暖炉などに使われた耐火煉瓦を除く構造物の煉瓦はすべて国産品で、大阪周辺や広島で製造されたようだ。建物の外周にめぐらされた柱は、すべて花崗岩製で柱の形態はトスカナ式と呼ばれる。トイレは水洗式になっていたが水源をどのように確保していたかは不明である。
 内部は天井が高く、ガス灯だった当時のシャンデリアや照明器具は、電灯に変わった後もそのままの形、意匠で使われ、賓客を迎えるにふさわしい装飾品の雰囲気を今に伝えている。2階へ通じるゆったりとした階段は当時のままで、磨き抜かれた手すりなどにその歴史を感じさせる。

(写真は 2階北西室暖炉のタイル)

 2階北西の部屋には特徴的な楕円形の暖炉があり、暖炉のまわりには輸入タイルが使われている。床の市松模様は、一見するとタイル貼りのように見えるが、床板にペンキで描いたもので、当時、高価なタイルを床全面に敷き詰めることはできなかったようだ。2階北東の部屋は玉座の間に当てられ、現在の部屋の内装は明治41年(1908)の行幸の時に施されたものが、そのまま残されている。
 大正6年(1917)に大阪市に移管された後、昭和31年(1956)洋風建築としては全国に先駆けて国の重要文化財に指定された。昭和37〜39年(1962〜64)にかけて保存修理工事が行われ、建設当時の姿と雰囲気がよみがえった。普段は一般公開されておらず、毎年、春分の日前後にのみ一般公開される。

ヴェランダ

(写真は ヴェランダ)


◇あ    し◇
大阪城地下鉄谷町線天満橋駅又は谷町四丁目駅、中央線森ノ宮駅又は谷町四丁目駅、地下鉄長堀鶴見緑地線森ノ宮駅又は大阪ビジネスパーク駅下車。
JR環状線森ノ宮駅又は大阪城公園駅、東西線大阪城北詰駅下車。
京阪電鉄天満橋駅下車。
高麗橋地下鉄堺筋線、京阪電鉄北浜駅下車徒歩5分。 
京橋JR東西線大阪城北詰駅下車徒歩10分。 
地下鉄谷町線、京阪電鉄天満橋駅下車徒歩5分。
泉布観地下鉄谷町線南森町駅下車徒歩15分。 
京阪電鉄天満橋駅下車徒歩15分。
JR環状線森ノ宮駅下車徒歩15分。
JR東西線大阪城北詰駅下車徒歩1分。
◇問い合わせ先◇
大阪城天守閣06−6941−3044  
大阪城西の丸庭園06−6941−1144 
大阪城西の丸庭園・豊松庵(茶室)06−6941−1717 
豊国神社06−6941−0229 
大阪城弓道場06−6941−9921 
泉布観
(大阪市教委文化財保護課)
06−6208−9069 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

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