月〜金曜日 18時54分〜19時00分


羽曳野市〜葛城市・竹内街道沿いの史跡 

 飛鳥に都があったころ、難波から飛鳥へ通じるわが国最古の官道・竹内街道が大阪・奈良の府県境の二上山の南麓を通っている。大陸文化伝来の道として知られる竹内街道は、まさに歴史街道そのもので、沿道には多くの歴史遺産が残されている。今回はこの街道沿いの史跡を訪ねた。


 
白鳥伝説(羽曳野市)  放送 1月24日(月)
 羽曳野市は・竹内街道と大王のねむるまち・を標榜しており、市内にはわが国最古の官道・竹内街道が通り、堺市の仁徳天皇陵に次ぐわが国で2番目に大きな前方後円墳の応神天皇陵など、大小の古墳が多く点在している。
 全長190mの前方後円墳・白鳥陵古墳は武勇で知られた日本武尊(やまとたけるのみこと)の墓と伝えられている。景行天皇の皇子・日本武尊は、大和朝廷の全国平定の命を受けて九州の熊襲(くまそ)、東国の蝦夷(えみし)を討つなど、東に西に転戦して勝利を収めたが、大和への帰途、病で伊勢・能褒野(のぼの=現・三重県亀山市)で没したと古事記に記されている。

日本武尊

(写真は 日本武尊)

白鳥陵古墳

 日本武尊はこの能褒野から白鳥に姿を変えて飛び立ち、琴弾原(ことひきはら=現・奈良県御所市)を経て、旧市邑(ふるいちむら=現・羽曳野市古市)にとどまったと言う。
亀山市には能褒野王塚古墳、御所市には日本武尊琴弾原白鳥陵、そして羽曳野市に白鳥陵古墳があり、これを白鳥三陵と呼んでいる。白鳥神社の縁起によれば「さらに白鳥は舞い上がり、羽を曳くように飛び去った」とあり、これが羽曳野の地名の由来となった。
 この古墳は明治時代に日本武尊の陵墓に指定された。古墳の築造年代の分析から日本武尊の陵墓とするには無理があるが、白鳥三陵の伝説からこの古墳が日本武尊の陵墓に指定されたようだ。

(写真は 白鳥陵古墳)

 日本武尊と素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神とする白鳥神社が、近鉄南大阪線古市駅東側に鎮座している。元は約1.5kmほど西の軽里地区西の伊岐谷(いきだに)に創建された「伊岐宮(いきのみや)」で、戦国時代の兵火や地震などで荒廃し、江戸時代の寛永年間(1624〜44)に現在地に移され、古市の氏神となった。白鳥神社には今も「伊岐宮」の扁額が掲げられている。
 白鳥神社のある所は、神社が移されるまでは前方後円墳があった所で、後円部に神社が再建された。前方部は古市駅から国道170号にかけての地域で、開発で姿を消したが今も前方部の面影がわずかに残っている所がある。

白鳥神社

(写真は 白鳥神社)


 
街道の古社(羽曳野市)  放送 1月25日(火)
 竹内街道とは別に古市を南北に貫く東高野街道沿いに、仁徳天皇陵に次いでわが国で2番目に大きな前方後円墳の応神天皇陵がある。その後円部に鎮座しているのが誉田(こんだ)八幡宮。
 6世紀半ばに欽明天皇の勅願によって、応神天皇を主祭神として創建されたのが日本最古の八幡宮。初めは応神天皇陵の後円部の頂上に社殿が建立されていたが、平安時代中期の永承6年(1051)後冷泉天皇が現在地に社殿を造営、誉田八幡宮と称した。

誉田八幡宮

(写真は 誉田八幡宮)

誉田宗廟縁起

 室町時代に足利義教が奉納した絵巻「誉田宗廟縁起(こんだそうびょうえんぎ・国・重文)」は、応神天皇の崩御を伝え聞いた近郷の人びとが、鋤(くわ)や鍬(すき)をもって御陵を築く様子から始まる縁起が描かれている。
 祭神が応神天皇であることから皇室の崇敬を集め、中世にはいってから皇室から分かれた源氏一族の氏神として崇敬された。鎌倉時代以降は源氏一門や各時代の将軍、一般武士にいたる幅広い崇敬を集め、今は安産の神、商工業、学問、芸術、厄除けの神として庶民の信仰が篤い。社殿は南北朝から戦国時代にかけての戦乱による兵火で再三焼失し、現在の社殿の大半は慶長年間(1596〜1615)に豊臣秀頼が寄進したものである。

(写真は 誉田宗廟縁起)

 皇室や源氏一門の崇敬が篤かったことから貴重な宝物、文化財を多数保有している。
境内の宝物館には源頼朝寄進と伝えられる「塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ・国宝)」や応神天皇陵陪塚から出土した「金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ=国宝)」、江戸時代まで曳かれていた檀輾(だんじり)や例祭の華やかな様子が描かれた絵図などが保存、展示されている。
 秋祭には頼朝寄進の国宝の神輿が、誉田八幡宮から応神天皇陵へ通じる参道に架かる太鼓型の石橋・放生橋を渡って、応神天皇陵へ渡御する。

だんじり

(写真は だんじり)


 
文人たちの道(葛城市)  放送 1月26日(水)
 竹内街道は7世紀初めに難波と飛鳥を結んだ最古の官道で、日本書紀に「難波より京(みやこ)至る大道を置く」と、推古天皇21年(613)にこの道が設けられたことが記されている。このルートが後に堺市大小路から松原市、羽曳野市、太子町を通り、葛城市当麻町長尾神社を結ぶ竹内街道となった。このルートを通って中国、朝鮮半島から仏教文化などの大陸文化が入り飛鳥で花開いた。また中国、朝鮮からの使者、わが国からの遣隋使、遣唐使らはこの街道を往来した。
 都が平城京へ遷都した後は、聖徳太子信仰の道、堺と大和を結ぶ経済の道、江戸時代には西国三十三カ所巡礼や伊勢詣、大峰山詣などの参詣道としてにぎわった。

奈良県葛城市

(写真は 奈良県葛城市)

綿弓塚

 竹内街道沿いには歴史を刻んだ遺跡や寺院、旅籠(はたご)、民家、石仏、石の道標、灯籠などの文化財が数多く残っている。茅葺き屋根の両側と一段低いひさし部分を瓦屋根にした「大和棟」と呼ばれる、独特の建築様式の農家や民家が残っており、昔の街道の風情を今に伝えている。
 竹内街道を大和側へ下った竹内の集落は、司馬遼太郎氏の母親の里で、司馬氏も幼少期をここで過ごした。司馬氏は著作「街道をゆく」の中で「長尾から竹内までのほんの数丁の間は、日本で唯一の国宝に指定されるべき道である」と書いているほど、旧街道の姿をよく残している。

(写真は 綿弓塚)

 この竹内の地は松尾芭蕉の門人・千里の郷里でもある。芭蕉もしばしば竹内を訪れており、野ざらし紀行の時も千里とともに竹内に立ち寄って滞在し、當麻寺などに参詣している。その時に「綿弓(わたゆみ)や 琵琶になぐさむ 竹の奥」の句を詠み、これを記念する綿弓塚が建立されている。綿弓とは弓状の棒に牛や鯨のひげの弦を張って、綿の木から取った綿を打って柔らかくする道具で、当時、このあたりでは綿の生産が盛んであったようだ。
 綿弓塚のそばに旧家を移した休憩所がある。内部には囲炉裏があり、芭蕉の資料や司馬遼太郎氏の色紙などが展示されている。この街道は多くの文人墨客や貴族、武士、政治家などが往来してきたが、今も往時をしのぶハイカーたちの姿が見られる。

綿弓塚記念館

(写真は 綿弓塚記念館)


 
峠の故事(葛城市)  放送 1月27日(木)
 竹内街道の大阪と奈良の府県境の竹内峠は、別名・身枌(みそぎ)峠と呼ばれる。峠から大和側へ下り、竹内街道から少し南へはいった竹内集落の綿弓塚の西にある西光院に、身枌峠の名の由来となった十一面観音菩薩像、別名・身枌観音像が祀られている。
 戦国時代の天文7年(1538)長谷寺の観音を彫るため、巨大な楠の霊木が江州(滋賀県)から川を下り、河内を経て大和へ運ばれた。ところが竹内峠にさしかかると道が狭くて険しく、霊木が通過できないため、その梢(こずえ)部分を切り落として通した。

西光院

(写真は 西光院)

十一面観音菩薩立像

 霊木は無事、長谷寺へ到着し高さ10m余の大観音像となって長谷寺の本堂に本尊として祀られ、今も西国三十三カ所観音霊場の観音さまとして多くの参詣者がお参りしている。
 竹内峠で切り落とされた霊木の梢の一部を枌(そ)いで造られたのが、長谷寺型の身枌観音像。像高は185cmで全身金箔仕上げとなっている。元は竹内堂の前にあった未来寺の本尊として祀られていたが、享保8年(1723)に西光院に移され観音堂の本尊として祀られるようになった。

(写真は 十一面観音菩薩立像)

 西光院は法然上人が広めた本願念仏の道場として、天正年間(1573〜92)に創建され、以後、この地方の浄土信仰の中心となった寺である。境内からは北に二上山、南に葛城山が望め、眼下には大和盆地が一望できる眺めのよい寺である。
 本堂に浄土信仰の本尊・阿弥陀三尊像が祀られ、その左に安置されている高さ85cmの地蔵菩薩立像は、桧の一木造りで国の重要文化財に指定されている。この地蔵菩薩像は頭が大きくて首が短く、胸部から腹部にかけては肉感的で、5等身の幼児のような体形の地藏さんである。

地蔵菩薩立像

(写真は 地蔵菩薩立像)


 
心を染める古寺(葛城市)  放送 1月28日(金)
 大阪府と奈良県の境にそびえ、万葉の時代から歌にも詠まれている二上山の大和側の麓に位置するのが石光寺。1300年ほど昔、飛鳥時代の天智天皇のころ(668〜671)、この地に幾筋もの光を放つ場所があり、天智天皇が掘らせたところ、光に輝く弥勒三尊像が現われた。
 天皇は堂宇を建立して弥勒三尊像を本尊として祀り、修験道の祖・役小角(えんのおずぬ)を開山に寺を石光寺と称したと伝えられている。弥勒堂には秘仏の本尊・弥勒菩薩像が祀られており、平成3年(1991)の弥勒堂建て替えにともなう発掘調査で出土した、日本最古の白鳳時代の石仏が堂内に安置されている。

弥勒如来坐像(秘仏)

(写真は 弥勒如来坐像(秘仏))

中将法尼像

 創建の時期、伽藍配置などを知る資料はないが、境内から出土した塔の大心礎、粘土に仏を彫って焼いたせん仏、瓦などから、近くの當麻寺と同じ7世紀後期の創建と見られているが不明な点が多い。
 8世紀半ばの聖武天皇のころ(724〜49)の、伝説上の非運な女性として知られる中将姫ゆかりの寺でもある。中将姫が一夜のうちに織りあげた當麻曼荼羅の蓮糸は、この寺の井戸の水に浸して5色に染めあげ、桜の木にかけて乾かしたと言われ、この井戸を「染の井」、桜の木を「糸かけ桜」と言う。井戸は今も残っており、糸かけ桜は古株だけになっている。この伝説から石光寺は「染寺」とも呼ばれ、尼僧姿の中将姫像が安置されるなど、中将姫にまつわるあでやかな雰囲気が寺を包んでいる。

(写真は 中将法尼像)

 石光寺は花の寺としても知られ、四季を通じ境内には何らかの花が咲き、寺を訪れる人たちの心を和ませてくれる。この中でもボタンが有名で、境内に約500種、5000本が4月下旬から5月上旬にかけて一斉に大輪の花をつけ咲き競う。
 また、肌を刺すような寒さの中、わら帽子の下でかれんな花をつける寒ボタンは、人の心をとらえる不思議な魅力を持っている。真冬に凛とした姿で花をつける約30種、1000本の寒ボタンは、冬の風物詩として当麻の里の名物になっており、アマチュアカメラマンが連日、訪れてシャッターを切っている。

佛頭

(写真は 佛頭)


◇あ    し◇
白鳥陵古墳近鉄南大阪線古市駅下車徒歩10分。 
白鳥神社近鉄南大阪線古市駅下車。 
誉田八幡宮近鉄南大阪線古市駅下車徒歩8分。 
応神天皇陵近鉄南大阪線道明寺駅下車徒歩15分。 
竹内峠近鉄南大阪線磐城駅下車徒歩約50分。 
綿弓塚、西光院近鉄南大阪線磐城駅下車徒歩20分。 
石光寺近鉄南大阪線二上神社口駅又は当麻駅下車徒歩20分。 
◇問い合わせ先◇
羽曳野市役所まちづくり推進課
羽曳野市観光協会、羽曳野市教育委員会
0729−58−1111
白鳥神社0729−56−9758 
誉田八幡宮0729−56−0635 
葛城市役所當麻庁舎0745−48−2811 
西光院0745−48−2364 
石光寺0745−48−2031 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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