月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良市・奈良公園〜高畑界隈

 冬の奈良公園内の春日野、浅茅ヶ原あたりは、観光客もまばらで静かだ。鹿もわずかに残る草を食んでいる。こんな奈良市内を寒さに負けずに散策するのも、趣の異なった奈良を再発見する好機かもしれない。3月上旬には東大寺・二月堂のお水取りがあり、やがて古都・奈良にも春が訪れる。


 
春日野散策 放送 2月7日(月)
 どこを歩いても史跡、風物、家並みなどの眺めが、静かに楽しめる奈良の街。春日大社の参道から浅茅ヶ原、高畑界隈にかけては、奈良時代には万葉人と言われた貴族たちが野遊びを楽しんだ所で、ロマティックな雰囲気が感じられ、カップルや若い女性たちに人気の高いコース。
 春日さんの大鳥居、奈良公園内をのどかに歩く鹿、浅茅ヶ原の宝形造りで茅葺き屋根の円窓(まるまど)亭(国・重文)、鏡のような鷺池に六角形の優美な姿を映す浮見堂など、どれもが奈良を代表するおなじみの風景で、いずれも“絵になる”ものばかりだ。

浮身堂

(写真は 浮見堂)

志賀直哉旧居

 春日大社から“ささやきの道”を抜けた所の高畑に文豪・志賀直哉(1883〜1971)の旧居がある。大正14年(1925)京都・山科から引っ越してきた志賀直哉が、昭和4年(1929)風光明媚な高畑に自ら設計して住宅を建て、鎌倉に移り住むまでの10年間、家族と共にここで過ごした。
 数寄屋風造りで、洋風や中国風の様式も取り入れており、洋風サンルームや娯楽室、書斎、茶室、食堂を備えた当時としては大変モダンで合理的な建物で、彼のモダンな感覚がうかがえる。志賀直哉はここで「暗夜行路」のほか「痴情」「プラトニック・ラブ」「邦子」などの作品を執筆した。

(写真は 志賀直哉旧居)

 また、志賀直哉を慕って武者小路実篤や小林秀雄、尾崎一雄、堀辰雄、足立源一郎ら白樺派の文人や画家がしばしば訪れ、文学論や芸術論などを語り合う文化サロンとなり、いつしか“高畑サロン”と呼ばれるようになった。書斎や2階の客間からは若草山や三蓋(みかさ)山、高円(たかまど)山の眺めが美しく、庭園も執筆に疲れた時に散策できるように作られていた。
 志賀直哉旧居の南東にある白毫寺は天智天皇の皇子・志貴親王の離宮を寺にしたもので、境内からの眺望が素晴らしい。奈良三名椿として知られる五色の椿は、紅白のまだら模様の花びらをつけ、秋の萩の花とともに参詣者の目を楽しませてくれる。

サンルーム

(写真は サンルーム)


 
新薬師寺 放送 2月8日(火)
 高畑の東南部、高円山と春日山を望んで新薬師寺が静かにたたずんでいる。天平19年(747)聖武天皇の眼病平癒を祈願して、光明皇后が建立したのが新薬師寺。当時は金堂、講堂、東西両塔など七堂伽藍(がらん)が建ち並ぶ大寺院だった。「新」とは「新しい」と言う意味ではなく「あらたかな」の意味である。
 新薬師寺は大和でも屈指の国宝を有する寺院だ。横長で屋根の勾配がゆるやかなゆったりした安定感を見せる本堂(国宝)は、創建当時のまま残っている唯一の建築物で、創建当時は食堂(じきどう)だったと見られている。新薬師寺は秋には境内に萩の花が咲き乱れ参詣者を楽しませてくれる。

本堂

(写真は 本堂)

本尊 薬師如来坐像

 本堂内の円形土檀の須弥檀には、平安時代の作で像高191.5cmの木造の本尊・薬師如来座像(国宝)が安置され、その周りを奈良時代の作の塑像・十二神将像が、憤怒の表情などで円陣を組み本尊を護持している。本尊・薬師如来座像は、左手に大きな薬壺を持ち、右手を大きく開き、見開いた切れ長の目は眼病平癒信仰の仏様にふさわしい顔立ちと言える。
 本尊を取り巻く灰色の十二神将像は、昭和時代に造られた1体を除く11体が国宝に指定されている。十二神将は十二支守護神で、新薬師寺の十二神将像はわが国では最古のものである。

(写真は 本尊 薬師如来坐像)

 右手に剣を持ち、憤怒の表情で勇壮な姿の伐折羅(ばさら)大将像は、新薬師寺の十二神将像の中の傑作とされ、500円切手の図柄にも採用された。
 これらの十二神将像は造立当時、群青、緑、青、朱、金箔などの極彩色に彩られた実に華麗な像で、廃寺となった近くの岩淵寺から移されたと新薬師寺縁起に記されている。新薬師寺の本堂は天井のない化粧屋根裏で、周囲には窓はひとつもない。本尊を中心に十二神将像がぐるりと居並ぶ本堂内の空間は「日本の莫高窟(ばっこうくつ)」とも言われている。

代折羅大将

(写真は 代折羅大将)


 
浅茅ヶ原・文人の宿 放送 2月9日(水)
 春日大社の一の鳥居をくぐってすぐ右手の林の中に、11軒の数寄屋風造りの建物が点在しているのが料理旅館の「江戸三」だ。
 大小の各戸がそれぞれ離れの建物になっている料理旅館で、この地で営業を始めたのは明治40年(1907)。「江戸三」の屋号は江戸時代中ごろから店を営んでいた大阪の江戸堀三丁目の地名に由来して名づけられた。敷地内を鹿が自由に行き交う風情は「江戸三」ならではのもので、料理は料理場から仲居さんがいったん外へ出て、鹿のそばを通って客室へ運ぶ。これが「江戸三」の風情を一層高めている。

八方亭

(写真は 八方亭)

鈴木信太郎「江戸三雨の図」

 こうした風趣が喜ばれて、昔から多くの文人、墨客が訪れ逗留した。主な人物を挙げると奈良に住んでいた小説家・志賀直哉のほかに小説家・尾崎一雄、文芸評論家・小林秀雄、洋画家・小出楢重、洋画家・藤田嗣治、画家・鈴木信太郎、日本画家・堂本印象、文芸評論家・亀井勝一郎、小説家・池波正太郎など挙げれば限りがない。
 こうした人物は、逗留中に作品の構想を練ったり、奈良の風景を描いたりしており、「江戸三」には彼らの作品が残っている。「江戸三はわが家のようだ」と度々訪れていた鈴木信太郎は、浅茅ヶ原を中心に奈良の風景を描いており、その中の「江戸三雨の図」は、仲居さんが雨の中を傘をさして料理を客室へ運ぶ風景を描いている。この絵は「江戸三」のマッチの図柄にもなった。

(写真は 鈴木信太郎「江戸三雨の図」)

 それぞれの客室名が「太鼓」「銅鑼」などの楽器名になっているのは、客室に電話がなかった創業当時、楽器などの鳴り物を鳴らして客室係を呼んだことからきている。どの客室から呼ばれたかすぐ分かるように、客室ごとに異なる鳴り物を使っていたのが、そのまま客室名になった。
 「江戸三」の冬場の名物は若草鍋。こんもり盛ったほうれん草や野菜、若鶏、海の幸をあっさりした出汁でいただく鍋物で、ほうれん草を盛った形を新緑の若草山になぞらえて志賀直哉が「若草鍋」と命名した。奈良へ行幸された昭和天皇も賞味されたことがある。
ファッションデザイナーの三宅一生おすすめの宿としてフランスの雑誌にも「日本版ブイヤベース」として紹介され、海外でも有名になったとか…。

若草鍋

(写真は 若草鍋)


 
奈良市写真美術館 放送 2月10日(木)
 新薬師寺のすぐ西隣に西日本で最初の写真専門の美術館・奈良市写真美術館がある。
周囲の歴史的環境に配慮して、鉄筋コンクリート造りながら瓦屋根の建物が仏堂を思わせ、展示室の大部分は地下に埋め込まれている。外壁はガラスで囲われ、屋根が浮いているように見え、周囲に巧みに配された水の流れが優しさを添えている。
 一方、軒裏や天井には金属板を用い、航空機の翼のような現代的な造形も取り入れられている建物は、歴史的景観の多い高畑に近代感覚のインパクトを与えているのではないだろうか。

奈良市写真美術館

(写真は 奈良市写真美術館)

記念室

 この奈良市写真美術館は、奈良大和の風光をこよなく愛し、その風物の美しさや仏像などを撮り続けた写真家・入江泰吉氏(1905〜92)が、生涯にわたって撮影した8万点にのぼる全作品を奈良市に寄贈したのを機に、奈良市が建設を計画、平成4年(1992)に開館した。
 入江氏は残念ながら写真美術館の開館直前に逝去し、完成を見ることができなかった。
しかし、館内の展示作品には、天平の昔から受け継がれてきた歴史的風土に育まれた文化が、入江氏の目とレンズを通して表現されており、ギャラリーたちの目を釘づけにしている。

(写真は 記念室)

 奈良市写真美術館は、入江氏の作品を順次展示するほか、定期的にテーマ展や他の写真家の企画展などを開き、いつ訪れても大和路の風景、自然、仏像、建築、行事など、大和の多様な魅力や美を堪能することできるようにしている。
 また、奈良の写真史の調査研究、写真講座、コンテストなど、写真技術の向上や普及活動にも務める。さらにハイビジョンを活用した新しい手法での情報伝達や親しまれる美術館を目指している。展示室の一角には入江氏愛用のカメラや機材が展示され、ありし日の入江氏をしのぶ人も多い。

入江泰吉愛用のカメラ

(写真は 入江泰吉愛用のカメラ)


 
入江泰吉と春日野 放送 2月11日(金)
 奈良市写真美術館で企画展「入江泰吉 古都の暮らし・人」が2005年3月27日まで開かれている。入江泰吉氏と言えば、誰しも仏像や四季折々の大和路の風景などを美しく捉えた写真を思い浮かべる。
 しかし、昭和20年(1945)から30年代中ごろにかけての入江氏は、ふるさと奈良の町とそこに暮らす人びと、また、奈良を訪れた人びとの表情を撮影したモノクロ作品も残していた。これらの作品を選りすぐって展示したのが、今回の企画展である。

「興福寺を望む」(昭和26年9月)

(写真は 「興福寺を望む」(昭和26年9月))

「荒池から興福寺を望む」(昭和20年代後半)

 企画展の作品には、戦後の混乱期から力強く復興に向かう町と人びとの表情が克明に写されており、モノクロ写真の持ち味を生かした作品が、私たちの懐かしい思いをかきたてる。
 敗戦から10年が過ぎた昭和30年(1955)ごろ、市街地から興福寺の五重塔を望んだ「興福寺を望む」や「近鉄奈良駅前」の作品には、戦後を脱し高度経済成長へ向かう息吹が感じられる。敗戦のショックから立ち直り始めた昭和20年代後半の「荒池から興福寺を望む」や、のんびりした田園地帯の「牛がゆく」、その他の作品にも、奈良市の50年間の変化を見るとともに、今もその面影がそこかしこに残っていることを再確認できる。

(写真は 「荒池から興福寺を望む」
       (昭和20年代後半))

 入江氏の企画展と同時に、奈良県大塔村出身の写真家・津田洋甫氏の企画展「四季百樹の詩」が同じく2005年3月27日まで開かれている。
 津田氏は日本の自然を生涯のテーマとし、樹々との語らい、生命の水を讚え、自然が奏でる大地のシンフォニーをレンズを通して追い続けた。そこから「四季百樹の詩」「水の詩」「大地の詩」の3部作が生まれた。その最初を飾るシリーズとして、「四季百樹の詩」の100点の中から今回は「夏の樹」「秋の樹」を中心に56点を紹介している。この中にはアメリカ・メトロポリタン美術館に収蔵されている5点のカラー作品も含まれている。

「新薬師寺〜白毫寺」(昭和30年前後)

(写真は 「新薬師寺〜白毫寺」
         (昭和30年前後))


◇あ    し◇
志賀直哉旧居近鉄奈良線奈良駅、JR関西線奈良駅から
市内循環バスで破石町下車徒歩5分。
新薬師寺近鉄奈良線奈良駅、JR関西線奈良駅から
市内循環バスで破石町下車徒歩15分。
江戸三近鉄奈良線奈良駅下車徒歩10分、
JR関西線奈良駅下車徒歩15分。
奈良市写真美術館近鉄奈良線奈良駅、JR関西線奈良駅から
市内循環バスで破石町下車徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
奈良市役所観光課0742−34−1111
奈良市観光センター0742−22−5200
志賀直哉旧居0742−26−6490
新薬師寺0742−22−3736
江戸三0742−26−2662
奈良市写真美術館0742−22−9811

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

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(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
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(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

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