月〜金曜日 18時54分〜19時00分


津市 

 三重県のほぼ中央に位置する県庁所在地の津市は、古くは日本三津のひとつにあげられた港町として栄え、津城が築かれた戦国時代以降は城下町、お伊勢参りの伊勢街道の宿場町として繁栄した。そこには城下町や街道筋の宿場の名残があちこちにしのばれ、変化に富んだ探訪と散策ができる。


 
高虎の城下町  放送 2月21日(月)
 三重の県庁所在地・津市は古くは安濃津と呼ばれ、鹿児島県・坊津(ぼうのつ)、福岡県・博多津とともに日本三津のひとつとして開けた港町だった。室町時代中期の明応7年(1498)のマグニチュード8を超えたと言われる大地震で、港は壊滅的な被害を受けその機能を失い、そのまま姿を消した。
 津市柳山で学校の校舎建設にともなう発掘調査が行われ、港の機能を示す遺物が出土した。愛知県北部の猿投(さなげ)や瀬戸方面、対岸の知多半島で生産された陶器類が数多く出た。中部地方の陶器を中心とした物資の集積地となり、これらの物資は陸路を通じて京都や大坂方面、海路からは全国各地の港へ運ばれる流通拠点であった。

津城跡

(写真は 津城跡)

藤堂高虎

 戦国時代の永禄年間(1558〜70)細野藤敦が安濃津城を築いたのが津城の起源で、永禄11年(1568)織田信長に攻略され、その翌年に信長の弟・信包(のぶかね)が入城した。信包は本丸、二の丸、三の丸などを整備、堀を巡らし、5層の天守閣と小天守を完成させた。信長の生母はわが子信長の気質を嫌って信包とともに暮らし、津城で亡くなった。
 関ヶ原の戦の後、慶長13年(1608)築城の名手と言われた藤堂高虎(1556〜1630)が、伊予国今治から入部した。高虎はさっそく城郭を改修、城下町の整備に努め、これまで海岸寄りを通っていた伊勢街道を城下町に引き込み、伊勢街道の要所とした。
こうして「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ」と謡われるほど、津の町を繁栄に導いた。

(写真は 藤堂高虎)

 津城跡には合戦に臨む勇ましい高虎の騎馬像が立ち、高虎を祀る高山神社が明治36年(1903)に創建され、戦後に3層の隅櫓(すみやぐら)も復元された。本丸跡は公園化され市民の憩いの場となり、二の丸、三の丸跡は官庁街となっている。
 大きな五輪塔が林立しているのが津藩歴代藩主の墓所となっている寒松院。江戸時代初期に建立された寺で、藩主の菩提所となってから高虎の院号を取って寒松院と改め、広大な寺院となったが、昭和20年(1945)戦災で焼失し、巨大な五輪塔だけが往時の面影を残している。

藤堂高虎墓碑

(写真は 藤堂高虎墓碑)


 
伊勢街道  放送 2月22日(火)
 津市から伊勢湾沿いに25kmばかり南東に下るとお伊勢さんと呼ばれる伊勢神宮。
津市内を南北に通る伊勢街道は、藤堂高虎が城下町造りに際して海岸沿いの伊勢街道を町の中へ引き入れたもので、城下町をお伊勢参りの旅人たちが往来するようになり「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ」と広く謡われたほど大いににぎわった。
 津市内の伊勢街道沿いの町の様子は、戦災などで随分変わったが、戦災の被害を受けなかった江戸橋から上浜町、栄町、南部では八幡町から藤枝町、垂水、高茶屋を経て雲出島貫町にかけての旧街道筋には、江戸橋、古刹四天王寺、卯建の上がる旧家など、往時の情緒を残すところが点在している。

四天王寺

(写真は 四天王寺)

江戸橋常夜燈

 津城跡の北、志登茂川に架かる江戸橋は、江戸時代に津藩主が参勤交代で江戸へ行く時、藩士らの見送りはここまでと言われ、江戸への第一歩となったことからこの名がついた。ここは東海道の関宿から伊勢別街道を経て、お伊勢さんに向かう伊勢詣の旅人が伊勢街道に合流する所で、当時は大変なにぎわいを見せていた。
 江戸橋の西詰の伊勢街道と伊勢別街道の分岐点の追分に、旅人の安全と願って建てられた高さ5.4mの常夜燈がある。このような常夜燈は津市内のあちこちに見られ、大きなものは高さ8.6mもあり、伊勢参りの爆発的なブームとなった「おかげ参り」のころに建てられたものが多いと言う。

(写真は 江戸橋常夜燈)

 江戸橋の近くにある阿部家住宅は、伊勢街道に面して店を構え、江戸時代から酒造業を営み、明治時代からは味噌、醤油も製造、販売していた商家で、典型的な大店(おおだな)の建築様式を伝えている。内部の部屋には付書院のある数寄屋造りの部屋や、糸巻きを象った彫刻のある欄間など、格式の高い造りの部屋がある。津市の有形文化財に指定され、予約制(津市教委へ)で土、日曜日のみ内部を一般公開している。
 伊勢街道沿いには、旅の疲れを豊富な蛋白源で癒すウナギ料理屋が多かった。今もその名残として津市内にはウナギ料理店があり、関東風の背開き、関西風の素焼きでその味を自慢している。

はし家

(写真は はし家)


 
谷川士清  放送 2月23日(水)
 津藩主・藤堂家は津と伊賀上野に城を持っていた。津城西の伊賀口門から西へ延び、伊賀上野城を結ぶ街道が伊賀街道で、この街道沿いに津が生んだ国学者・谷川士清(たにかわことすが・1709〜76)の旧宅が残っている。
 士清は同じ伊勢国の国学者・本居宣長に比べると知名度では劣るが、宣長がその学識に感服して交わりを持った人物で、偉大な業績を数多く残し、宣長とともに伊勢が生んだ二大国学者のひとりである。国の史跡に指定されている旧宅には、士清の著書の「日本書紀通証」や「「和訓栞(わくんのしおり)」のほか、士清の年表、家系図などの資料が展示、一般公開されている。

谷川士清旧宅

(写真は 谷川士清旧宅)

谷川士清

 士清は江戸時代中期の宝永6年(1709)現在の津市八町の医師・谷川義章の長男として生まれた。21歳のころ京都へ出て医学、儒学、神道、歌道などを学び、26歳のころ故郷へ帰り、父の跡を継いで医者となり、地元や近郊の人たちから信頼されていた。
 家業のかたわら学問にも打ち込み「洞津(どうしん)谷川塾」を開き、集まった門人たちに国学などを教えた。士清は多くの書物を著しているが、その代表的なものとして日本書紀全巻の通釈である「日本書紀通証」、93巻2万897語に及ぶわが国初の50音順の国語辞典「和訓栞(わくんのしおり)」がある。また、「日本書紀通証」の付録の動詞の活用図表「和語通音」には、賀茂真淵や本居宣長も敬意を表していた。

(写真は 谷川士清)

 士清の没後、子孫が私財を投げ出し、約100年かけて93巻の「和訓栞」の刊行を続け、学者の家の美談として語り継がれている。江戸時代後期にオランダ・ライデン大学のホフマン教授が日本の言語学の参考書を幕府に求めたところ、提供された5種類の中から「和訓栞」を選び、オランダ語に訳したとのエピソードもある。
 士清が自分のメモや下書きなどが、死後に誤って伝えられないよう、これらをすべてを埋めた「反古(ほご)塚」が、士清を祀った谷川神社境内にあり、旧宅近くの福蔵寺に士清の墓がある。偉大な学者だった士清を郷土の偉人として顕彰しようと、地元有志が「谷川士清の会」を結成、その業績をPRしている。

和語通音表

(写真は 和語通音表)


 
一身田寺内町  放送 2月24日(木)
 東海道・関宿と伊勢街道・津の江戸橋を結ぶのが伊勢別街道。この街道沿いに東西500m、南北450mの環濠で囲まれた一身田寺内町(いっしんでんじないちょう)がある。この寺内町は16世紀後半の戦国時代、真宗高田派本山・専修寺(せんじゅじ)を中心に形成された自治都市で、寺内町には専修寺を「本山さん」と呼ぶ、高田派に属する宗徒のみが住んでいた。今も町の大半を専修寺の寺域が占め、門前にはいくつもの末寺と仏壇屋、菓子屋、酒屋、薬屋などの老舗が建ち並んでいる。
 現在の環濠の長さは江戸時代の記録と一致し、当時のまま完全な形を保っており、このように完全な形で環濠が町を巡っているのは、全国の寺内町の中でも珍しい。

環濠

(写真は 環濠)

一身田寺内町の館

 環濠沿いの土蔵や石垣は少なくなったが、水に映えるその景色に昔をしのぶことができる。今の環濠はひょいと飛び越えて渡れるほどの幅になっている所もあるが、かつては幅6mほどもあり、土手が築かれていた。一身田の地名は奈良、平安時代に政治上功績のあった貴族に、その身一代に限って与えられた田「一身田」からきたと言われ、この地の一身田は、伊勢神宮に仕える斎王のものと見られている。
 全国の寺内町を大別する“寺院の完全な主導によって形成されたもの”“有力豪族や大名の寄進”“門徒化によるもの”“門徒集団による土地の買い取りや一定区域の占拠によるもの”の三つに区別できる。一身田寺内町は専修寺の主導によって生まれたものである。

(写真は 一身田寺内町の館)

 一身田寺内町の姿が大きく変わってのは明治維新以後。維新後、専修寺は最小限の境内と墓地以外の土地はすべて没収され、僧侶らは国家の管理に移された。寺内町は専修寺の支配から離れ、町内への入口だった黒門、赤門、桜門は売りに出され、寺内町は解体された。今は新しい建物も増え、当時の面影を残すものが少なくなってきた。
 「一身田寺内町の館」には、寺内町の歴史や文化を写真や模型などで分かりやすく紹介している。また、寺内町には三重県の各地にある「まちかど博物館」が8館ある。いずれも地元の人たちが自ら館長を務め、自宅や仕事場を提供して自慢のコレクションや伝統的な製造技術などを公開している。

たけやまんじゅう

(写真は たけやまんじゅう)


 
専修寺  放送 2月25日(金)
 一身田寺内町(いっしんでんじないちょう)の専修寺(せんじゅじ)は、親鸞を開祖とする真宗高田派の総本山で三重県最大の寺院。
 鎌倉時代に親鸞が専修念仏の根本道場として開いた下野国高田(現栃木県二宮町高田)の専修寺から、室町時代末に高田派10世真慧(しんね)上人がこの地に入り、寛正5年(1464)無量寿院を建立したのを始まりとする。山門、唐門、太鼓門に囲まれた広い境内には御影堂、如来堂(いずれも国・重文)、御廟、庭園などがあり、親鸞真筆で国宝の三帖和讃、西方指南抄や国指定の重要文化財を数多く所蔵している。

伊勢参宮名所図会

(写真は 伊勢参宮名所図会)

親鸞聖人伝絵

 真慧上人はこの無量寿院を東海、北陸地方の布教活動の拠点としたが、本寺の下野国高田の専修寺が戦火などで荒廃したため、津の無量寿院が高田の専修寺に代わり教団の中心となった。
 諸堂宇の中で最大のものが江戸時代初期の寛文6年(1666)津藩2代藩主・藤堂高次の援助で再建された御影堂(みえいどう)で、親鸞の木像を安置しその両脇に歴代上人の画像を置く725畳敷と言う大きな建物。純和様の温和で堂々とした入母屋造りの外観、内部は金襴巻の柱、極彩色の天井、丸彫りの欄間など、当時の装飾技術の粋を集めた華麗な装飾が施されている。

(写真は 親鸞聖人伝絵)

 親鸞上人像や堂内の装飾などを拝観したいところだが、あいにく今は創建以来と言う平成の大修理中で、すっぽりと工事用の素屋根に覆われており、修理が終わるのは平成22年(2010)。逆に修理中だけに普段は見られない御影堂の一部が見学できるチャンスともなっている。
 御影堂の隣の如来堂は本尊・阿弥陀如来像が安置された専修寺の本堂。一身田寺内町あたりの地盤は軟弱なため、如来堂を建立する時、勘六と言う人物が建築工事の成功を祈って人柱となった言われ、如来堂東南隅の礎石にそれを記念する刻銘がある。如来堂の棟の両側の妻には、左甚五郎の作と伝わる鶴の彫り物が取り付けられている。

御影堂

(写真は 御影堂)


◇あ    し◇
津城近鉄名古屋線津新町駅下車徒歩15分。 
JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで
三重会館下車徒歩5分。
寒松院JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで
岩田橋下車徒歩10分。
江戸橋、江戸橋常夜灯、阿部家住宅近鉄名古屋線江戸橋駅徒歩5分。
JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで
上浜町下車徒歩5分。
四天王寺JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅車徒歩10分。 
谷川士清旧宅、谷川神社(反古塚)、
福蔵寺(谷川士清墓所)
近鉄名古屋線津新町駅下車徒歩20分。
一身田寺内町、専修寺JR紀勢線一身田駅下車徒歩5分。 
近鉄名古屋線高田本山駅下車徒歩15分。
伊勢鉄道東一身田駅下車徒歩7分。
◇問い合わせ先◇
津市観光協会059−246−9020 
津市教育委員会059−229−3250 
谷川士清旧宅059−225−4346 
ウナギ料理・はし家059−228−4925 
菓子店・たけや059−232−2056 
専修寺059−232−4171 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会