月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良市・佐保路〜佐紀路の寺 

 奈良市北部の東西に横たわる低い丘陵地帯の平城山(ならやま)の東部一帯が佐保、西部一帯が佐紀と呼ばれている。東大寺転害門(てんがいもん)から真っすぐ西に延びる道が、奈良時代の一条南大路、通称・佐保路で、その西の佐紀路へとつながっている。この佐保、佐紀路の沿道には古刹が点在し、北の平城山の麓には天皇陵が多い。


 
不退寺  放送 3月28日(月)
 不退寺は大同4年(809)平城(へいぜい)天皇が譲位後、萱葺(かやぶ)きの御殿を造り、仮住まいをしていた萱の御所を承和14年(847)平城天皇の孫にあたる在原業平が寺に改め、自作の聖観音菩薩像(国・重文)を安置して不退転法輪寺と称し、不退寺と呼ばれるようになった。業平は「伊勢物語」の主人公、そして美男子の代表として名高い人物なので、寺は業平寺とも呼ばれた。
 平安時代末の治承4年(1180)平重衡による南都焼き討ちの兵火で諸堂が炎上し、鎌倉時代にはいって西大寺中興の祖・叡尊によって再興された。

本尊 聖観世音菩薩立像

(写真は 本尊 聖観世音菩薩立像)

在原業平画像

 室町時代に再建された本堂(国・重文)の本尊・聖観音菩薩像は、平安時代初期の作で豊満さを漂わせた観音像で、全身が胡粉(ごふん)やさまざまな色彩に覆われ、当時の華やかさがうかがえる。本尊の左右に不動明王 、金剛夜叉明王、降三世(ごうざんぜ)明王、軍荼利(ぐんだり)夜叉明王、大威徳明王の木造五大明王像(いずれも国・重文)が安置されており、このように五代明王像がそろっているのは珍しいと言われる。
 本堂の内陣と外陣を仕切る結界上に、緑青で塗られた業平格子(吹寄菱欄間・業平菱)が使用されている。三筋縞を一組みとして菱形の斜め格子を作り、その格子の中にさらに四つ菱を入れたもので、業平が好んだ柄であったらしい。

(写真は 在原業平画像)

 不退寺は花の寺としても知られ「南都花の古寺」とも呼ばれ、境内にレンギョウ、ツバキ、カキツバタ、ハギ、キク、モミジ、オミナエシなど四季折々の花が咲き競う。不退寺へはカメラ片手に寺を訪れる人も多く、参詣のかたわら花をバックに記念写真を撮っている。また寺には八橋絵皿や伊勢物語の写本など、業平ゆかりの品が多い。
 本堂左には業平にちなむ樹齢100年の業平椿と呼ばれているツバキがある。現在の業平椿は2代目で、初代業平椿は昭和36年(1961)第2室戸台風の直撃で倒れ樹勢が衰えた。さらに昭和40年(1965)の夏の猛暑ですっかり弱り枯れてしまった。

業平格子(吹寄菱欄間)

(写真は 業平格子(吹寄菱欄間))


 
法華寺  放送 3月29日(火)
 不退寺から西方へ20分も歩くと、天平13年(741)光明皇后の発願で、日本総国分尼寺として創建された正式名を法華滅罪寺(ほっけめつざいじ)と呼ぶ法華寺に着く。
皇后は夫・聖武天皇と父・藤原不比等らの菩提を弔うため、父の邸宅を喜捨して伽藍(がらん)としたもので、今も門跡寺院の尼寺にふさわしい格式と、優しく上品なたたずまいを見せている。
 当時は金堂、講堂、東西の両塔など大伽藍がが建ち並ぶ大寺院で、尼僧の修法道場として隆盛を極めていたが、平安遷都後に寺は衰退し、鎌倉時代に西大寺中興の祖・叡尊が再興した。

本尊 十一面観音菩薩像(御分身)

(写真は 本尊 十一面観音菩薩像(御分身))

から風呂

 慶長年間(1596〜1615)に豊臣秀頼の母・淀君が堂塔の再建に力を貸し、現在、残っている本堂、南門、鐘楼(いずれも国・重文)は、この時に再建されたものである。
 本尊で秘仏の十一面観音立像(国宝)は、光明皇后の姿を写して彫ったものと言われる白檀の一木造り。素地のままで彩色を用いず、わずかに頭髪に群青、ひとみに黒、唇に朱がぬられている。鋭い眼差し、厚い唇、豊艶な体つきなどが特徴の観音像。この観音像はインドの仏師・問答師が、池のほとりを散歩していた光明皇后の姿を写生し、十一面観音立像を彫ったとの伝えもある。秘仏のため普段は御分身の観音像しか拝観できないが、春と秋の特別開扉にはこの姿を拝観することができる。

(写真は から風呂)

 光明皇后は病人を救う施薬院、孤児を養育する悲田院を建てるなど福祉にも務めており、その慈悲深いすがたが、本尊の観音像の艶やかで美しい姿に表れていると言う。ハンセン病患者を入浴させ、垢を流すために皇后が作った蒸し風呂の浴室「から風呂」の伝えに基づいて、江戸時代に作られた「から風呂」の遺構も残されている。皇后が護摩を焚いた後の灰で作ったと言われる土の子犬「守り犬」は、今も尼僧たちが作り続けており、安産のお守りとして人気がある。
 本堂には平家物語でよく知られる横笛の紙子像が安置されている。恋に破れ、髪を下ろして尼僧となった横笛が、恋人と取り交わした恋文の紙を貼り合わせて自らの像を作ったとも言われている。

古代ひな人形

(写真は 古代ひな人形)


 
海龍王寺  放送 3月30日(水)
 法華寺のすぐ東側、崩れそうな土塀に囲まれて、ひっそりとたたずんでいるのが海龍王寺。この寺も光明皇后の発願で、西側の法華寺より10年前の天平3年(731)皇后の父・藤原不比等の邸宅跡に建立された。後の法華寺となった光明皇后宮の東北隅にあったことから、建立当時は「隅寺(すみでら)」とも呼ばれていた。
 中国・唐で18年間、法相の教学を極めた僧・玄ぼうは、天平6年(734)帰国の途中、暴風に襲われ、東シナ海を漂いながら海龍王経を唱えて九死に一生を得た。
苦難の末に帰国した玄ムが、この隅寺に入って寺号を海龍王寺としたと言う。

本尊 十一面観世音菩薩像

(写真は 本尊 十一面観世音菩薩像)

西金堂

 こうした玄ムとのかかわりから、海龍王経にある海龍王の霊験によって、日本を取り巻く四方の海が穏やかであることを祈願して、聖武天皇は直筆の「海龍王寺」の寺門勅額(国・重文)を与えた。
 奈良時代建立の切妻造りの西金堂(国・重文)に安置されている、高さ4mの朱色も鮮やかな五重小塔(国宝)は、薬師寺の東塔と様式が類似していることから、天平時代の建築技法を伝える貴重なものである。本尊・十一面観世音菩薩立像(国・重文)は、唇、衣、手に持った蓮の花に緑と朱色をとどめ、地肌の鈍い金色に映えて神秘的な雰囲気を漂わせている。

(写真は 西金堂)

 海龍王寺境内から飛鳥時代末期の古式瓦が出土しており、この地に毘沙門天を本尊とした寺が古くからあったと見られている。毘沙門天は「戦をつかさどる仏」とか「財宝をつかさどる仏」「北の方角を守る仏」などとして知られていた。藤原不比等が邸宅を造った時、この寺院も邸宅の東北住みに取り込み、藤原一族が困難に打ち勝って繁栄し、鬼門の東北を守る仏として祀ったと考えられる。
 海龍王寺は日本で初めて写経を始めた寺とも言われている。玄ムが持ち帰った一切経の写経が海龍王寺で盛んに行われ、光明皇后も般若心経千巻を写経した。後に弘法大師・空海も唐に渡る前、海龍王寺に千日間参籠し、般若心経千巻を写経して航海の安全を祈願していることなどから写経発祥の寺とされている。

五重小塔

(写真は 五重小塔)


 
西大寺  放送 3月31日(木)
 佐紀路の平城宮跡の西にある西大寺は、称徳天皇が四天王像の造立を発願したことに始まり、天平宝字8年(764)から翌年の天平神護元年にかけて建立された。創建当時は東大寺に対する西の大寺にふさわしく、広大な寺域に薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、東西両五重塔など百十数棟の堂塔を擁する大伽藍(だいがらん)であった。
 しかし平安時代のたび重なる火災で堂塔、仏像の多くを焼失、寺運も衰微したが、鎌倉時代になって律宗の高僧・叡尊が再興し、西大寺中興の祖と呼ばれるようになった。だが、その後も火災に見舞われて荒廃、寺域も削減されて衰退していった。

西大寺伽藍絵図

(写真は 西大寺伽藍絵図)

東塔跡

 現在の諸堂は江戸時代に再建されたもので、高さ45mもあった東西の五重塔は見る影もない。創建時のものとして東塔跡の巨大な基壇と礎石が残っており、当時の五重塔の威容をしのばせる。東塔は平安時代に一度再建されたが、これも室町時代に焼失した。
 宝暦2年(1752)建立の金堂(本堂)内の本尊・木造釈迦如来立像(国・重文)は鎌倉時代の作で、京都・清涼寺の釈迦如来像の模刻と言うことで清涼寺式と呼ばれている。
縄のように編んだ髪と流れるような衣の線が特徴で、本堂内には永代供養の灯明が四方の棚に並べられ幻想的な空間を創り出し、釈迦如来像を一層神秘的なものにしている。

(写真は 東塔跡)

 四王堂には十一面観音立像、四天王像(いずれも国・重文)が安置されている。十一面観音像は正応2年(1289)亀山上皇の院宣によって京都・十一面堂から移されたもので、本格的な藤原時代の彫刻の長谷式十一面観音像である。四天王像が踏みつけている邪鬼は、創建当時から伝わる天平時代のものである。
 西大寺と言えば直径が30cmもある大きな茶碗で、抹茶をいただく大茶盛会が有名で、テレビなどでもよく紹介されている。西大寺中興の祖・叡尊が、国家安泰を願って茶を献じた茶儀が起こりで、毎年1月15日と4月、10月に行われており、信徒らが大きな茶碗の中へ顔をすっぽり入れて、茶をいただいている。

本尊 釈迦如来立像

(写真は 本尊 釈迦如来立像)


 
喜光寺  放送 4月1日(金)
 西大寺から南へ約20分ほど歩くと菅原の里に着く。この付近は古くから土師氏が住んでいた地で、後に菅原の里と呼ばれるようになった。菅原道真を祀る菅原天満宮、通称・菅原神社は、道真の母の故郷で道真生誕地と伝わっている。
 菅原道真の祖先は、相撲の祖とされる野見宿禰と伝えられ、宿禰は垂仁天皇の時に埴輪を作って人の殉死に代えた功績で、土師(はじ)の姓とこの地を賜り、その後に子孫の土師氏が菅原の姓を賜った。菅原天満宮には野見宿禰とその遠祖の天穂日命(あめのほひのみこと)、菅原道真を祭神としている。境内には道真ゆかりの臥牛や筆塚があり、早春には梅の花が咲き乱れていた。天満宮北東には道真産湯の池と言われる遺構もある。

菅原天満宮

(写真は 菅原天満宮)

喜光寺

 菅原天満宮の南西にある喜光寺は、養老5年
(721)元明天皇の勅願で行基が建立、古くは菅原寺と呼ばれ、元明、元正、聖武の三天皇の勅願寺となった。聖武天皇が参詣した折、本尊から不思議な光が放たれことから喜光寺と改められたと言う。
 喜光寺本堂は行基が東大寺大仏殿建立にあたり、試しにその10分の1の大きさの本堂を造ったと伝えれ、その伝承から「試みの大仏殿」と呼ばれていた。現在の本堂は室町時代初期に再建されたものだが、創建当時と同じように東大寺大仏殿の
10分の1の規模で造られており、規模こそ小さいが大仏殿そっくりの形で、雄大な風格がある。

(写真は 喜光寺)

 創建当時の本尊は定かでないが、現在の本尊は阿弥陀如来像(国・重文)で、平安時代後期の仏像様式の定朝様式を踏襲しており、下地の漆の上に金箔が貼られていたが、今は顔のあたりにその一部を残すのみとなっている。本堂西側の窓から光が射し込んだ時は、阿弥陀如来の来迎を思わせる。
 喜光寺を建立した行基は晩年この寺で過ごし、塔頭の東南院で82歳で没し、境内に行基の墓と伝えられるものがある。境内の47体の石仏群は、境内あちこちに散在していたものを一カ所に集めて祀ったもので、いずれも江戸時代に造られたものである。

本尊 阿弥陀如来坐像

(写真は 本尊 阿弥陀如来坐像)


◇あ    し◇
不退寺 近鉄奈良線新大宮駅下車徒歩15分。 
近鉄奈良線奈良駅からバスで不退寺口下車。
法華寺、海龍王寺 近鉄奈良線新大宮駅下車徒歩20分。 
近鉄奈良線奈良駅からバスで法華寺前下車。
西大寺 近鉄西大寺駅下車徒歩3分。 
喜光寺、菅原天満宮 近鉄橿原神宮線尼ケ辻駅下車10分〜12分。 
近鉄奈良線学園前駅からバスで菅原神社前下車。
◇問い合わせ先◇
不退寺 0742−22−5278 
法華寺 0742−33−2261 
海龍王寺 0742−33−5765 
西大寺 0742−45−4700 
喜光寺 0742−45−4630 
菅原天満宮 0742−45−3576 

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ルートのことです。
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(4)・・・近江戦国ルート              
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