月〜金曜日 18時54分〜19時00分


豊岡市 

 4月1日、豊岡市は近隣の出石、城崎、竹野、但東、日高の5町と合併し、兵庫県で一番広い市、豊岡市が誕生した。昨年10月の台風23号で旧豊岡市や旧出石町は大きな被害を受け、その傷跡は今も残っているが、復旧、復興への力強い取り組み進んでおり、新生・豊岡市の誕生とともに但馬の中核都市として発展が期待されている。近くコウノトリを大空に放つ計画が進む新生・豊岡市を訪ねてみた。


 
甦るコウノトリ  放送 4月4日(月)
 豊岡市は国の特別天然記念物・コウノトリの国内での最後の生息地だった。コウノトリは江戸時代には全国各地に生息していた。明治時代にはいって乱獲や農薬の使用と水田の改良、河川改修などで湿地帯が減り、えさになるドジョウ、カエル、バッタなどが減少した。
また野生のコウノトリが巣を作る松の木が伐採されるなど、これらの自然環境の悪化で野生のコウノトリはどんどん減少していった。
 昭和31年(1956)コウノトリが国の特別天然記念物に指定されたのを契機に、豊岡市では官民一体となってコウノトリ保護運動が起こった。以来、野生のコウノトリが生息できる自然を取り戻そうと、市民参加のいろいろが事業が進められている。

コウノトリ

(写真は コウノトリ)

兵庫県立 コウノトリの郷公園

 昭和40年(1965)豊岡市に人工飼育場が完成し、野生のコウノトリのつがいを保護して人工飼育を始めた。こうした保護運動が緒についた昭和46年(1965)に野生のコウノトリが死亡し、日本国内から野生のコウノトリが姿を消し絶滅した。
 日本に生息しているコウノトリからの人工飼育が不可能になり、昭和60年(1985)旧ソ連・ハバロスク地方から、同種のコウノトリの幼鳥6羽を譲り受け繁殖に取り組んだ。関係者の懸命の努力が実って4年後にヒナが誕生し、飼育場での初の繁殖に成功した。その後、毎年繁殖に成功して115羽にまでなり、このうち2羽を韓国へ譲ったため現在は
113羽、豊岡へ飛来した野生のコウノトリを含めると豊岡のコウノトリは114羽になる。

(写真は 兵庫県立 コウノトリの郷公園)

 コウノトリの繁殖が軌道に乗り、順調に数が増えていくのに合わせ、コウノトリが生息できる環境整備が進められた。豊岡市祥雲寺地区の165haに「兵庫県立コウノトリの郷公園」が建設され、
平成11年(1999)にオープン、コウノトリを野生に帰す準備が始まった。公園にはコウノトリの繁殖施設のほかに、コウノトリに関する資料や池でえさをついばむコウノトリの姿が間近で見られる「豊岡市立コウノトリ文化館」なども併設され、日本で唯一のコウノトリセンターとも言えるゾーンになった。
 コウノトリを野生に帰す計画が予定通り進めば、今年秋には豊岡の大空を2mにもおよぶ大きな羽を広げて舞う、コウノトリの姿が再び見られるようになる。

コウノトリ野生化ゾーン

(写真は コウノトリ野生化ゾーン)


 
玄武洞  放送 4月5日(火)
 豊岡市内を南北に流れる円山川に臨む国の天然記念物の洞窟・玄武洞は、160万年前の火山活動で流れ出したマグマが、冷えて固まる時に規則正しい、きれいな割れ目の柱状節理を形作った奇勝。無数の六角形の玄武岩が柱を束ねたようになったり、地下から地上へ積み上げられたようになったり、渦を巻いたようになっている。マグマが冷える時の熱対流の動きによって、さまざまな形を作り出したもので、その不思議な美しさはまさに自然が作り出した芸術と言える。
 玄武洞のある一帯は玄武洞公園となっており、玄武洞ミュージアムやレストラン、土産物店、ブラックバス釣り場などがあり、家族連れで楽しめる。

青龍洞

(写真は 青龍洞)

白虎洞

 玄武洞の命名者は、江戸時代の儒学者・柴野栗山(りつざん)。文化4年(1807)城崎温泉に遊んだ時にこの地を訪れ、六角形をした岩が天の四方を守る中国の四神のひとつ、玄武の亀甲の形に似ていることから玄武洞と名付けた。玄武洞公園には玄武洞のほかに、中国の四神の名から命名された青竜洞、白虎洞、朱雀洞があり、それぞれ異なった形状の節理を見せている。
 柴野によって玄武洞と命名された後、明治17年(1884)東京大学の小藤文治郎博士が岩石の日本名を定める時、この岩石を有名な玄武洞にあやかって玄武岩と名付けた。玄武洞付近には同じ柱状節理の玄武岩が、玄武洞から南へ数百m、北へ約2kmの間に30カ所ほどあり、それぞれ特徴を持った節理を見せている。

(写真は 白虎洞)

 大正15年(1926)京都大学の松山基範博士が、玄武洞の岩石の磁性が現在の磁性とは反対の南を向いていることを発見した。この発見をきっかけに松山博士が日本、朝鮮、中国の岩石を調査したところ、岩石の磁性には北向きと南向きの2種類があることが分かった。マグマは噴き出る時には磁性を帯びておらず、固まって岩石になる時に地球上の磁力によって磁性を帯びる。南向きの磁性を持った岩石は100万年以前に憤出したものばかりなので、100万年前に地球の磁力が南向きから現在の北向の変わったと考えられると発表した。
 玄武洞公園の入口にある「玄武洞ミュージアム」は石の博物館。玄武洞の成り立ちと歴史を資料や映像で紹介し、地球が作り出した鉱物や宝石の原石、化石など不思議な石を約1000点収蔵、展示している。

南朱雀洞

(写真は 南朱雀洞)


 
城下町・出石町の面影  放送 4月6日(水)
 JR豊岡駅からバスで南へ30分、出石町は江戸時代5万8千石の城下町として栄えた所。町内には武家屋敷、足軽長屋、千本格子や虫籠(むしこ)窓のある町家、赤土壁の酒蔵、寺院などが城下町の情緒を残している。観光客を乗せた人力車が走る風景は「但馬の小京都」と呼ばれるのにふさわしい。
 城下町・出石のシンボルとなっている辰鼓楼(しんころう)は、藩政時代に旧大手門のそばに建てられた高さ16mの見張り櫓。毎日、辰の刻(午前8時)に太鼓を打ち鳴らして、藩士に登城時刻を知らせたことから辰鼓楼の名がついた。明治14年(1881)藩政時代の藩医だった池口忠怒が、オランダ製の大時計を寄贈して時計台に生まれ変わり、現在は三代目の時計が時を刻み続けている。

辰鼓楼

(写真は 辰鼓楼)

宗鏡寺

 出石は室町時代に足利尊氏の家臣、山名時義が但馬の守護になり、此隅山に城を築いた時から城下町の歴史が始まった。その後、山名氏は城を有子山に移したが織田信長に滅ぼされ、小出吉政がが城主になった。
 城下町の基礎を固めたのは、江戸時代の
慶長9年(1604)から18年まで城主だった小出吉英(よしふさ)。有子山山頂の城を山麓に移しその周囲に堀を作り、自然の谷山川を中堀、出石川を外堀にして守りを固めた。碁盤の目のように町筋を作り、町の出入り口には砦代わりの寺院を配置したのが、現在に伝わる出石の城下町である。明治維新で城は取り壊されて石垣だけが残っていたが、
昭和43年(1968)本丸跡に隅櫓と登城門が再建され、往時の面影がしのべるようになった。

(写真は 宗鏡寺)

 沢庵和尚の寺として名高い宗鏡寺は、山名氏の菩提寺だったが山名氏滅亡後に荒廃、江戸時代に出石生まれの沢庵和尚が城主・小出吉英の援助で再興した。境内には再興に力を貸した小出氏の墓所がある。
 名物の出石そばは、宝永3年(1706)信州・上田から出石へ国替えになった仙石政明が、信州のそば職人を連れて来て広めたのが始まりで、300年の歴史がある。出石そばは客が来てからそば粉をこね始める「ひきたて」「打ちたて」「ゆでたて」の「三たて」が伝統の製法で、この三たてがそばの風味を出す極意だと言う。真っ白な出石焼の小皿に盛られて出される皿そばは、出石焼の白と黒いそばのコントラスが、素朴なそばの味を引き立ててくれる。また「寒中に冷たいそばを食べるのが最高」と言うのが出石そば通の言。

手打皿そば 甚兵衛

(写真は 手打皿そば 甚兵衛)


 
太古へのいさない・出石町  放送 4月7日(木)
 但馬の成り立ちを語るのが出石に伝わる天日槍(あめのひぼこ)伝説。古事記、日本書紀によれば、垂仁天皇の時代に新羅の王子・天日槍が妻の阿加留比売(あかるひめ)を追って日本に渡来した。しかし、難波で上陸を拒否され、日本の諸国を回ったのちに但馬にはいり出石に定住した。
 当時、但馬は入江湖だったが、天日槍は円山川の河口の瀬戸(現豊岡市瀬戸)にあった岩山を切り開いて水を日本海へ流し、湖底だった土地を肥沃な耕地の但馬平野に変えたとの伝説が残っている。天日槍は但馬開拓の祖として崇められてきた。

出石神社

(写真は 出石神社)

茶臼山古墳

 「但馬一の宮」と言われる古い歴史と格式のある出石神社は、但馬開拓の祖を祭神・天日槍命として祀り、天日槍が新羅から持参した八種の神宝を合わせて祀っている。出石神社の創建時期は明らかではないが、この地方に住んでいた帰化人の一族が、天日槍を祖神として祀ったのが始まりだろうとされている。
 出石神社に伝わる「瀬戸の岩引きの図」から天日槍の開拓の様子がよく分かり、こうした天日槍をしのび毎年5月5日、天日槍が岩山を切り開いた様子を再現する「のぼりまわし」の神事が行われている。天日槍伝説が根強い但馬地方では、ほかにも天日槍やその子孫を祭神とする神社が多い。

(写真は 茶臼山古墳)

 出石町の歴史は古く、縄文、弥生時代から人が住み始めたことを示す縄文、弥生時代の遺跡が町内に多く、出石神社境内やその周辺から石斧などの石器類や土器片が出土している。
 弥生時代に成熟した稲作を中心とする農耕社会は、やがて絶対的な権力者が君臨する古墳時代へと発展していく。出石町内には但馬最大の円形古墳と言われる茶臼山古墳を初めとして多くの古墳があり、長持形石棺や家形埴輪、銅鏡、剣などの遺物が出土している。これらの出土品は「いずし古代学習館」に展示されており、学習館ではパズル型の土器片を使って土器の復元体験などもできる。

いずし古代学習館

(写真は いずし古代学習館)


 
湯の町情緒・城崎町  放送 4月8日(金)
 今回の市町合併に先立ってJRの駅名を「城崎」から「城崎温泉」に変更したように、城崎町は何と言っても出で湯の町が看板である。城崎温泉は飛鳥時代の舒明天皇のころに、コウノトリが温泉で足の傷を癒しているのを見て発見されたとも言われおり、1450年ほどの歴史があることになる。
 その後、奈良時代初めの養老元年(717)に城崎温泉に来て、温泉寺を創建した道智上人が世に広め「但馬の名湯」として有名になり、今も「関西の名湯」として温泉客でにぎわっている。また、城崎温泉には道智上人が開いた「まんだらの湯」のほかに「御所の湯」「一の湯」「柳湯」「地蔵湯」「鴻の湯」「さとの湯」と呼ばれる7つの外湯があり、それぞれ趣の異なる温泉の外湯巡りをする湯治客もいる。

城崎温泉

(写真は 城崎温泉)

西村屋本館

 温泉街を流れる大谿(おおたに)川の両側1kmに温泉旅館、土産物店、飲食店が軒を連ねている。その中でも創業が江戸時代末の安政年間
(1854〜60)で、山陰随一の格式を誇っている西村屋本館は、風格のある純和風建築の建物や庭園が客を迎えてくれる。
西村屋では明治時代以降大隈重信、若槻礼次郎、犬養毅と言った激動の日本を背負って立った大政治家らが老舗の名旅館で心身の疲れを癒している。
 平安時代初期に藤原兼輔が古今和歌集に歌を残し、鎌倉時代には藤原定家が「明月記」に城崎の湯を記している。近代では「城の崎にて」の名作を残した志賀直哉や泉鏡花、徳富蘇峰、田山花袋、島崎藤村、与謝野寛・晶子夫妻、有島武郎、柳田国男、吉井勇、司馬遼太郎らの文人、墨客が城崎の湯を楽しんでいる。

(写真は 西村屋本館)

 伝統民芸品の麦わら細工は城崎温泉でしか手に入らない。色染めした麦わらを大小の小箱や土鈴、こけし、色紙、壁掛け、はがき、指輪、こまなどに切り張りして、色鮮やかで味わいの深い多彩な作品を作りあげる匠の技が、この民芸品に遺憾なく発揮されている。
城崎麦わら細工伝承館には、江戸時代に製作された作品から現代までの優れた作品が収集され、約240点が展示されている。
 現在、麦わら細工工芸技術保持者の小関寅雄、前野治郎、神谷勝の三氏を中心に、かなりの人たちが江戸時代からの伝統技術の麦わら細工に取り組んでおり、現代風なセンスの作品も生まれている。

江戸時代の麦わら細工

(写真は 江戸時代の麦わら細工)


◇あ    し◇
兵庫県立コウノトリの郷公園JR山陰線豊岡駅からバスでコウノトリの郷公園下車。  
玄武洞公園、
玄武洞ミュージアム
JR山陰線豊岡駅からバスで赤石下車徒歩5分
(但し昼間2便)。
JR山陰線豊岡駅又は城崎温泉駅からタクシーで15分。
出石城跡JR豊岡駅から全但バスで出石営業所下車徒歩10分。 
辰鼓楼、家老屋敷JR豊岡駅から全但バスで出石営業所下車徒歩5分。 
宗鏡寺JR豊岡駅から全但バスで出石営業所下車徒歩15分。 
出石神社JR豊岡駅から全但バスで鳥居下車徒歩10分。 
いずし古代学習館JR豊岡駅から全但バスで嶋下車徒歩10分。 
西村屋本館(旅館)JR城崎温泉駅からバスで御所湯下車徒歩3分。 
JR城崎温泉駅下車徒歩10分。
城崎麦わら細工伝承館JR城崎温泉駅からバスで一の湯下車徒歩3分。 
JR城崎温泉駅下車徒歩7分。
◇問い合わせ先◇
豊岡観光協会0796−22−8111 
出石観光協会0796−52−4806 
城崎温泉観光協会0796−32−3663 
兵庫県立コウノトリの郷公園0796−23−5666 
玄武洞ミュージアム0796−23−3821 
宗鏡寺0796−52−2333 
甚兵衛(出石そば)0796−52−2185 
出石神社0796−52−2440 
いずし古代学習館0796−52−7100 
西村屋本館(旅館)0796−32−2211 
城崎麦わら細工伝承館0796−32−0515 
かみや民芸店0796−32−3259 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会