月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良・万葉の飛鳥 

 飛鳥は万葉の歌が生まれた地であり、万葉集の故郷である。「明日香」は漢字を音読みした仮名表記で「飛鳥」は、明日香にかかる枕詞の「飛ぶ鳥」を表したものである。現代の飛鳥は田園と山野が広がる静かな自然に包まれているが、都があった当時は、宮殿や寺院、朝廷人の家が建ち並び、寺院の堂内には金色の仏像が安置されていた。今回はこんな飛鳥を思い浮かべながら、万葉の故郷・飛鳥を訪ねた。
*今回、この番組用に奈良大学文学部上野誠教授に万葉集を現代語訳していただいた。


 
飛鳥の都  放送 4月18日(月)
 「大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 都と成しつ=大伴御行」(大君は神でいらっしゃるので、栗毛の馬が腹ばっていたような田んぼでも都とされた)。
 「大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 都と成しつ=作者未詳」(大君は神でいらっしゃるので、水鳥が群がるような沼さえも都とされた)。
 この二首は672年に壬申の乱に勝利し、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)宮を築いた天武天皇の業績を「神のごとき力のなせるわざ」と讚えた歌である。

伝小墾田宮跡

(写真は 伝小墾田宮跡)

天武天皇 持統天皇合葬陵

 飛鳥浄御原宮は、天武天皇と天皇の死後、皇后が即位した持統天皇の2代、23年間にわたる宮殿。宮中の諸殿や政務を司る施設は、これまでの宮殿には見られないほどの規模で、整ったのものであったことが、日本書紀などに記されている。飛鳥浄御原宮跡は甘樫丘の北東、旧飛鳥小学校付近とされているが、最近の発掘調査で、伝板蓋宮跡付近ではなかろうかとの説も出ている。
 天武、持統天皇の時代は飛鳥に都があった中で、天武天皇が権力を強化し、国家の体制が徐々に成熟して行く時代だった。壬申の乱を共に戦った天武、持統両天皇は、死後も仲良く合葬され、天武、持統天皇陵として飛鳥の地にある。

(写真は 天武天皇 持統天皇合葬陵)

 飛鳥の宮は日本初の女帝・推古天皇が592年、豊浦宮で即位してから持統天皇が694年、藤原京に遷都するまでの100年間、天皇が替われば宮も替わるとセうのが基本だった。推古天皇の豊浦宮から藤原宮までの間に、飛鳥以外に都を遷した難波長柄豊碕宮、近江大津宮を除いて小墾田宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥浄御原宮など飛鳥の域内を宮殿が転々としていた。
 飛鳥板蓋宮は小墾田宮から皇極天皇が遷った宮で、大化の改新の時、蘇我入鹿が暗殺された宮として知られている。宮跡には現在、当時の敷き石や井戸などが復元されているが、この場所に斉明天皇の後飛鳥岡本宮や飛鳥浄御原宮が築かれたのではないかとの説もある。

伝飛鳥板蓋宮跡

(写真は 伝飛鳥板蓋宮跡)


 
明日香川恋歌  放送 4月19日(火)
 「明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも=作者未詳」(わかりましたよ、明日香川を明日にも渡ってあなたの所へいきます。川に置かれた飛び石のように君から遠ざかろうなんて思ってもいませんよ。僕の気持ちを疑わないでください)。
 飛鳥に都があった当時は、天皇の宮殿や皇子たちの宮殿、そして宮廷に仕える役所群が宮殿を中心に取り巻いていた。そうした宮殿や役所では恋が生まれ、恋人たちは歌を取り交わしながら切ない恋心を伝えた。この歌は最近、ご無沙汰続きで、女性から誠意を疑われた男が弁解して歌った歌と考えられる。

稲淵の勧請縄(雄綱)

(写真は 稲淵の勧請縄(雄綱))

栢森の勧請縄(雌綱)

 飛鳥の里を南北に流れる飛鳥川は、万葉の歌に多く詠まれその数は23首におよぶ。当時は飛鳥川の中にある飛び石をつたって川を渡っていた。この歌の恋人たちもこの飛び石をつたって飛鳥川の瀬を渡り、逢瀬をしのんでいたのであろう。
 この飛び石は石橋とも言われ、古代では恋の通い道であったと同時に生活路でもあったのだろう。大雨で川が洪水になれば、この飛び石も流されることもあった。
現代でも大雨の時には流されることもあり、元に戻す復旧作業をしたと話す老人もいる。

(写真は 栢森の勧請縄(雌綱))

 飛鳥川の上流には稲淵、栢森の集落があり、このあたりから飛鳥川は稲淵川と呼ばれる。稲淵川沿いには飛鳥時代からの神社や慣習が伝わっている。毎年、1月15日に稲淵と栢森で勧請縄(かんじょうなわ)と呼ばれる綱掛け神事がある。稲淵では男性のシンボルを形取った雄綱(おづな)、栢森では女性のシンボルを形取った雌綱(めづな)が地元の人たちの手で稲淵川の上に架けられる。
 稲淵の飛鳥川上坐宇須多岐比売命(あすかかわかみにいますうすたきひめのみこと)神社は、水の神を祀る神社で、創建時期は定かでないが飛鳥時代からあったとされている。飛鳥の里を潤す飛鳥川の水を司っており、今はこの地域の氏神として崇敬されている。

飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社

(写真は 飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社)


 
恋の噂の檜隈川  放送 4月20日(水)
 「さ檜(ひ)の隈(くま) 檜隈(ひのくま)川の瀬を早み 君が手取らば 言寄せむかも=作者未詳」(檜隈川の瀬は早い、だから渡る時にあなたの手でも握ったら、そりゃ噂するでしょうね皆が…)。
 これは女性の詠んだ歌である。檜隈川は田園地帯を流れる細い川だが、その流れが早いからとあなたの手を握ったら、皆は噂するかもしれないと人目を気にしながらも、若い恋人たちは手をつないで逢瀬に胸躍らせながら恋を語りあった情景が浮かぶ。

於美阿志神社

(写真は 於美阿志神社)

十三重石塔

 今の檜隈川は住宅開発や耕地の整備が行われ、水の流れはそれほど早い川ではない。しかし、飛鳥時代は水源地の樹木も豊富で水量も多く、川も自然のままだったので流れの早いところもあったのだろうか。
 飛鳥時代の檜隈は、5世紀後半から6世紀にかけて、多くの渡来人が住んだ所で、渡来人の東漢(やまとのあや)氏の祖・阿智使主(あちのおみ)を祭神として祀っている於美阿志神社がある。その境内は檜隈寺があったところでもあり、宣化天皇の檜隈廬入野宮(ひのくまいおりのみや)もあったとも伝えれている。

(写真は 十三重石塔)

 東漢の氏寺として建立された檜隈寺は、発掘調査の結果、金堂、講堂、中門、回廊跡などが確認された。塔跡には石造の十三重塔(国・重文)が建っているが、今は上部の二重と相輪が欠けて十一重塔になっている。
 飛鳥時代の檜隈は、近鉄吉野線岡寺駅南東から飛鳥駅南東にかけての一帯で、檜隈寺跡や栗原寺跡、高松塚古墳、キトラ古墳、中尾山古墳、天武・持統天皇陵、欽明天皇檜隈阪合陵、吉備姫王墓、鬼の俎(まないた)・鬼の雪隠(せっちん)、亀石など、飛鳥時代の寺院や古墳、天皇陵、石造物が集中している。

檜隈寺跡

(写真は 檜隈寺跡)


 
奈良県立万葉文化館  放送 4月21日(木)
 「天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てるをち水 い取り来て 君に奉りて をち得てしかも=作者未詳」(天に架けられる橋があるのなら、それは高くあってほしい。山だって、とびっきり高い山はないかしら。なぜかって…。お月さんの持っている若返りの水、それを取って来てあなたにあげて、若返ってほしいから…)。
 この歌は月に長寿を願う歌で、古代の人びとは月には生命を甦らせる水があると信じ、これをあなたに献上したいと女性が歌った。

万葉庭園

(写真は 万葉庭園)

日本画展示室

 奈良県立万葉文化館は、万葉集を中心とした古代文化の魅力や万葉文化が学べるミュージアムとして、平成13年(2001)にオープンした飛鳥を訪れる旅人のオアシス。万葉文化館の庭園は、万葉の歌に詠まれた樹木や草花で構成され、多くの万葉の歌碑を配置しており、この歌もその中のひとつである。
 館内のメインは日本画展示室で万葉集に詠まれた歌をもとに、現在活躍中の大家、中堅、新進の画家が描く創作日本画を展示しており、日本画壇を代表する高山辰雄氏、奥田元宋、平山郁夫、松尾敏男、上村松篁、加山又造らの諸氏をはじめ、150余点の日本画を収集している。

(写真は 日本画展示室)

 このほか映像、ジオラマ、音楽などで万葉時代の文化や生活、暮らしを紹介している万葉おもしろ体験や歌の広場がある。また、万葉歌人の歌をもとに、歌人の個性や心情、人間関係や時代背景などを人形、映像、アニメーションなどで紹介する万葉劇場では、新しい創作歌劇として構成した「万葉のヒロイン額田王」と「宮廷歌人柿本人麻呂」、アニメーション「万葉のふるさと」の3作が上演されている。
 万葉図書・情報室には、万葉集をはじめ広く日本の古代文化に関する情報や図書資料を集め、現在約1万冊の蔵書がある。万葉百科データベースには、万葉仮名で書かれた原文の万葉集4500首など、万葉に関するあらゆる資料が検索ができる。このコーナーはすべて無料で利用できる。

歌の広場

(写真は 歌の広場)


 
藤原遷都  放送 4月22日(金)
 「采女(うねめ)の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く=志貴皇子」(采女の袖を吹き返して吹いていた明日香風は、今となっては都は遠く、ただいたずらに吹いているだけ…)。
 采女とは宮廷に仕えていた女官のことで、694年、都は飛鳥京の北の藤原京に遷り、100年間にわたって都があった飛鳥は今や都でなくなり、さびれるばかりである。その寂しさを天智天皇の皇子・志貴皇子が、飛鳥で采女が衣服の袖を風にひるがえして歩いていた美しい姿を思い出して歌った歌である。

飛鳥京模型(飛鳥資料館)

(写真は 飛鳥京模型(飛鳥資料館))

甘樫丘

 飛鳥のほぼ中央にある甘樫丘は、飛鳥京、藤原京を見渡す絶好の地で、飛鳥を南北に流れる飛鳥川や藤原京を囲む畝傍山、天香久山、耳成山の大和三山が一望できる。国を治めるための聖なる丘であった甘樫丘では、允恭天皇の時、煮えたった湯の中の石を素手で拾わせ、やけどの具合で正邪を裁く盟神探湯(くがたち)が行われた。
 蘇我蝦夷と入鹿親子が堅固な邸宅を構え、天皇家と権勢を張りあった場所でもあったが、結局は蘇我氏終焉の地にもなった。今は飛鳥の展望台の役目を果たし、頂繧に360度の天望解説盤が設けられ、飛鳥を散策する人や遠足で訪れた小学生たちがが、飛鳥の眺めを楽しんでいる。

(写真は 甘樫丘)

 絶対的な権力を手中にした天武天皇は新都の建設を計画していたが、実現しないうちに死亡した。その遺志を皇位を継いだ皇后の持統天皇が継いで都を造営、和銅3年(710)まで16年間、持統、文武、元明の三代の天皇の都だった。中国の都城を模した都で、最初から本格的な都市計画に基づいて建設され、東西2.1km、南北3.2kmの広大な京域は、日本で初めて条坊制が敷かれ、道路は碁盤の目状に建設された。
 藤原京の発掘調査は昭和9年(1934)から始められており、今も奈良文化財研究所の手で発掘調査が続けられている。発掘調査の結果、大極殿跡、朝堂院跡、内裏跡などが確認されている。

藤原京模型(飛鳥資料館)

(写真は 藤原京模型(飛鳥資料館))


◇あ    し◇
飛鳥巡り  近鉄橿原線・南大阪線橿原神宮前駅、吉野線岡寺駅、飛鳥駅からレンタサイクル利用が便利。但し坂道が多いので、老人や体力のない人はバス利用がよい。
  近鉄橿原線・南大阪線橿原神宮前駅から明日香周遊バス(赤かめバス)=一日乗り放題乗車券650円=、明日香村内には村営の明日香循環バス(金かめバス)=1回100円=があり、この両方をうまく乗り継げば、ほとんどの飛鳥の史跡、観光スポットへ行ける。
藤原京跡近鉄大阪線、橿原線大和八木駅からバスで小房下車徒歩10分。
近鉄橿原線八木西口駅、畝傍御陵前駅から徒歩30分。
◇問い合わせ先◇
明日香村観光開発公社     0744−54−4577 
明日香村役場     0744−54−2001 
飛鳥駅前総合案内所     0744−54−3624 
国営飛鳥歴史公園館     0744−54−2662 
飛鳥京観光協会     0744−54−2362 
奈良県立万葉文化館     0744−54−1850 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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