月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・醍醐寺 

 京の都の東南、伏見区の醍醐山の山麓に、約200万坪(約660万平方m)もの広大な寺域を持つ醍醐寺は、真言宗醍醐派の総本山で1100有余年の歴史を持つ古刹。平成6年(1994)に「古都京都の文化財」のひとつとして、ユネスコの世界遺産にも登録されている。豊臣秀吉の「醍醐の花見」でも有名な桜の花の満開の時に醍醐寺を訪ねた。


 
醍醐の花見  放送 4月25日(月)
 真言宗醍醐寺派の総本山の醍醐寺は、京都の桜の名所として名高く、桜のシーズンには大勢の花見客で境内はにぎわう。醍醐観桜で史上最も知られているのが、慶長3年(1598)
3月15日(旧暦)に催された豊臣秀吉の「醍醐の花見」である。
 秀吉は近江、河内、大和、山城などから優れた桜の木700本取り寄せて、山道の両側に配して植えたほか、五重塔(国宝)の修理や花見のための御殿の建設を命じた。
たびたび観桜準備の進捗状況を視察するなど、花見のための準備万端を取り仕切り、秀頼、北政所、淀殿らと一世一代の華やかな花見の宴を張った。

醍醐山

(写真は 醍醐山)

醍醐花見短籍

 「醍醐の花見」の特徴のひとつとして、女性がその中心になっていたことである。
花見の日に書き残された「醍醐花見短籍(たん
ざく)」の131首の歌のうち、そのほとんどが女性のものであった。これは年老いた秀吉が、自分自身が花見を楽しむと同時に、生涯を共にして苦労した正妻・寧々(ねね)への感謝の表れだったのではないかと見るむきもある。
 花見の歌会で秀吉は「あらためて 名をかへてみむ 深雪山 うつもる花も あらはれにけり」と詠むなど、醍醐寺で詠んだ歌に「深雪山」の名称がある。これは秀吉が醍醐寺の山号を「深雪山」に改めてみては、という心の表れであろう。

(写真は 醍醐花見短籍)

 醍醐寺は理源大師・聖宝(832〜909)が創建して以来、天皇や朝廷の篤い崇敬を受けたり、足利尊氏の帰依などを得て寺運は大いに隆盛した。だが、文明2年(1470)応仁の乱の兵火で、五重塔を除いて下醍醐の諸堂はすべて焼失し、境内は荒廃した。
 こうした時、秀吉の深い帰依を受け、諸堂の再建が進んだ。伽藍再興が緒についた時、秀吉が「醍醐の花見」の宴を計画したことで、醍醐寺の堂宇の再建に拍車がかかった。秀吉の死後も秀頼が醍醐寺の再建に力を入れており、醍醐寺にとって「醍醐の花見」は復興への牽引力となった。

五重塔

(写真は 五重塔)


 
醍醐味  放送 4月26日(火)
 醍醐寺の開祖となった理源大師・聖宝は、貞観16年(874)京都・深草のはるか東方、笠取山(醍醐山)の頂に瑞雲を見てこの山に登り、白髪の老翁に出会った。
 老翁は目の前の落ち葉をかきわけ、そこから湧き出た泉を両手ですくって飲み干すと「嗚呼(ああ)醍醐味なるかな、嗚呼醍醐味なるかな」と言った。聖宝は「私はこの山にお寺を建立して、密教を広めたい」と老翁に尋ねると「我はこの山の地主の横尾明神である。この山を和尚に献ずる。密教を広められよ」と言われたので、聖宝はこの泉のほとりに草庵を結び、笠取山の名を改めて醍醐山と呼ぶことにした。

上醍醐への参道

(写真は 上醍醐への参道)

霊泉醍醐水

 聖宝は泉のほとりにあった柏の木を伐って、如意輪観世音菩薩像と准胝(じゅんてい)観世音菩薩像を刻み、草庵に安置したのが醍醐寺の始まりで、その地が現在の上醍醐である。
 横尾明神の化身の老翁が飲んで「醍醐味なるかな」と言った泉は、上醍醐の境内に霊泉醍醐水の井戸として残っており、今も醍醐水として枯れることなく湧き出て参拝者らがその水をいただいている。醍醐とは仏教で牛乳を精製する過程の5段階の乳味・酪味・生酥(しょうそ)味・熟酥味・醍醐味のひとつで、仏の教えが衆生の能力に応じて順次深くなっていくことを言う。ちなみに真言宗では宗祖・弘法大師の教えこそ、最上の法味であることをさしている。

(写真は 霊泉醍醐水)

 醍醐寺を開いた理源大師・聖宝は天智天皇の
6代目の子孫にあたる。16歳の時、弘法大師・空海の実弟で東大寺別当だった真雅について出家得度し、奈良の東大寺、元興寺などで学んだ。上醍醐に醍醐寺を開き、准胝堂、如意輪堂を建てたほか、薬師堂、五大堂などの堂宇を建立した。後に真言密教の第一人者となり、真言宗の最高位である東寺の長者になっている。
 金剛・葛城山、吉野・大峰山などで修験道の修行も重ね、吉野・金峯山(山上ヶ岳)の山上に念願の寺を建て、如意輪観音菩薩像、毘沙門天像、金剛蔵王権現像を祀ったほか、大峯修験道の修行路の整備をするなどして「大峯修験道中興の祖」と仰がれた。

不動の滝

(写真は 不動の滝)


 
西国三十三カ所第11番札所  放送 4月27日(水)
 貞観16年(874)理源大師・聖宝は醍醐寺創建に当たって、准胝(じゅんてい)、如意輪の両観世音菩薩像を刻んで祀った。その准胝観音像を本尊として祀る上醍醐の准胝堂は、西国三十三カ所第11番札所の霊場で、西国巡礼姿の信者たちが次々とお参りしている。
 この上醍醐の准胝堂は、西国三十三カ所霊場の中で最も道がけわしい霊場として知られている。下醍醐から約3kmの山道を登る以外にルートがなく、普通に歩いて約1時間、お年寄りだとそれ以上かかることもある。上醍醐への参詣者は西国霊場巡礼の人たちが中心になるためか、お年寄りが多く若い人の姿は少ない。

准胝堂

(写真は 准胝堂)

開山堂

 このきつい山道の参道を杖を頼りに登ってきて、横尾明神が「醍醐味なるかな」と言って飲んだ霊水醍醐水の井戸水でのどを潤すと、誰しも「醍醐味なるかな」と思うだろう。西国三十三カ所巡礼の巡礼者たちは、本尊・准胝観音菩薩像が祀ってある准胝堂へ参詣して「これで1時間もかけて登ってきた苦労も報われた」と、ホッとした表情に変わる。
 「じゅんてい」とは梵語の意訳で、清浄と言った意味がある。また、准胝観音には子授け、安産、夫婦和合、延命治病などの霊験があり、殊に醍醐天皇が皇子を授かったことから、子授けの願を掛ける人が多い。

(写真は 開山堂)

 醍醐寺草創の地・上醍醐には、山道を登り詰めたところに清滝宮本殿(国・重文)と清滝宮拝殿(国宝)があり、准胝堂のそばの薬師堂(国宝)は、山上に残る唯一の平安時代後期の建物である。そこから山上へ向かうと五大堂、聖宝が創建時に彫った如意輪観音像を祀った如意輪堂(国・重文)、開山堂(国・重文)と続く。
 五大堂に祀られている不動明王 、金剛夜叉明王、降三世(ごうざんぜ)明王、軍荼利(ぐんだり)夜叉明王、大威徳明王の五大明王像(国・重文)は「五大力さん」と呼び親しまれ、災難、盗難除けの本尊として信仰されている。
 准胝堂の御詠歌は「ぎゃくえんも もらさですくう がんなれば じゅんていどうは たのもしきかな」。

大威徳明王像(五大堂)

(写真は 大威徳明王像(五大堂))


 
三宝院庭園  放送 4月28日(木)
 醍醐寺最大の塔頭・三宝院は、永久3年(1115)醍醐寺第14世座主・勝覚によって開かれた。第25世座主・満済の時以来、三宝院門主が醍醐寺座主を務めるようになり三宝院は栄えたが、応仁の乱の兵火で寺域は荒廃した。
 門主の義演が醍醐寺座主を務めていた時、豊臣秀吉の帰依を得て、醍醐寺とともに再興された。伏見城から移築されたと言われる唐門(国宝)は、扉に太閤桐と呼ばれる「五七の桐」と「十二弁の菊」が浮き彫りされており、この大胆な意匠に目を奪われる。

唐門

(写真は 唐門)

表書院

 国の特別史跡、特別名勝に指定されている表書院(国宝)の前に広がる庭園は、慶長3年(1598)醍醐の花見を控えていた豊臣秀吉の命で作庭された。家臣に庭奉行を命じて庭園作りを監督させるほどの熱の入れ方で、秀吉自身もたびたび三宝院を訪れ、作庭の進み具合を見ながら細かな指示をしたほどだった。
 中央の大池に滝と三つの中島を配し、島を橋で結び、池の周囲には多くの名石が配した石組みある。表書院から眺めると池の対岸中央に配された「藤戸石」は、聚楽第から運ばせたもので、これを持つ者は天下を持つと言われた名石である。この庭園に執着した秀吉だったが、醍醐の花見から半年後、この庭の完成を見ずに世を去った。

(写真は 表書院)

 この庭園に面して建てられている建物も素晴らしい。いずれも国の重要文化財に指定されており、その大玄関を入り、庭に面して「葵の間」「秋草の間」「勅使の間」が並ぶ。さらに表書院、純浄観、本堂(護摩堂)へと棟が連なっている。
 庭園は回遊式だが、実際は建物の中から眺めるように配慮されている。庭園側には廊下状の縁が巡らされ、庭が見やすいように縁に立つ柱の間隔は広く取られている。
それぞれの部屋には障壁画が描かれており、名園の眺めを楽しみ、障壁画を観賞すると言う桃山文化の粋をこらしたものと言える。

藤戸石

(写真は 藤戸石)


 
三宝院表書院  放送 4月29日(金)
 醍醐寺は室町時代の応仁の乱の兵火にかかって、五重塔を除き山内のほとんどの堂宇が焼失してしまったが、桃山時代になって第80世座主・義演が豊臣秀吉の援助を受けて再興した。
 醍醐寺の塔頭・三宝院も兵火で焼失していたが、醍醐寺座主の義演が門主だったので、醍醐寺を同じように秀吉が「醍醐の花見」を契機に再建工事が始められ、表書院(国宝)をはじめとする殿堂、表書院前の庭園などが秀吉没後の慶長4年(1599)に完成した。

上段の間

(写真は 上段の間)

純浄観

 門跡の接客対面の場である表書院は、畳敷きの上段(15畳)、中段(18畳)、下段(27畳)の三室が並列している。上段の間には「松柳図」「柳草花図」、中段の間には「四季山水図」、下段の間には「蘇鉄に孔雀図」の華麗な障壁画に彩られている。いずれも制作年代はさまざまだが、その中でも有名なのが上段の間の長谷川等伯派の絵師の作と思われる「松柳図」。
 この表書院から眺める庭園の景観が最高で、時の権力者・豊臣秀吉の財力によって桃山文化の栄華が、建築物や庭園に現れている。

(写真は 純浄観)

 表書院の西側の「葵の間」「秋草の間」「勅使の間」にも、それぞれ障壁画がえがかれており、表書院の障壁画と合わせて国の重要文化財に指定されている。
 表書院の東側に建つ純浄観は、茅葺きの民家風の建物だが内部は豪華な書院造りで、秀吉が花見の時に御殿として槍山に建てたものを移した。本堂(護摩堂又は弥勒堂とも呼ぶ)には、本尊・弥勒菩薩像(国・重文)が安置されている。このように三宝院は唐門、庭園、表書院、障壁画など、国宝、重要文化財が多く、秀吉の栄華が残る桃山文化の宝庫と言われる。

弥勒菩薩坐像(弥勒堂)

(写真は 弥勒菩薩坐像(弥勒堂))


◇あ    し◇
醍醐寺地下鉄東西線醍醐駅下車徒歩15分。 
JR東海道線山科駅からバスで醍醐三宝院下車。
◇問い合わせ先◇
醍醐寺075−571−0002 

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