月〜金曜日 18時54分〜19時00分


高島市 

 2005年1月1日、湖西の高島郡マキノ、今津、安曇川、高島、新旭、朽木の6町村が合併して高島市が誕生した。比良山系の山麓から琵琶湖の湖岸にかけて広がるこの地方には、湖西特有の歴史と風土、文化、人情がある。今回は新しい市に生まれ変わった町を訪ねてみた。


 
海津大崎  放送 5月9日(月)
 琵琶湖の北西端の旧マキノ町海津は、今津、塩津とともに湖北三港のひとつとして、古代から京と北陸を結ぶ湖上交通の要衝として栄えてきた所で、今も家並みや自然石積みの石垣などに昔の面影を残している。海津から敦賀に通じる七里半越(現国道161号)には、古代三関のひとつの愛発関(あらちのせき)があった。
 旧マキノ町の南東、東山の山裾が琵琶湖に突き出た男性的な奇岩群の海津大崎は、湖南の女性的な風景に比べ、荒々しくて厳しい湖北の自然を象徴している。この一帯の風景が「暁霧・海津大崎の岩礁」として、琵琶湖八景のひとつになっている。

遊覧船 大井丸

(写真は 遊覧船 大井丸)

大崎寺

 この海津の名が広く知られているのは、何と言っても湖岸に沿って約4kmにわたって、600本の桜が咲き誇る桜並木の眺めであろう。湖上の竹生島と調和した眺めは「日本のさくら名所100選」にも選ばれており、遊覧船で湖上から眺める桜も趣の違った景観を作り出してくれる。
 昭和11年(1936)湖岸沿い道路の大崎トンネル完成を記念して、当時の海津村が桜を植樹したのがこの桜並木で、毎春、大勢の花見客が訪れている。トンネル完成より5年ほど前から道路作業員だった宗戸清七さんが自費で桜の苗を植えていたのが、村をあげての記念植樹のきっかけとなった。

(写真は 大崎寺)

 この桜並木が続く海津大崎の岬にある大崎寺は、一般には大崎観音の名で親しまれており、境内からの桜並木や琵琶湖の眺めが素晴らしい。大宝2年(702)山岳修行僧の泰澄が開基、後に平安時代に遣唐副使を務めた小野篁が中興した。泰澄の作とも伝えられる本尊・十一面千手観音菩薩像は、子(ね)年にだけ開帳される秘仏。
 宝形造りの阿弥陀堂は「安土の血天井」として知られている。本能寺の変後、安土城を守っていた日野領主・蒲生賢秀は織田信長の妻子を日野城に逃し、明智光秀の軍を迎えて戦い討ち死にした。この時、賢秀の血しぶきを浴びた板を使って阿弥陀堂の天井が張られたと伝えられている。

本尊 十一面千手観世音菩薩(お前立ち)

(写真は 本尊 十一面千手観世音菩薩
(お前立ち))


 
近江の名刹・興聖寺  放送 5月10日(火)
 旧朽木村の安曇川の清流を見下ろす小高い丘の上に、朽木氏の菩提寺・興聖寺(こうしょうじ)が建っている。鎌倉時代の嘉禎3年(1237)近江守護・佐々木信綱が、承久の乱で戦死した一族の供養を曹洞宗の開祖・道元禅師に願い、越前へ行く途中の道元を朽木に招いた。朽木を訪れた道元は、朽木の山野の風景が伏見・深草に創建した興聖寺に似ているのを喜び、信綱に一寺の創建を勧め、同じ寺名を与えたのが始まりと言う。
 3年後に七堂伽藍(がらん)が完成し、永平寺二世住職・懐弉(えじょう)禅師を招いて遷仏式を行い、曹洞宗第三の古道場と言われるようになった。

本堂

(写真は 本堂)

本尊 釈迦如来坐像

 信綱の曾孫・義綱が氏を佐々木から朽木と改め以後、代々にわたって朽木を領して明治維新まで続き、興聖寺は創建以来、朽木氏の菩提寺となった。本尊の釈迦如来像(国・重文)は、朽木に隠れ住んだ後一条天皇の皇子が没した後、その霊を慰めるために造仏されて祀られたと言われている。他に楠木正成の念持仏だった不動明王像があり、寺に侵入した盗賊を金縛りにして追い払ったとの言い伝えから、縛り不動明王像とも呼ばれている。
 創建当時の興聖寺は、道元禅師が気に入った風景の旧朽木村上柏の指月谷にあったが、江戸時代中期の享保14年(1729)この地にあった秀隣寺を指月谷へ移し、その跡へ興聖寺が移された。

(写真は 本尊 釈迦如来坐像)

 興聖寺が秀隣寺跡地へ移転したことから、境内には国の名勝に指定されている旧秀隣寺庭園がある。享禄元年(1528)足利12代将軍・義晴が、都の兵乱の難を避け、朽木稙綱を頼って朽木に3年間滞在した。この義晴を慰めるために作庭されのがこの庭園で、室町文化の趣を残し足利庭園とも呼ばれている。
 室町時代後期の造園手法で作庭された池泉回遊式の旧秀隣寺庭園は、築庭当時のままの形で残っている。安曇川の清流と比良山系・蛇谷ヶ峰を借景に、上流には鼓の滝を配し、下流は曲水、池の平面を鶴に形にして、そこに亀島を浮かべている。亀島に架かる自然石の橋は楠の化石で、小谷城主・浅井亮政の寄進と伝えられる。

旧秀隣院庭園

(写真は 旧秀隣院庭園)


 
近江聖人の里  放送 5月11日(水)
 旧安曇川町は中国の王陽明の思想に共感して自らの学問を築きあげ、近江聖人とたたえられ、日本陽明学の祖と言われた中江藤樹(1608〜48)の生誕、そして終焉の地。この地にはこの近江聖人を祀る藤樹神社、自らが学び、村人たちに学問を教えた藤樹書院、近江聖人中江藤樹記念館、藤樹の墓所がある玉林院、王陽明の生地である中国・余姚(よよう)市との友好交流を記念する中国式庭園・陽明園などがある。
 江戸時代、藤樹の墓参に訪れた武士が、農夫に道案内を乞うたところ、農夫は衣服を正し、敬虔な態度で墓へ案内した。そのわけを問うと「先生の墓の前へ出る時は誰も衣服を正します」と言い、当時から中江藤樹は住民たちから敬われ、そして誇りとされていた。

陽明園

(写真は 陽明園)

中江藤樹

 中江藤樹記念館に展示されている彼の真筆「知良致(良知にいたる)」は、彼の根本思想である「人は皆、生まれながらに良知と言う美しい心を持っており、それをきれいに磨いて、その指図に従うようにしなけらばならぬ」を意味している。
 記念館は旧安曇川町が中江藤樹生誕380年を記念して昭和61年(1986)に建設したもので、第1展示室には安曇川町の歴史と文化に関する資料、第2展示室には中江藤樹の遺品や遺墨、資料を展示している。図書室には陽明学や藤樹学などの専門書約1万冊が整えられ、自由に閲覧することができる。

(写真は 中江藤樹)

 中江藤樹は農家の長男として生まれ、名は原(げん)、通称・与右衛門と言った。
9歳の時、米子藩に仕える祖父の養子となった。藩主の転封に伴い四国・大洲に移り、学問の道に進む志を立て勉学に励んだ。27歳の時、故郷で独り暮らしをしている母を思い、脱藩して郷里へ帰った。その藤樹を慕って多くの人が訪れ、自宅で教えを受けるようになった。その自宅に藤の老樹があり、誰言うともなしに「藤樹先生」と呼ぶようになった。
 正保5年(1648)門弟や村人らが藤樹書院を建てたが、その半年後に藤樹は没した。明治13年(1880)の村の大火で藤樹院も焼失、2年後に門弟らによって再建されたのが、現在の藤樹書院(国指定史跡)である。

藤樹書院

(写真は 藤樹書院)


 
湖西の散歩道  放送 5月12日(木)
 琵琶湖の中に朱塗りの大鳥居が建つ白鬚(しらひげ)神社は、垂仁天皇の時代に創建されたと伝わる近江で最古の神社。湖中の大鳥居が広島・安芸の厳島神社を思わせるところから“近畿の厳島”とも言われており、近江地方のみならず京阪神や岐阜、福井方面からの参拝者も多い。謡曲の「白鬚」は、この神社の縁起をうたったものである。
 湖中の鳥居との間に国道が走り、その奥に老松に囲まれて本殿(国・重文)が建っており、祭神は国と人を善き方向に導く猿田彦命。

大鳥居

(写真は 大鳥居)

本殿

 神社の名の通り延命長寿の神として知られているほか、縁結び、子授け、福徳開運や人の世の営みごと、殊に陸海の交通安全についての神徳が深いとされ、境内には長寿を祈願した翁の絵馬があちこちに掲げられている。
 現在の本殿は豊臣秀吉の遺命で、慶長8年
(1603)豊臣秀頼が造営したもので、入母屋造り、桧皮葺きの社殿は、各所に桃山時代の建築の特徴がよく残っている。拝殿は江戸時代初めの寛永元年(1624)この地の大溝城主・分部光信が建立したが、明治12年(1879)の再建の際に本殿に接続させたため、現在のような複雑な屋根の形式になった。

(写真は 本殿)

 この白鬚神社の北東の鵜川四十八体石仏群は、天文22年(1553)対岸の安土の観音寺城主・佐々木六角義賢が、亡き母の菩提を弔うために、阿弥陀四十八願にちなんで琵琶湖の対岸にあたる鵜川に造立した。
 これらの石仏は花崗岩製の阿弥陀如来像で、高さは約160cm。室町時代の作風をよくとどめ、慈愛に満ちた顔、あどけない顔、悲しそうな顔、ユーモラスな顔など、それぞれ異なった表情をしている。東向きに6体ずつ8列に並んで座っていたが、現在、鵜川に33体、大津市坂本の慈眼堂に13体が安置されており、残る2体は行方がわからなくなっている。

鵜川四十八体石仏群

(写真は 鵜川四十八体石仏群)


 
城下町の珍味  放送 5月13日(金)
 湖岸に近い小高い森に今は石垣と堀だけが残る大溝城跡は、天正年間に織田信長の甥・信澄が築いた城で、明智光秀が設計、監督にあたったと言われている。城の東南に琵琶湖の内湖と乙女ヶ池を外堀、城堀を内堀とした水城で「鴻湖城」とも呼ばれていた。
 元和5年(1619)分部(わけべ)光信が伊賀上野から入部、以後、明治維新まで分部氏が12代にわたって城主を務めた。今も城下町の面影が各所に見られ、船入町、長刀町、江戸屋町、伊勢町など、当時の町名が残っている。中でも勝野地区の中央の通りにある水路は、庶民生活に欠かせない重要な施設となっていた。

大溝城下古図(江戸時代)

(写真は 大溝城下古図(江戸時代))

大溝城跡

 湖西、湖北地方に伝わる珍味で、今や全国にその名が知られているのが鮒(ふな)寿し。鮒寿しはにぎりすしの原形とも言われる馴れ鮨(熟れ鮨)の一種。古くは保存食として作られていたが、最近では乳酸菌発酵による健康食品として注目されているほか、珍味として食通の人気を集めている。
 湖西、湖北地方は鮒寿しの材料になる甘味があって身がよく締まり、小粒の卵を持った良質のニゴロブナが獲れる。さらに若狭から運ばれる天然ニガリの効いた塩、そしておいしい近江米、きれいな水の四拍子がそろっていたことから鮒寿し作りが盛んになった。

(写真は 大溝城跡)

 3月中旬から5月中旬ごろに獲れた産卵期前の卵の詰まった新鮮なニゴロブナのウロコとエラ、内臓を取り除ききれいな井戸水であらって水を切る。エラぶたから腹いっぱいに塩を詰め、桶に隙間のないように詰め込み、重石を乗せて最低2年間漬け込む。
 2年後に桶から取り出して水洗い。塩を混ぜたご飯と鮒を一段ずつ交互に漬け、重石の乗せて1年間漬け込む。この間に乳酸菌の働きで発酵する。さらにもう一度、新しいご飯に代えて3〜4ヶ月漬けると芳醇で独特の風味の鮒寿しが、3年3ヶ月の時間をかけてでき上がる。この鮒寿しにはまると「こんな美味な食べ物はほかにない」と、とりこになるそうだ。

鮒寿し(喜多品老舗)

(写真は 鮒寿し(喜多品老舗))


◇あ    し◇
海津大崎、大崎寺JR湖西線マキノ駅からバスで海津大崎口下車徒歩30分。
マキノ駅からレンタサイクルの利用が便利。
興聖寺、旧秀隣寺庭園JR湖西線安曇川駅からバスで岩瀬下車徒歩3分。 
藤樹書院JR湖西線安曇川駅下車徒歩20分。 
近江聖人中江藤樹記念館JR湖西線安曇川駅下車徒歩15分。 
白鬚神社JR湖西線近江高島駅からバスで白鬚神社前下車。 
鵜川四十八体石仏JR湖西線近江高島駅下車徒歩10分。 
大溝城跡JR湖西線近江高島駅下車徒歩10分。 
鮒寿し喜多品老舗JR湖西線近江高島駅下車徒歩7分。 
◇問い合わせ先◇
高島地域観光振興協議会0740−22−8330 
高島市観光協会0740−36−8135 
マキノ観光協会0740−28−1188 
朽木観光協会0740−38−2398 
安曇川観光協会0740−32−1002 
大崎寺0740−28−1215 
聖興寺0740−38−2103 
財団法人藤樹書院0740−32−4156 
近江聖人中江藤樹記念館0740−32−0330 
白鬚神社0740−36−1555 
鮒寿し喜多品老舗0740−36−0031 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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