月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良・田原本町 

 田原本町は奈良盆地の中央にあり、弥生時代の環濠大集落跡の唐古・鍵遺跡で全国によく知られている町である。飛鳥と平城京を結ぶ官道の中ツ道が通っていたため人の往来が多く、江戸時代以降は河川を利用した物資の輸送などの中継地としても栄えた。町内には唐古・鍵遺跡のほかに古墳などの遺跡や文化財、古社寺も数多い。


 
太古へのいざない  放送 6月27日(月)
 奈良盆地のほぼ中央に位置する田原本町は、町内を古代の中ツ道が通り、大和川やその支流の寺川などの河川交通の便もよかったことから、弥生時代から急速に文化が発展していた。
 町の北部に記紀伝承上の天皇である孝霊天皇の黒田廬戸宮(くろだいほどのみや)跡と伝わる地があり、宮跡との関連を示す「宮古前」「内裏坪」「大君」などの地名が残っている。その北西の黒田大塚古墳は、全長86mの前方後円墳で、6世紀後期のものと見られている。周囲の濠は後世に埋め立てられ、墳丘の周囲も削り取られているが、周濠の発掘調査で埴輪や木製品が出土しており、墳丘上に並べられていたものが濠に落ちたと推定される。

黒田大塚古墳

(写真は 黒田大塚古墳)

笹鉾山古墳

 笹鉾山古墳は6世紀前半ごろに築造された全長88mの前方後円墳で、平成6年(1994)の発掘調査で2重の外濠が確認された。
 また、笹鉾山古墳の北側から新たに直径19.5mの円墳が見つかった。円墳の周濠からほぼ完全に復元できる馬子と飾り馬のセット2組が出土し、馬子の一体の顔には入れ墨を表現する線刻が施されていた。このほか蓋形埴輪、円筒埴輪、朝顔形埴輪など、多数の形象埴輪や笠形木製品が出土した。黒田大塚古墳や笹鉾山古墳、その北側の円墳からの出土品の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。

(写真は 笹鉾山古墳)

 町の北東部の唐古池を中心に総面積42haにおよぶ弥生時代の大集落跡の唐古・鍵遺跡(国・史跡)は、佐賀県の吉野ヶ里遺跡と並ぶ弥生文化を代表する遺跡として知られている。
 この遺跡から出土した絵画土器に描かれた「楼閣」の絵をもとに、平成6年(1994)唐古池の西南隅に2階建て、高さ12.5mの楼閣が復元され、田原本町のシンボルとなっている。楼閣の4本の柱は直径50cmのヒバ材を使い、屋根は茅葺き、外壁は網代壁、内壁は板壁となっている。絵画土器に見られる唐古・鍵遺跡の建物に特徴的な渦巻き状の屋根飾りは藤蔓で作り、屋根の上の逆S字状の3本線は渡り鳥と解釈し、木製の鳥が東西の両面に3羽ずつ設置されている。

楼閣(復元)

(写真は 楼閣(復元))


 
唐古・鍵遺跡  放送 6月28日(火)
 紀元前3〜4世紀ごろから紀元3世紀までの約600年間に稲作農耕が始まり、集団で同じ場所に定住するようになった。それらの集団を統率する権力者が現れ、さらにその小集団を統率する強力な権力を持つ豪族が出現、これらの権力者によって巨大な環濠集落などが作られるようになったのが弥生時代。
 佐賀県の吉野ヶ里遺跡と並ぶ唐古・鍵遺跡は、弥生時代を代表する環濠集落跡で、遺跡の総面積は約42haにもおよぶ。明治34年(1901)に初めて唐古、鍵遺跡の存在が学界に報告されて以来、発掘調査が続けられ、貴重な遺物が多数出土した。これらの出土品は平成16年(2004)にオープンした唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。

唐古・鍵考古学ミュージアム

(写真は 唐古・鍵考古学ミュージアム)

ながめの丘

 唐古・鍵遺跡の本格的発掘調査は、昭和11年(1936)から2年間、故末永雅雄博士の陣頭指揮で始まり、現在も発掘調査は続けられている。この発掘調査によって多くの遺物が出土し、その出土品から約2000年前の弥生時代の人びとの生活や文化を知ることができた。
 出土品は大量の石器、土器や鋤(すき)、鍬(くわ)など木製の農耕具、銅鐸、銅鐸石製鋳型、青銅器工房跡、ヒスイの勾玉、褐鉄鉱容器、竪穴住居跡、大型住居跡、木棺墓、土器棺墓、埴輪など広範囲にわたっている。また、周囲に防衛を主な目的とした濠を巡らした環濠集落の存在が明らかになった。環濠の内側は約400mで、最も大きな濠は幅8m以上もあり、最盛期にはその外側に幅5mほどの濠を4〜5条も巡らしていた。

(写真は ながめの丘)

 唐古・鍵遺跡から出土した土器の最も顕著な特徴は、建物や人物、鹿、魚などの絵が描かれた土器が多いことだ。この土器に描かれた絵を手がかりに楼閣や女性シャーマンなどの人形模型を復元している。また当時の土器の作り方もわかり、犬がかんだ?歯形やネズミの爪痕などが残る土器も出てきた。また、埴輪には優れた物が多く、牛形埴輪などが国の重要文化財に指定されている。
 これらの貴重な出土品は平成16年(2004)にオープンした唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。ミュージアムでは弥生時代の唐古・鍵集落のある日の出来事を、大型スクリーンに再現したり、女性シャーマンや楯と戈を持った戦士の模型人形を再現して展示しており、弥生時代の生活がイメージできる。

絵画土器

(写真は 絵画土器)


 
鏡作神社  放送 6月29日(水)
 古代の人びとは鏡を己の魂が宿るものとして敬い尊んだ。また、神の御魂として鏡が祀られ、後には三種の神器のひとつとなっている。その鏡を製作、鋳造することを業とした鏡作部たちが創建したのが鏡作(ががみつくり)神社で、正式名を鏡作坐天照御魂(かがみつくりにますあまてるみたま)神社と言う。
 社殿には中央に天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)、右に鏡作部の祖神で天照大神が天の岩戸に隠れた時に八咫鏡(やたのかがみ)を作った石凝姥命(いしこりどめのみこと)、左に天児屋根命(あめのこやねのみこと)の三神が祀られている。

鏡作神社

(写真は 鏡作神社)

鏡池

 この付近は古くから鏡作部の職人たちが多く住んでいたところで、職人たちが祖神である石凝姥命を祀り、氏神として崇敬していた。崇神天皇の時、皇居に天照大神をお祀りするのはおそれおおいと大和国・笠縫村に移され、その後、垂仁天皇の時代に天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、鎮座地を求めて各地を巡行、伊勢に祀ることになって現在の伊勢神宮が創建された。
 この時、崇神天皇が別の鏡を石凝姥命の子孫の鏡作部に作らせ、その鏡を皇居の内侍所に祀った。その際、神鏡の試作鏡として鋳造した鏡を、鏡作神社の主祭神・天照国照彦火明命の御魂として祀ったのが鏡作神社の起源と伝えられている。

(写真は 鏡池)

 中世から江戸時代にかけても鏡作りの人たちの崇敬を集め、社殿前の狛犬(こまいぬ)は江戸時代後期の天保年間(1830〜44)に大坂の鏡屋仲間が奉納したものであり、境内の鏡池は鋳造した鏡を洗い清めた池と言われている。社宝として非公開の三神二獣鏡がある。現代は鏡業界の人たちのほかに、美の神として技術の向上を願う美容師や化粧品関係者の参拝が多くなっている。
 鏡作神社で毎年2月の第3日曜日に豊作を祈る御田植祭があり、かすりの着物姿の早乙女たちの御田植舞や豊年舞、農耕の牛使いの神事がある。牛使いが乱暴にすると慈雨に恵まれると言われている。

三神二獣鏡

(写真は 三神二獣鏡)


 
ふるさとの祭・蛇巻き  放送 6月30日(木)
 6月の第1日曜日、田原本町鍵地区の八坂神社と今里地区の杵築神社で伝統の「蛇(じゃ)巻き」が行われる。本来は旧暦5月5日の端午の節句の行事として行われていたものである。
 杵築神社では中学生以上の男子が集まり、撚りをかけた長い綱に麦わらの束をつけて蛇体を編みあげる。全長18mの蛇ができあがると、中学生の男子が蛇頭を抱え1軒ずつ各家を回り「おめでとう」とお祝いを言いながら練り歩く。広い道に出ると誰彼となく見物人や通行人を蛇体に巻き込んで歓声をあげるのが「蛇巻き」である。

杵築神社

(写真は 杵築神社)

蛇巻き

 杵築神社に戻ると境内のエノキの大樹に蛇体を巻きつけ、絵馬や農具の模型とともに奉納する。鍵地区でも八坂神社に集まった中学生以上の男子が、稲わらで蛇体を作り、地区内の1軒1軒を訪れながら練り歩き、最後に北中学校前の「はったはん」と呼ばれる場所のエノキの大樹に蛇体を巻きつけて奉納する。
 この神事は田植え時期を前に、農耕には欠かせない降雨を祈願して豊作を祈り、同時に男子の成人を祝ったものである。

(写真は 蛇巻き)

 この蛇巻きの神事の由来は次のように伝えられている。今里地区では昔、この地に雄の竜がおり、若い娘を食い殺したり作物を荒らしていた。この地を訪れた1人の僧が、5月の端午の節句の日にショウブで太刀を作って家々に飾ったところ、竜は驚いて街道のエノキの上に隠れたと言う。
 鍵地区では、大きなムジナがいて村人を殺したり田畑を荒らしていたが、今里の竜が来て藪の中でムジナと争って殺した。村人はこれを喜んでこの藪の中に竜を祀り、竜に感謝の気持ちを込めて蛇巻きの行事をするようになったと言われている。

八坂神社

(写真は 八坂神社)


 
寺内町の面影  放送 7月1日(金)
 本能寺の変の後、織田信長の跡目相続を巡り豊臣秀吉と柴田勝家・織田信孝連合軍が戦った賤ヶ岳の合戦で、賤ヶ岳七本槍のひとりとして名をあげた平野権平長泰は、文禄4年(1595)秀吉から大和国十市郡内の田原本村など7カ村、5000石の領地を与えられた。
 関ヶ原の戦では東軍に属し徳川家康から領地を安堵されたが、大坂冬の陣、夏の陣では寝返りを恐れた家康は江戸留守居役を命じた。長泰は大和の領地は代官に任せ、駿府城下に居を構えて家康の御伽衆(おとぎしゅう)として仕え、駿府城下で70歳の天寿をまっとうした。

本尊 阿弥陀如来坐立像(浄照寺)

(写真は 本尊 阿弥陀如来立像(浄照寺))

本誓寺

 田原本に館を構え本格的に領地の経営に乗り出したのは、長泰の嫡男・長勝であった。以後、明治維新の廃藩まで約280年間にわたって平野家は田原本の領主だった。石高は旗本並みに低かったが、老中が支配する交代年寄衆に任じられ大名待遇の格式を与えられていた。
 長勝は父・長泰から寺内町の経営を任されていた教行寺と対立し、教行寺を立ち退かせてその跡地に慶安4年(1651)円教寺を建立、後に浄照寺と改めた。長勝は陣屋と浄照寺を中心に川を利用したり、環濠を巡らして寺内町を形成した。浄照寺は浄土真宗本願寺派大和五ヵ所御坊のひとつで大和に72の末寺を持っていた。

(写真は 本誓寺)

 浄照寺の本堂内の柱、長押、欄間などには金箔押しや極彩色の華麗な装飾が施されており、創建当時のままの姿がよく残っており、大規模な真宗寺院建築として評価が高い。また、伏見桃山城の城門を移築した山門のほか、大谷本廟から下付された親鸞上人画像、梵鐘などがある。浄照寺に隣接する本誓寺は長泰が復興し、長勝が現在地に移転して伽藍(がらん)を整えた。平野家の菩提寺となり、境内に長勝の霊廟がある。
 江戸時代初めの寛永10年(1633)に創建された浄土宗の安養寺の仏間に安置されている秘仏・阿弥陀如来立像(国・重文)は、像に記された墨書やX線撮影などから鎌倉時代初めの快慶の作と確認されている。

阿弥陀如来立像(快慶作・安養寺)

(写真は 阿弥陀如来立像(快慶作・安養寺))


◇あ    し◇
黒田廬戸宮跡、黒田大塚古墳近鉄田原本線黒田駅下車すぐ。 
笹鉾山古墳近鉄橿原線石見駅下車徒歩5分。 
唐古・鍵遺跡近鉄橿原線石見駅下車徒歩20分。 
唐古・鍵考古学ミュージアム近鉄橿原線田原本駅下車徒歩20分。 
鏡作神社近鉄橿原線田原本駅下車徒歩15分。 
杵築神社近鉄橿原線田原本駅下車徒歩30分。 
八坂神社近鉄橿原線田原本駅下車徒歩25分。 
浄照寺、本誓寺近鉄橿原線田原本駅下車徒歩5分。 
安養寺近鉄橿原線田原本駅下車徒歩20分。 
◇問い合わせ先◇
田原本町役場07443−2−2901 
田原本町教育委員会・文化財保存課07443−2−4404 
唐古・鍵考古学ミュージアム07443−4−7100 
鏡作神社07443−2−2965 
浄照寺07443−2−2477 
安養寺07443−3−0753 

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