月〜金曜日 18時54分〜19時00分


姫路市・書写山円教寺 

 天台宗の書写山円教寺は「西の比叡山」とも呼ばれ、比叡山、大山と並ぶ天台宗の三大道場のひとつでもある。西国三十三カ所の観音霊場の札所として知られ、観音信仰の参拝者が絶えない。平安時代から天皇や皇族、貴族、武士、庶民らが心の救いを求めて、書写山の大自然の中にたたずむ円教寺を訪れていた。


 
西国三十三カ所第27番札所
・円教寺 
放送 7月4日(月)
 姫路市の北西部、標高371mの書写山は、奈良時代から山岳信仰の道場として修行僧らの修行の場となっていた。古くから聖なる山として里の人びとにも拝まれ、明治維新までは女人禁制の霊場だった。いつも山上で僧侶が教典を書写している姿を目にした山麓の人たちが、この山を書写山と呼ぶようになったとか。
 山上に大伽藍を構える円教寺は、平安時代中期の康保3年(966)比叡山や九州の霧島山などで修行を積んだ性空(しょうくう)上人が、57歳にしてさらなる修行を志して書写山に入り、山内の西ノ谷に草庵を結び普賢菩薩の画像を掲げ、修行一途の道に入ったのが始まりとなっている。

播州書寫山縁起

(写真は 播州書寫山縁起)

摩尼殿

 円教寺の中心的存在の摩尼殿は、崖の上に建てられた豪壮な懸造りの建物。摩尼とはどのような願いもかなう如意宝珠の意味。性空上人が入山して
4年目、天人が崖地の桜の木を盛んに拝む様子を見た。性空は、この生木はそれほどありがたい木なのかと思い、桜を切り倒さずに6本の腕を持つ六臂(ろっぴ)如意輪観音像を一心に刻み円教寺の本尊とした。根のある生木に彫られた本尊を安置する本堂は、この崖地に築く以外に方法がなかった。
 創建後の摩尼殿は何度か火災で焼失し、現在の建物は大正10年(1921)に焼失した後、昭和8年(1933)に再建されたものである。

(写真は 摩尼殿)

 円教寺はこの摩尼殿に祀られている六臂如意輪観音像を信仰する観音信仰の霊場・西国三十三カ所第27番札所として知られており、霊場巡りの巡礼者のお参りが続いている。だが、この観音像は秘仏で前立ち像もないので、巡礼者は観音さまを直に拝むことができない。
 しかし、ロープウェイ山上駅から仁王門までの参道脇に、西国三十三カ所各霊場の観音像33体が並んでおり、そこに摩尼殿の本尊の分身である六臂如意輪観音像が座しているので、信者たちはこの像を拝んで納得している。
 御詠歌は「はるばると のぼればしょしゃの やまおろし まつのひびきも みのりなるらん」。

釈迦三尊像

(写真は 釈迦三尊像)


 
書写山の仏たち  放送 7月5日(火)
 摩尼殿に安置されている本尊は、性空上人が桜のに刻んだと言う6本の腕を持つ六臂(ろっぴ)如意輪観音像。上人が生木に刻んだ六臂如意輪観音像は、延徳4年(1492)の摩尼殿の火災で焼失したが、上人が同じ桜の木に刻んでいた六臂如意輪観音像が無事に運び出され、現在、摩尼殿内の厨子の奥深くに秘仏として安置されている。厨子内は部屋が前後に分けられ、後ろに性空作の六臂如意輪観音像が、前に大正時代の如意輪観音像が安置され、ともに秘仏となっている。
 この本尊を守る四天王像(国・重文)は平安時代の作で桧の一木造り。かつては大講堂に安置されていたもので、いつしか摩尼殿に安置され如意輪観音像を守るようになった。大正時代の本尊如意輪観音と脇侍の四天王は、ともに秘仏で年に
1度、1月18日の修正会(鬼追い会式)の時にのみ開扉される。

秘仏 六臂如意輪観世音菩薩

(写真は 秘仏 六臂如意輪観世音菩薩)

増長天

 食堂(じきどう)の本尊・金剛薩捶(こんごうさった)座像は、密教の大日如来の化身として尊ばれる仏さまで、元は金剛堂の本尊だった。右手に煩悩を破壊する武器の五鈷杵(ごこしょ)、左手に五鈷鈴(ごこれい)を持ち、全身が金泥で彩色され、宝冠の見事な細工など装飾性の強い仏像である。
 大講堂の本尊・釈迦三尊像(国・重文)は、堂々たる体躯で衣紋の彫りも力強い中央の釈迦如来像が、右に普賢、左に文殊の両菩薩を従えている。永延元年(987)性空上人の弟子・感阿(かんな)の作と伝えられ、桧の一木造りで、平安時代前期の特徴をよく残すと同時に、表情、衣紋の彫りには平安時代後期への過渡期の作風が表れている。

(写真は 増長天)

 常行堂では定印を結びゆったりと座る丈六の本尊・阿弥陀如来像(国・重文)が迎えてくれる。性空上人の弟子・安鎮が平安時代の11世紀初めに制作した桧の一木造りで、張りのあるほほを持つ丸顔が特徴である。当初は往生院の本尊だったが、現在の常行堂が再建された室町時代の享徳2年(1453)ごろから常行堂の本尊として安置された。宇治の平等院の阿弥陀如来像より半世紀古く、単体で祀られている丈六阿弥陀如来像では日本最古のものとさてれる。
 このほか円教寺には仁王門の金剛力士像、薬師堂の薬師如来座像のほか地蔵菩薩像、大日如来座像、普賢菩薩像など多くの仏像が祀られている。

阿弥陀如来坐像

(写真は 阿弥陀如来坐像)


 
壮大なる伽藍群  放送 7月6日(水)
 書写山円教寺は比叡山、大山と並ぶ天台宗三大道場のひとつで、静寂な大自然の中に壮大な伽藍(がらん)がたたずんでいる。
 崖の上に建つ懸造りの摩尼殿の創建は天禄元年(970)だが、幾度か火災に遭い、大正10年   
 (1921)の火災で焼失したあと、昭和8年 
 (1933)の再建されたのが現在の摩尼殿。昭和の建造物とは思えない重厚さをたたえている。摩尼とは梵語でどんな願いもかなう如意宝珠の意味。摩尼殿は観音霊場・円教寺の顔でもあり、信者たちは「観音堂」と呼び親しんでいる。

食堂

(写真は 食堂)

大講堂

 摩尼殿から西へ杉木立の中の道を抜けて行くと大講堂、食堂(じきどう)、常行堂(いずれも国・重文)が、白州を囲んでコの字型に向き合う「三つの堂」に出る。これらの建物は鎌倉時代末の元徳3年(1331)の落雷で焼失後、室町時代に再建された。
 中央の食堂は僧侶の学問、寝食の場であり、承安4年(1174)後白河法皇の勅願で創建された。長堂の別名があるように、横に40mもある2階建ての並外れた長大な建物だったので、一部が未完成のままだった。昭和34年(1959)からの解体修理のとき、再建以来500年ぶりに未完部分が完成した。

(写真は 大講堂)

 森を背にした大講堂は、花山法皇の勅願によって寛和2年(986)に創建された円教寺の本堂に当たる建物で、この時に円教寺の寺名を法皇から賜った。お経の講義や論議が行われる僧侶の学問と修行の場で、天空にせり上がる二層屋根の甍(いらか)が美しい。
 常行堂の創建は不明だが、僧侶がひたすら阿弥陀仏の御名を唱えながら本尊の周りを回って修行をする常行三昧(じょうぎょうざんまい)の道場。唐破風と切妻の屋根の組み合わせが独特の趣を見せ、向かい側の大講堂の釈迦三尊像に舞楽を奉納する舞台が設けられている。

常行堂

(写真は 常行堂)


 
奥の院  放送 7月7日(木)
 「三つの堂」から西へ道を下って行くと円教寺で最も神聖なお堂である開山堂が建つ奥の院へいたる。開山の性空上人が寛弘4年(1007)98歳で大往生を遂げた後、弟子の延照が開山堂を創建、以来1000年、灯明が燃え続け、朝夕の勤行が行われている。
 開山堂の四方の軒下には屋根の重みを全身で支える形の力士像がある。その必死の形相と力感あふれる全身の筋肉がリアルな力士像が、左甚五郎作と言われても素直にうなずける。だが、西北隅の一カ所にはこの力士像がない。屋根の重さに耐えかねて逃げてしまったという伝説がある。

力士像(左甚五郎作)

(写真は 力士像(左甚五郎作))

開山堂

 現在の開山堂は寛文11年(1671)に再建されたもので、屋根は宝形造りで、内部は内陣と外陣に区分され、内陣には上人の真骨を納めた木像が祀られている。この上人像は、長保4年(1002)花山法皇が93歳の上人を訪ねた時にスケッチしたものを、京都の絵師が画像に描き直し、この画像を元に鎌倉時代に仏師・慶快が制作したと言われている。
 その像の前に祀られている痛みの激しい上人像は、平成10年(1998)塔頭・仙岳院の土蔵から白布に巻かれた像が見つかり、調査の結果、性空上人像と確認されたもので、制作は平安時代末期を下らないものと見られている。

(写真は 開山堂)

 性空上人は円融上皇に入洛を求められても応じず、一条天皇の中宮・彰子が和泉式部をともなって訪れた時も居留守を使って会わなかった。このように権勢や栄華を誇る人びととの交わりを避け、栄達とは距離を置き、晩年は書写山の北方の草深い里に草庵(後の弥勒寺)を建てて隠棲、静かな日々を送ったつつましい人柄の僧だった。上人はこの草庵で98歳で入寂した。
 開山堂の前にある二つの小さな神社は、性空上人が九州で修行していたとき以来、上人に終生仕え、守ってきた乙天(不動明王)と若天(毘沙門天)の二人の童子を祀った鎮守社である。

性空上人像

(写真は 性空上人像)


 
塔頭・寿量院  放送 7月8日(金)
 円教寺には寿量院、仙岳院、十妙院、瑞光院、十地院、妙光院の六つの塔頭がある。最も多い時には30余の院、坊が建ち並び観音講や西国三十三カ所巡礼者たちの宿望も兼ねていた。現在残っている塔頭のひとつ、寿量院は承安4年(1174)平清盛との対立を募らせていた後白河法皇が、観音菩薩の加護を願って7日間参籠したことで知られている。
 寿量院は元は中院坊と呼ばれていた。現在の建物は貞享5年(1688)の再建で、中世の寝殿造りの格式を伝える貴重なもので、国の重要文化財に指定されている。

寿量院

(写真は 寿量院)

精進本膳料理

 仏間を中心とした書院造り風の建物と台所のある庫裏、それらをつなぐ唐破風の玄関から成る古い形式の残る建物の寿量院で、4月から11月までの間、予約しておけば精進本膳料理がいただけるのがうれしい。
 この精進料理は古文書の「円教寺行事記」に記されている、円教寺で年に1回行われていた勧学会(かんがくえ)の際に出される料理の献立を、現代風にアレンジして調理したものである。料理の献立もさることながら、盛りつけの器が、幻の塗器と言われる朱が鮮やかな書写塗である。こうした素晴らしい器に盛られた伝統の精進料理を、霊山の静寂の中で味わう至福のひと時を過ごしてみてはいかが。

(写真は 精進本膳料理)

 豊臣秀吉の根来寺焼き討ちで追われた根来塗の職人が全国各地に散らばった。
その中に書写山に移り住んで伝統の技を守った職人がいた。これらの根来塗の職人が作った器が書写塗の起こりで、初期の書写塗は根来塗と変わらない。食器の裏には円教寺の塔頭寺院の符号が記されいるので書写塗とわかり、江戸時代末期ごろまで製作されていた。
 「円教寺行事記」は明治維新の排仏毀釈で円教寺も壊滅的打撃を受け、その後、復興した時に寺の行事が簡素化しつつあったのを憂いた円教寺の僧が、明治28年(1895)に江戸時代末までの円教寺の全行事を詳細に記録して残したものである。

当麻曼茶羅

(写真は 当麻曼茶羅)


◇あ    し◇
書写山円教寺JR山陽線、山陽電鉄姫路駅から書写山ロープウェイ行バスの終点で
下車、ロープウェイで山上駅へ。山上駅から徒歩15分。
 
◇問い合わせ先◇
書写山円教寺0792−66−3327 
寿量院0792−66−3553 
姫路観光協会0792−87−3656 

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