月〜金曜日 18時54分〜19時00分


宮津市 

 日本三景のひとつ、天橋立がある宮津市は城下町、港町として栄え、江戸時代には北前船の寄港地となり、丹後地方の物資の集散地となっていた。今も町並みに昔のたたずまいと繁栄ぶりを残す宮津の町を訪ねた。


 
日本三景・天橋立  放送 8月1日(月)
 松島、宮島と並ぶ日本三景のひとつ天橋立は、宮津湾を外海と内海の阿蘇海に区切って伸びる全長3.6km、約8000本のクロマツの緑におおわれた細長い砂洲である。砂洲は幅の広い所で170m、狭い所はわずか20mしかない。
 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が天界に架けた梯子が、寝ている間に倒れたのが天橋立と言う壮大な伝説がある。実際は丹後半島を回って南へ流れる対馬海流と宮津湾に流れ込む野田川の流れが運んできた砂礫が、数千年もの間に堆積してできた砂洲である。

天橋立

(写真は 天橋立)

股のぞき

 天橋立の眺めは南側の文殊山の天橋立ビューランドからは、飛龍観と呼ばれ龍が天に昇るような男性的な眺め。北側の成相山の傘松公園からは、斜めにすらりと伸びる女性的な眺め。いずれも天地逆転の「股のぞき」の絶景が楽しめる。西側の大内峠からは真っすぐ横一文字の天橋立一字観、東の栗田峠からは橋立観、獅子崎の天橋立展望台からは雪舟観と、四方それぞれ趣の異なった天橋立の景観が楽しめる。
 奈良時代の丹後国風土記に「天椅立(あまのはしだて)」と記されて初めて文書に登場する。平安時代には歌枕として使われ、和泉式部らが天橋立の磯清水を詠んだ歌が有名だ。

(写真は 股のぞき)

 この見事な景観の天橋立が画題にならないはずがない。室町時代の画僧・雪舟が描いた「天橋立図」(国宝)は、天橋立の東側の栗田半島方面から描いたもので、絵の中に智恩寺などの名刹が描かれている。江戸時代に入ると歌川広重が南から見上げるように描き、丸山応挙派の画家・島田雅喬が北側の成相山方向から見下ろす景色を写実的に描いている。
 天橋立には名所が多い。岩見重太郎仇討ちの場、周りが海の砂洲なのにこんこんと清水が湧き出て、日本名水百選のひとつの磯清水などがある。阿蘇海に臨むホテルや旅館の露天風呂の湯につかり、ゆったりと眺める天橋立は大尽気分で格別。

磯清水

(写真は 磯清水)


 
智恩寺 放送 8月2日(火)
 天橋立の南端に接する智恩寺は「智恵の文殊さん」として人びとに親しまれており、天橋立をその境内地としている。本堂の文殊堂に安置されている本尊・文殊菩薩座像(国・重文)は、奈良県桜井市の「安倍の文殊」、山形県高畠町の「亀岡の文殊」とともに日本三大文殊とのひとつ。
 神話時代に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二神が、この地に住んでいた暴れ龍を鎮めるため、中国の五台山から文殊菩薩を迎えたと言う伝説が始まりと伝えられている。平安時代初めの大同3年(808)霊夢によって天橋立へ行幸した平城天皇が今の寺を創建したとされている。

山門(黄金閣)

(写真は 山門(黄金閣))

文殊堂

 「黄金閣」の扁額があがる禅宗様式の重層の山門は、江戸時代中期の明和4年(1767)の再建で、楼上には釈迦如来像、十六羅漢像が安置されている。再建に際し後桜町天皇から黄金を賜ったので「黄金閣」と称するようになった。
 山門をくぐると左手に建立当時の500年前の姿のままの多宝塔(国・重文)が建つ。丹後国守護代で府中城主・延永(のぶなが)修理進春信が病気平癒に感謝して建立したももで、室町時代のものとして丹後地方のこる唯一の建造物である。本堂・文殊堂の正面に掲げられている「五臺山」の額は隠元禅師の筆によるものとされ、内陣正面の「智恩寺」の額は醍醐天皇から下賜された寺号額である。

(写真は 文殊堂)

 文殊堂内には多くの絵馬が奉納されている。この中には江戸時代にわが国で発達した和算の難問を図解した算額や酒造りの工程を連続して描いたものなど、珍しい絵馬が掲げられている。
 海岸べりに建つ石造の「智恵の輪」は観光ポイントのひとつだが、もともとは航海安全のための輪灯籠だった。この智恵の輪を3度くぐると文珠さまの智恵を授かると言われ、受験シーズンになると合格祈願の受験生たちでにぎわう。この輪灯籠がいつごろからなぜ、智恵の輪と言われるようになったかは定かでない。文殊菩薩を祀る智恩寺境内にあったことから文殊菩薩の智恵を授かろうとする人たちが、智恵の輪と呼ぶようになったのであろう。

智恵の餅(吉野茶屋)

(写真は 智恵の餅(吉野茶屋))


 
成相寺への道  放送 8月3日(水)
 天橋立の南側、智恩寺そばの文殊地区の観光船乗り場から観光船に乗船、天橋立を右に見ながら10分余りの海上の旅を楽しむと北側対岸の府中地区の一の宮観光船乗り場に着く。船着場のすぐ北に鎮座するのが丹後国一の宮の籠(この)神社。
 神代の時代にこの地に豊受大神を祀り、崇神天皇の時代に大和国笠縫邑から天照大神が遷して祀っていた。その後、両大神が伊勢神宮に祀られたことから、元伊勢と称されるようになり、主祭神に彦火明命(ひこほあかりのみこと)を祀り社名を籠神社と改めた丹後随一の古社である。

元伊勢籠神社

(写真は 元伊勢籠神社)

ケーブル

 元伊勢と呼ばれる籠神社の社殿の様式は伊勢神宮と同じ神明造りで、高欄の赤、白、青、黄、黒の五色の座玉(すえたま)の飾りも伊勢神宮と籠神社にだけ許されている高い格式を表すものである。
 籠神社の宮司は丹波国造(たんばのくにのみやつこ)としての伝統を持つ海部氏で、現在の宮司・海部光彦氏は82代目に当たる。海部氏の系図は現存する日本最古の系図であり、丹波国造の推移や古代の豪族の変遷を知る貴重な資料として国宝に指定されている。このほか石造狛犬、木造扁額、経塚出土の銅製経筒(いずれも国・重文)など、古社らしい社宝が多い。

(写真は ケーブル)

 籠神社の境内を通り抜け、ケーブルカーで山の中腹まで登ると天橋立見物の名所・傘松公園に出る。笠松公園から眺める天橋立は女性的な趣を見せており、特にここからの「股のぞき」は天橋立が天地逆に見える天下の絶景と言われている。
 ここからさらに急カーブの坂道をヒヤヒヤしながら登山バスに揺られて、ようやく西国三十三カ所第28番札所の成相寺の山門前のバス停に着く。参道の右に「撞かずの鐘」の鐘楼、左に五重塔を見ながら長い石段の参道を登り詰めると秘仏の本尊・聖観世音菩薩像のおわす本堂にたどり着く。

成相寺

(写真は 成相寺)


 
西国三十三カ所第28番札所
・成相寺 
放送 8月4日(木)
 姫路市の西国三十三カ所第27番札所・円教寺が最西の霊場なら、第28番札所・成相山成相寺は最北の霊場である。歩く以外に交通手段がなかった時代の巡礼者は、播州・姫路から丹後・宮津まで、約150kmの距離を一歩一歩と足を運び、観音様の慈悲の心にすがろうとしたのであろう。
 成相寺の御詠歌に「なみのおと まつのひびきも なりあいの かぜふきわたす あまのはしだて」と詠まれているように、天橋立を眼下にした三十三カ所中屈指の風光明媚なお寺である。播州・姫路の円教寺から険しい山道を歩いてきた巡礼者たちにとって、絵のような天橋立の風景を目にした時の感慨が想像できる。

復元五重塔

(写真は 復元五重塔)

本堂

 成相寺は慶雲元年(704)真応上人が、ここに庵を結び聖観世音菩薩像を安置したのが始まりとされ、今年が開創1300年。同時に今年は秘仏であるこの本尊・聖観世音菩薩像の33年に一度の御開帳の年に当たり、11月12日まで本尊を拝観することができる。
 御開帳期間中は観音像の指に巻かれた五色の紐が、本堂前の卒塔婆にくくりつけられた五色の布につながっており、誰もがこの布を握りしめると、紐を通して観音様と握手できるようになっている。御開帳にあわせてお参りした人たちは、五色の布を通じて本尊と握手しながら祈り、本尊を拝んで満足気に寺を後にしていた。

(写真は 本堂)

 昔、一人の僧が雪深い寺で修行していたが、里との往来が途絶え食糧がなくなり餓死寸前になった。僧は「きょう一日の食べ物をお恵みください」と本尊の観音様に祈った。そうすると外に傷ついたイノシシが倒れており、修行僧は肉食の禁戒を破ってイノシシの腿肉を煮て食べた。雪解け後に訪れた里人が本尊を見ると左右の腿がそぎ取られ、鍋の中に木屑があった。僧が木屑を観音像の腿につけると元通りなったとの伝えがあり、本尊の聖観世音菩薩像を身代わり観音とも呼ぶ。
 鐘を鋳造していた最中に、溶かした銅湯の中へ母親が子供を誤って落として死なせた。完成した鐘を撞いたところ、鐘の音とともに幼児の鳴き声が聞こえたので、子供の成仏を願ってこの鐘を撞くことをやめたので「撞かずの鐘」と言われるようになったという伝説がある。

本尊 聖観世音菩薩

(写真は 本尊 聖観世音菩薩)


 
城下町の残像  放送 8月5日(金)
 宮津の町は天正8年(1580)織田信長から丹後国を与えられた細川藤孝が宮津城を築き、その後、細川氏に代わって城主となった京極氏が城下を整え、山陰随一の城下町となった。以後、宮津は丹後の政治、経済の中心となる城下町、港町として非常なにぎわいを見せた。
 江戸時代中期以降は北前船の中継地となり、丹後ちりめんなどの積み出し港として繁栄した。宮津の繁栄ぶりを唄った民謡に「縞の財布が空になる」とある。今は宮津城跡を示すものはほとんどないが、市内には情緒ある町並みに白壁、千本格子などの商家が点在し、往時の繁栄ぶりをしのばせてくれる。

万町の町並み模型

(写真は 万町の町並み模型)

袋屋醤油店

 こうした宮津の町の変遷をたどれるのが宮津市歴史資料館。古代から近代までを資料や模型を使って展示している。宮津が最もにぎわった江戸時代の町並みを再現した模型に、現在、残っている町家を重ね合わせると、当時の情景が浮かんでくる。
 古い町家が残る通りにある袋屋は江戸時代から続く醤油店。300年ほど前の江戸時代中期の享保年間(1716〜36)ごろが最も繁盛したと言われ、今も商いは健在だ。江戸時代から続いている銘柄の「あしぎぬ」の伝統の味の醤油を製造しており、白壁の商家で醸造、ビン詰め作業が行われている。あしぎぬとは、奈良時代の絹織物の名称で、税のひとつとして納められていた。

(写真は 袋屋醤油店)

 一般公開されている白壁が印象的な旧三上家住宅(国・重文)は、酒造業、廻船業、糸問屋などを手広く営んでいた宮津屈指の豪商の屋敷。酒造施設などがよく残っており、庭園とこれを望む庭座敷のたたずまいなどは、豪商の屋敷にふさわしい見事なものである。
 江戸時代中期の天明3年(1783)の町内の大火で住宅を消失した教訓を生かし、外側の柱まで白壁で塗り込んだ土蔵のような耐火構造の建物である。土間に立つと豪壮な太い梁や柱が見え、酒米を蒸した大釜や麹室が残っている。江戸時代には幕府巡検使の本陣となったり、幕末には山陰道鎮撫使の西園寺公望の宿舎にも当てられた。昭和時代初めには当主が宮津町長を務めるなど、宮津の政財界で中枢にあった。

旧三上家住宅

(写真は 旧三上家住宅)


◇あ    し◇
天橋立北近畿タンゴ鉄道天橋立駅下車徒歩5分。 
宮津市歴史資料館北近畿タンゴ鉄道宮津駅下車徒歩10分。 
天橋立温泉(天橋立ホテル)北近畿タンゴ鉄道天橋立駅下車すぐ。 
智恩寺北近畿タンゴ鉄道天橋立駅下車徒歩3分。 
丹後一宮・籠神社北近畿タンゴ鉄道天橋立駅からバスで籠神社前下車。
北近畿タンゴ鉄道天橋立駅下車、観光船乗り場で観光船に乗り換え一の宮観光船乗り場で下船徒歩3分。
成相寺北近畿タンゴ鉄道天橋立駅下車、観光船乗り場で観光船に乗り換え一の宮観光船乗り場で下船、ケーブルカーに乗り換え傘松駅下車、さらに登山バスに乗り換え成相寺下車。
北近畿タンゴ鉄道天橋立駅からバスで籠神社前下車、ケーブルカーに乗り換え傘松駅下車、さらに登山バスに乗り換え成相寺下車。
袋屋醤油店、旧三上家住宅北近畿タンゴ鉄道宮津駅下車徒歩15分。 
◇問い合わせ先◇
天橋立観光協会0772−22−0670 
丹後観光情報センター0772−22−8030 
宮津市歴史資料館0772−22−8686 
天橋立温泉(天橋立ホテル)0772−22−4111 
智恩寺0772−22−2553 
丹後海陸交通
(観光船、ケーブル、バス)
0772−42−0323
丹後一の宮・籠神社0772−27−0006 
成相寺0772−27−0018 
袋屋醤油店0772−22−2068 
旧三上家住宅0772−22−7529 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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