月〜金曜日 18時54分〜19時00分


近江八幡市 

 近江商人発祥の町、水郷の町として知られているのが近江八幡市。市内には旧跡、古社寺も多く、近江商人の豪邸が残る通りでは往時の繁栄ぶりがうかがえる。
豊臣秀次が掘った八幡堀や西の湖を和船で巡る水郷巡りなど、変化に富んだ観光スポットが多い。


 
八幡堀と近江商人  放送 8月8日(月)
 八幡堀は近江八幡市を代表する風景。天正13年(1585)近江国の領主となった豊臣秀吉の姉の子・秀次は、八幡山に八幡城を築き織田信長没後の安土城下の住民を移住させ、楽市楽座を継承して商業中心の城下町を形成した。同時に城の防備と物資を積んで琵琶湖を往来する船を城下に寄港させるため、琵琶湖に通じる全長約6kmの八幡堀を掘削し、商いの町として発展させた。
 秀次没後に八幡城は廃城になったが、秀次が築いた八幡堀は流通路として残って町の発展の原動力となり、これが後の近江商人の繁栄を生むきっかけになった。近江八幡の人たちは秀次を開町の祖として親しんでおり、八幡公園に秀次の銅像が立っている。

八幡掘

(写真は 八幡掘)

安南渡海船額

 近江商人の中でも八幡商人は、最も早くから天秤棒を肩に全国を股にかけて活躍し、北海道での漁場開拓、さらに安南(ベトナム)、シャム(タイ)など、外国へも商売を広げていった。江戸時代の鎖国令で帰国することができず、異国の地で没した八幡商人もいた。同時は発展途上だった江戸にもいち早く店を出して商圏を広げた。
 八幡商人の商いの基本は「買い手良し、売り手良し、世間良し」と言う「三方良し」の理念で、決して自らの利益のみ追求することなく、社会事業にも大きく寄与し、明治時代以降の日本経済の発展にも八幡商人は大きな力を発揮した。こうした人の道に外れない倫理、道徳観に基づいた商人道が、八幡商人の無形の財産として残されている。

(写真は 安南渡海船額)

 国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている新町通りには八幡商人として活躍した豪商の邸宅が多く残っている。蚊帳(かや)や畳表などを商っていた旧西川家住宅は、国の重要文化財に指定されており、昭和57年(1982)近江八幡市に住宅が寄贈され、市立資料館として一般公開されている。
 八幡堀も陸上交通の発達でその機能を失い、埋め立てて駐車場にする計画が持ちあがった。近江八幡青年会議所のメンバーらが「埋め立てた瞬間から後悔が始まる」と、八幡堀のしゅんせつと清掃に取り組んで埋め立てを食い止めた。今は堀沿いに遊歩道も整備され、季節の花が水面に映える水郷の町・近江八幡の観光スポットとなっている。

近江八幡私立資料館・旧西川家住宅

(写真は 近江八幡私立資料館・旧西川家住宅)


 
西国三十三カ所第31番札所
・長命寺 
放送 8月9日(火)
 近江八幡市域の北西端の長命寺山の南腹、海抜250m付近にあるのが西国三十三カ所第31番札所の霊場・姨綺耶山(いきやさん)長命寺。琵琶湖の湖岸から808段の長い石段を登り詰めると、本堂、三重塔、護摩堂をはじめ堂々たる諸堂伽藍(がらん)が美しく甍(いらか)を連ねている。現在はマイクロバス、乗用車なら通行できる道路がつけられ、本坊すぐ下まで車でのぼれ、お年寄りや体の不自由な人たちの参詣が楽になった。
 境内からは眼下に広がる琵琶湖や近江八幡市の市街地を望む眺望が楽しめ、長い石段を登ってきた苦労が報われた気分になる。

三重塔

(写真は 三重塔)

本堂

 長命寺の起こりは記紀時代の景行天皇20年、大臣の武内宿禰が長命寺山に登り、長寿を祈って柳の巨木に「寿命長遠諸願成就」と記しことに始まるという。武内宿禰はこの祈願の霊験で300歳以上の長寿を保ち、6代の天皇に仕えたと伝えられている。
 飛鳥時代の推古天皇の時代に聖徳太子が長命寺山を訪れた際、太子が柳の巨木の文字の前に立つと白髪の翁が現れ「この霊木で千手十一面聖観音三尊を彫り、伽藍を建立すれば諸国万民が等しく崇敬する寺になるであろう」と告げた。聖徳太子は早速、観音像を刻み伽藍を建立して武内宿禰の長寿祈願に因み「長命寺」と名つけたのが、長命寺の開基であると伝えられている。

(写真は 本堂)

 長命寺はその後、天智天皇の勅願所となるなど朝廷や武家の崇敬が篤く栄えていたが、戦国時代の永正13年(1516)兵火で堂塔伽藍はことごとく焼失した。
現在の堂塔は、豊臣秀吉や徳川家康らの援助もあり大永年間から慶長年間(1521〜1615)にかけて再建されたもの。本堂をはじめ三重塔、鐘楼、護摩堂などが国の重要文化財に指定されている。江戸時代からは西国三十三カ所の霊場として参拝者が増え、今もそのにぎわいは続いている。
 本堂に安置されている秘仏の本尊は、千手十一面聖観音三尊一体像(国・重文)で、誰しもが望む健康長寿、無病息災と言う願望をかなえてくださる観音さまとして参拝者の篤い信仰を集めている。
 御詠歌にも「やちとせや やなぎにながき いのちでら はこぶあゆみの かざしなるらん」と詠まれている。

千手十一面聖観世音菩薩(お前立ち)

(写真は 千手十一面聖観世音菩薩(お前立ち))


 
伊崎の竿飛び  放送 8月10日(水)
 毎年8月の第一日曜日に行われる「伊崎の竿飛び」は、湖国に盛夏の到来を告げる年中行事である。近江八幡市の北東部、琵琶湖に面した崖の上に建つ伊崎寺は、平安時代初期の貞観年間(859〜877)の開基と伝わる延暦寺の末寺で修行道場でもあった。
 比叡山の回峰行の創始者である相応和尚が入山して寺を再興、不動明王像を本尊として祀った。境内の本堂、護摩堂、庫裏は江戸時代に再建されたものである。

伊崎寺

(写真は 伊崎寺)

竿飛堂

 現在は陸続きとなっているが、昔は湖に浮かぶ島で、舟で参拝する信者を迎えるため、山門は琵琶湖に面して建っている。「竿飛び」は修行中の僧が、眼下に広がる琵琶湖に空鉢を投げ、湖上を船で行き交う漁民たちや湖上航行者らに喜捨(きしゃ)を乞い、そのあと自ら湖中に飛びこんで空鉢を拾いあげたと言う故事に基づくと言われている。
 これが天台宗の僧や信者が、湖へ飛び込む「捨身」の修行として形を変え「竿飛び」として残り、現代になって厄除祈願、度胸試しの湖国の行事として定着した。

(写真は 竿飛堂)

 毎年、午前10時から本堂で式典が行われた後、断崖絶壁上の竿飛び堂から湖上へ突き出た長さ13mの太い角材の端から、赤ふんどし姿の若者らが次々に豪快にダイビングしたり、竿先についている鉄の環に足をかけてぶら下がった状態から、7m下の湖面に飛び降りたりする。
 だが、高所のため体の震えが竿に伝わり、竿の先端までたどりつけずに途中で落ちる人もいると言う。湖国の若者たちにとってこの「竿飛び」は、成人への通過儀礼の儀式的な意味もあるとされている。

竿

(写真は 竿)


 
琵琶湖最大の島・沖島  放送 8月11日(木)
 近江八幡市の北東、宮ケ浜の沖合2kmに浮かぶ沖島は、琵琶湖では最大の島。
周囲は約6.8km、面積は約1.5平方kmで、約500人が住んでいるが、淡水湖の島に人が生活する例は世界でもデンマークとスコットランドなどわずかにあるくらいで非常に珍しいそうだ。
 縄文時代の遺跡もあり、そのころに人が住んでいたことがうかがわれる。本格的に沖島に人が住むようになったのは、平安時代末期の保元・平治の乱で敗れた源氏の落武者7人が沖島に逃れ、島を開拓して住みついたのが始まりで、逃れてきた7人の武士の姓が島内には多い。

沖島

(写真は 沖島)

湖魚佃煮(山甚水産)

 沖島に逃れた源氏の武士たちは、山を切り開いたわずかな畑を耕し、自給用の魚を捕る程度の漁業で生活をしていた。織田信長は沖島を湖上の水運と水軍の戦略的拠点とし、浅井長政との戦いでは島民に船を差し出させた。この戦いで活躍した功績で、島民に琵琶湖を漁場とする権利を与えられた。以後、江戸時代になっても琵琶湖の航路の警備、湖上輸送などの任務を務められ見返りに漁業権の特権が認められていた。
 今も島民のほとんどが漁業に携わっていてモロコ、フナ、アユ、ワカサギなど多様な魚が水揚げされ、その新鮮な湖魚を時間をかけて煮込んだ佃煮、甘露煮は沖島の名産品となっている。

(写真は 湖魚佃煮(山甚水産))

 大正天皇と昭和天皇の2度にわたる御大典の大嘗祭(だいじょうさい)に、琵琶湖産ヒガイの蒸し焼きが供物として献上され、沖島の特産品として一躍有名になり需要が増えた。そして琵琶湖の珍味として日本三大臭物のひとつとされる独特の風味がグルメをとりこにすると言う鮒ずしは落とせない。
 沖島では漁業のほかに、島を形成している石英斑岩を良質な石材として切り出していた。明治時代には当時の国鉄東海道線の鉄道工事、琵琶湖疏水、南郷洗堰などの建設工事などに沖島の石材が活用され、島は活気にあふれ島の経済に貢献した。
昭和40年(1965)ごろの高度経済成長時代には、コンクリートが多用されるようになり石材の需要は急激に減り、沖島の採石場は昭和45年(1970)に廃山になった。

おきしま資料館

(写真は おきしま資料館)


 
伝説の島・沖島  放送 8月12日(金)
 沖島には縄文時代の遺跡もあり、和同開珎なども出土していることから、古代より人が住みついたり、島への往来があったことがうかがわれる。和銅年間(708〜715)に藤原不比等が奥津島神社を建立した当時は、琵琶湖を行き交う船と人を守る神の島として崇拝される島だったと言う。
 平安時代末期の保元・平治の乱に敗れた源氏の落武者7人が沖島に逃れて来て以来、島で本格的に人が暮らすようになった。西福寺は落武者のひとりの茶谷氏の子孫・茶谷重右衛門が蓮如上人に帰依して、庵を建てたのを始まりとする浄土真宗の寺で、住職は代々茶谷氏が務めている。

沖津嶋神社

(写真は 沖津嶋神社)

虎斑之御名号御絵伝

 西福寺には本願寺第8世門主・蓮如上人真筆の「南無阿弥陀仏」の虎斑(とらふ)の名号が伝わっている。室町時代の文明年間(1469〜87)初期に、越前国の吉崎御坊から琵琶湖の西・堅田の本福寺へ向かう途中の蓮如上人が、湖上で南風に見舞われやむなく沖島へ一時難を逃れたことがある。
 この時、茶谷重右衛門は出産後に死亡した妻が、子供恋しさに幽霊となってい現れると上人に告げた。上人は茶谷の妻の霊を救うため、筵(むしろ)の上で「南無阿弥陀仏」の名号を書いた。でこぼこの筵の上に置いた紙に書いたので、文字に墨の濃淡が現れ「虎斑の名号」と呼ばれるようになった。

(写真は 虎斑之御名号御絵伝)

 西福寺には、この幽霊済度の「虎斑の名号」の由来を描いた絵伝が伝わっている。また、蓮如上人が島を去る時に茶谷重右衛門に残した正信偈(しょうしんげ)四句の御文などが、名号などとともに寺宝として安置されており、境内には蓮如上人の石像も建っている。
 室町幕府8代将軍・足利義政の正妻・日野富子の殺害を企てたとして、沖島に流罪になった義政の側室・今参局(いままいりのつぼね)が、刺客によってこの島で非業の死をとげた悲話は、大佛次郎の小説「桜子」で広く知られるようになった。

蓮如上人真筆「虎斑の名号」

(写真は 蓮如上人真筆「虎斑の名号」)


◇あ    し◇
八幡城跡JR東海道線近江八幡駅からバスで八幡ロープウェイ前
下車、ロープウェイでで八幡山へ。
八幡堀JR東海道線近江八幡駅下車徒歩30分。
JR東海道線近江八幡駅からバスで大杉町八幡山
下車すぐ。
旧西川家住宅JR東海道線近江八幡駅下車徒歩25分。
JR東海道線近江八幡駅からバスで小幡町資料館前
下車すぐ。
長命寺JR東海道線近江八幡駅からバスで長命寺下車徒歩20分。
伊崎寺JR東海道線近江八幡駅からバスで堀切港下車徒歩40分。
おきしま資料館(沖島漁協)、
西福寺
JR東海道線近江八幡駅からバスで堀切港下車、
堀切港から通船で沖島漁港へ。沖島漁港からすぐ。
※JR東海道線近江八幡駅からレンタサイクルを利用すれば、効率よく市内の観光スポットを回ることができる。
◇問い合わせ先◇
近江八幡市役所商工観光課0748−36−5517 
近江八幡観光物産協会0748−32−7003 
近江八幡市立資料館
(旧西川家)
0748−32−7048 
長命寺0748−33−0031 
伊崎寺0748−32−7828 
おきしま資料館(沖島漁協)0748−33−9511 
西福寺0748−33−9522 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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