月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京の夏 

 京の夏は祇園祭に始まり、五山の送り火で夏の盛りは終わる。その間、盆地特有の暑い京の夏をそれぞれに楽しむ人たちが多い。鴨川の川床で川風に吹かれてビールを楽しんだり、京の夏の味覚・ハモ料理で体力をつけるなど、それぞれが好みに合わせてチョイスしている。


 
吉田山の茶苑  放送 8月15日(月)
 京都市左京区の京都大学の東側にある標高103mの吉田山。中腹には吉田神社が鎮座している。旧制京都帝国大学の予科・第三高等学校(三高)の寮歌のひとつ「紅もゆる」で「紅もゆる岡の花 早緑匂ふ岸の色 都の花に嘯(うそ)けば 月こそかかれ吉田山」と明治時代から三高生らによって歌われてきた山である。
 京都市内には高い山がないので、吉田山は京都市街地を見渡すには絶好の展望スポットとなっている。暑い夏には、夕涼みがてらの市民らが京都市街地の夜景を楽しんでいる。吉田山東側の登り口から中腹にかけて、石段の道に沿って大正時代に建てられた家々が連なり、市街地の喧騒から隔絶されたような非日常的な雰囲気が漂っている。

吉田山中腹の町並み

(写真は 吉田山中腹の町並み)

茂庵

 この非日常的な空間地帯を過ぎ、さらに上方の深い緑に覆われている地域に、茶会を催すための茶苑の一部が残っている。京都・大原生まれの実業家で近代を代表する数寄者でもある谷川茂次郎
(1864〜1940)が、大正時代末に作り上げた。
 その敷地内にかつては8軒の茶室があったが、今は茂庵、静閑亭、田舎席の3軒が残っている。茂次郎の号をその名とした「茂庵」は木造2階建ての質素な建物で、緑の樹林の中に溶け込み、茶苑独特の幽玄なたたずまいを見せている。1階は土間になっており、閉鎖的なレイアウトでショップと厨房がある。2階は一転して開放的な空間で、カフェとして訪れる人びとにくつろぎの場を提供している。窓からは東山や京都市街地が望める。

(写真は 茂庵)

 「田舎席」の月見台からは五山の送り火の東山の「大」の字や如意ヶ岳の姿が席から望める。「静閑亭」と「田舎席」では毎月、気軽に茶席が楽しめる月釜を催している。茂庵の月釜は、お茶室の公開も兼ね、気軽にお茶が親しめる場にしようとしている。茂庵では「予約の必要もなく、マナーの心配は無用で、普段着で気軽に喫茶店へでも行くよう気でどうぞ」と言っている。
 谷川茂次郎は大阪で新聞用紙を扱う運輸会社(現谷川運輸倉庫会社)を興し、新聞業界の発展と共に大きく成長した。王子製紙の藤原銀次郎社長に人間形成のため茶の湯を勧められ、裏千家に入門、裏千家・今日庵の老分(長老)に遇されるほどになった。

茶室「田舎庵」

(写真は 茶室「田舎庵」)


 
京都御苑・拾翠亭  放送 8月16日(火)
 京都御苑の一番南、堺町御門西側の九条家屋敷跡にある二層の数寄屋風書院造・拾翠亭(しゅうすいてい)は、200余年前の江戸時代後期の寛政年間(1789〜1801)に屋敷内の庭園に建てられた茶室。九条家は近衛、二条、一条、鷹司と共に五摂家のひとつで、摂関家にふさわしい茶室と言える。東京遷都に伴って現在の京都御苑に建ち並んでいた公家屋敷は、明治時代初めにほとんど取り壊されており、九条家跡地にはこの拾翠亭と庭園、厳島神社だけが残っている。
 一階は十畳の広間と七畳半の控えの間、広間の北側に三畳の小間が隣接し、広間と小間の二つの茶室を行き来して茶を楽しんだ当時の貴族の慣わしがうかがい知れる。

旧九条家茶室 拾翠亭

(写真は 旧九条家茶室 拾翠亭)

厳島神社

 二階の周囲には縁高欄と言われる手すりが施され、書院風造り部屋から見る庭園の眺めは秀逸である。現在は庭の木が生い茂るようになり、東山の借景は望むことができなくなった。拾翠亭内の茶室のにじり口は中庭に面しており、正面玄関からでなく中庭を経由して入ったのかも知れない。
 拾翠亭前の池は、その形から勾玉(まがたま)池と呼ばれていたが、今は九条家をしのんで九条池と呼ばれるようになった。この池は江戸時代中期の安永7年(1778)に東山を借景とし、拾翠亭からの眺めを最優先に造られた池である。

(写真は 厳島神社)

 「拾翠」とは緑の草花を拾い集めると言う意味であり、平安時代に貴族たちはのどかな春の野辺で草花を摘んで楽しんだ慣わしに因んでつけられたとされている。また「翠」の字はカワセミの緑の羽根の色を表していることから、かつて拾翠亭の前の池に多くのカワセミが飛来していたと考える向きもある。
 九条池畔の厳島神社は九条家の鎮守として崇められ、その石鳥居は破風形と言う非常に珍しい姿である。この神社は平清盛が兵庫の築島に創建した神社を移したものだが、鳥居だけは別の所に移され、江戸時代中期の明和8年(1771)ようやく拾翠亭の厳島神社の社前に戻された。拾翠亭は毎週金曜日と土曜日に一般公開されている。

茶室二階

(写真は 茶室二階)


 
涼を呼ぶハモそうめん  放送 8月17日(水)
 祇園新橋通の「いづ萬」は、出雲出身の初代・萬助が江戸時代末期の弘化元年(1844)に創業した京都で最も古い蒲鉾(かもぼこ)屋の老舗で「いづもの萬助」にちなんで「いづ萬」と名付けられた。
 かまぼこは海辺に近い土地の特産の新鮮な魚を原料に作られ、竹串にすり身をくっつけて焼いたもので室町時代に起こった。海から離れた京の町で、新鮮な魚を原料にするかまぼこを作ろうと言うのだから、初代・萬助の苦労は大変だった。しかも舌の肥えた祇園の料亭の客や茶事関係の客を満足させなければ商売は成り立たない。若狭、松江、明石などへ飛脚を飛ばし、やっと新鮮な魚が確保できるルートを作り上げ、歯ごたえ、舌ざわり、のど越しの三拍子が揃ったかまぼこを京都で作ることに成功した。

御蒲鉾司 いづ萬

(写真は 御蒲鉾司 いづ萬)

ハモそうめん

 2代目・萬吉は新鮮な原料にこだわることはもちろんだが、製品の形にこだわりをみせ、種々の名品を創製した。その中でもトコロテン作りからヒントを得た「ハモそうめん」は、京の夏の味としていづ萬を代表する一品となっている。
 そうめんと言っても麺ではなく、細く仕上げたれっきとしたたかまぼこ。新鮮なハモの身をミンチにして塩、砂糖などを石臼で練り上げ、それをトコロテンのように筒の穴から押し出し、湯にくぐらせて完成。冷やしたハモそうめんを出し汁やワサビ醤油など好みの味つけでいただくと、1本、1本からハモの味がにじみ出て口いっぱいに広がり、夏の味覚を代表する逸品の味が満喫できる。

(写真は ハモそうめん)

 3代目・萬次郎はかまぼこに季節感を表現した形の詩人と言われ、その創造性は2代目をしのぐとも言われた。舞妓さんの簪(かんざし)にヒントを得て創作した「東山魚餅」は、京都ならではのかまぼこと言える。ほかに京都の四季を表現した「菊花ヒロウス」や「御所小袖」などがある。
 戦後は冷凍技術が発達し、冷凍すり身を使った機械作りのかまぼこが増えてきたが、いづ萬はかたくなに生の魚を使った手仕事のかまぼこ作りを守っている。「21世紀のいづ萬のかまぼこは、伝統の味と手作りを守りながら扱いやすい小型化とアイデアかまぼこで勝負」と言うのは、6代目の現当主・嘉田邦康さん。夕方5時からは直営の小料理店「嘉門」で、ハモそうめんや出来たてアツアツのすり身の天ぷらなどがいただける。

かまぼこ

(写真は かまぼこ)


 
糺の森のせせらぎ  放送 8月18日(木)
 賀茂川と高野川の合流点の三角州地帯の森林を糺(ただす)の森と言う。かつては495万平方mの原生林だったが、現在は12万4000平方mになり国の史跡に指定されている。この森の中にある下鴨神社の境内に摂社・河合神社がある。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」の名文で始まる「方丈記」の作者・鴨長明は、久寿2年(1155)河合神社の神官の家に生まれた。幼少から学問に秀でており、中でも歌道に優れ藤原定家に並ぶと評され、朝廷での歌合わせや歌会などに召されて歌を献じていた。音楽の才能もあり琵琶や笛、琴などの管弦の演奏にも長けていた。

万丈の庵(復元)

(写真は 万丈の庵(復元))

奈良の小川

 長明は神官になることを強く望んでいたが、種々の事情により父の死後、神官を継ぐことができなかった。神官就任への望みを絶たれた50歳の時、すべての公職から身を引き宮中を辞して出家、大原へ隠遁した。これらの出来事によって厭世観を抱いた長明は、世の無常、人生のはかなさを随筆「方丈記」に著した。
 大原から方々を転々とした後、承元2年(1208)58歳のころ、京都南部の日野(現・伏見区日野町)に一丈四方の簡素な庵「方丈」を建て落ち着いた。この方丈が河合神社の境内に復元されている。方丈は1丈(約3m)四方、広さは畳5畳半程度で、間口も奥行も1丈なので方丈との名がある。

(写真は 奈良の小川)

 長明の方丈は自らが考案した移動に便利な組み立て式方丈で、引っ越しの度に大八車2台に積んで移動したと言う。この移動組み立て式の方丈は、21年毎に社殿が造り替えられていた河合神社の式年遷宮の建築様式をヒントにしたようだ。
 糺の森には「奈良の小川」「瀬見の小川」「泉川」「御手洗川」の清流が流れている。四季に合わせて変化する林泉は、今は市民の憩いの場として親しまれており、源氏物語、枕草子をはじめ、数々の物語や詩歌などにも歌われている。長明も「石川や 瀬見の小川 清ければ 月も流れを たずねてやすむ」と瀬見の小川を詠んでいる。京都三大祭のひとつ、葵祭の主役・斎王代が禊(みそぎ)をする御手洗池も下鴨神社境内にある。

みたらし池(下鴨神社)

(写真は みたらし池(下鴨神社))


 
都の名水  放送 8月19日(金)
 京都市内は昔から水に恵まれた土地で、現在もあちこちで湧き出る地下水や井戸水が、日常の飲料水や茶の湯用の水として人びとを潤している。
 京都御所の東に隣接する梨木神社境内の「染井の井戸」は、現存する唯一の「京都三名水」のひとつである。ちなみに他の京都三名水の県井(あがたい)、醒井(さめがい)は姿を消している。染井の井戸の水は、境内で催される茶席の茶の湯に用いられたり、近所の人たちがお茶やコーヒー、炊飯用などに利用するため、甘くてまろやかなこの水をいただきに訪れている。

梨木神社

(写真は 梨木神社)

染井の井戸

 染井の井戸は平安時代中期の文徳天皇の明子皇后の実家にあったもの。宮中御用の染所の水として使われていたと言われ、京都の主要産業の染色業にもゆかりのある井戸である。
 染井の井戸がある梨木神社は、早くから王政復古を唱え明治維新に勲功のあった才色兼備の公卿・三条実萬(さねつむ)、その子で父の遺志を継いで明治維新の大業を成し遂げた実美(さねとみ)を合わせて祀るために明治18年(1885)に御所の東に創建された。実美は東京遷都後、京都御所廃止論が起こった際、明治天皇に京都御所存続を進言、京都御所を今日まで存続させた人物でもある。

(写真は 染井の井戸)

 京都御苑の東南、下御霊神社境内の井戸に湧く水は、元来、参詣者の身を清める水であったが、軟らかなおいしい水として地域の人びとに親しまれている。毎朝、自転車にペットボトルを乗せてくる人、ポリタンク持参で汲みに来る主婦、出勤前にペットボトルに詰めて行くサラリーマンなど、自分に必要なだけの水をいただいて行くのが日常の風景になっている。
 下御霊神社は陰謀で不運の死を遂げた桓武天皇の第三皇子伊予親王とその母・藤原吉子の霊を慰めるために承和6年(839)に創建され、その後、同じく不運な死を遂げた怨霊を合祀し、祭神は八座となっている。

下御霊神社

(写真は 下御霊神社)


◇あ    し◇
茂庵(カフェ・もあん)京都市バス銀閣寺道又は浄土寺下車徒歩15分。 
京都御苑、拾翠亭、厳島神社京都市バス裁判所前下車すぐ。 
京阪電鉄丸太町駅下車徒歩10分。
地下鉄烏丸線丸太町駅下車徒歩5分。
いづ萬(蒲鉾)京都市バス祇園下車3分。 
京阪電鉄四条駅下車徒歩10分。
糺の森京都市バス糺の森下車。 
京阪電鉄出町柳駅下車徒歩10分。
梨木神社京都市バス府立医大病院前下車徒歩3分。 
京阪電鉄丸太町駅下車徒歩15分。
下御霊神社京都市バス丸太町下車すぐ。 
京阪電鉄丸太町駅下車徒歩7分。
地下鉄烏丸線丸太町駅下車徒歩13分。
◇問い合わせ先◇
茂庵(カフェ・もあん)075−761−2100 
京都御苑・拾翠亭075−211−6364 
厳島神社075−951−1025 
いづ萬(蒲鉾)075−561−0983 
下鴨神社075−781−0010 
梨木神社075−211−0885 
下御霊神社075−231−3530 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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