月〜金曜日 18時54分〜19時00分


宇治市 

 宇治川の流域に広がる宇治市は、平安時代には自然豊かな景勝地が人気を呼び貴族の別荘地として栄え、紫式部の源氏物語宇治十帖の舞台としても有名で、平安時代の王朝文化が花開いたところである。そこには由緒ある古社や古刹が多く、奈良や京都の古都とは異なる宇治独特の情緒がある。また、宇治茶の産地としても全国的に知られている。


 
宇治橋と橋寺  放送 9月12日(月)
 宇治市の宇治川の清流には、周囲の山水と溶けあいながら、それぞれ個性的な橋が架かっている。紫式部の源氏物語宇治十帖は「橋姫」から始まり「夢浮橋」で終わる、橋に始まり橋に終わる構成になっている。紫式部が源氏物語を書いた11世紀初めにはすでに宇治川には橋が架けられていた。
 平安時代に貴族たちの別荘があった宇治に思いを馳せながら、これらの橋をたどっての散策も楽しい。その中でも宇治橋は、山崎橋(京都府大山崎町)、瀬田橋(大津市)とともに古代の三大橋と言われ、わが国最初の橋とされている。現在の橋は平成8年(1996)に架け替えられたコンクリート造で全長155.4m。

宇治橋

(写真は 宇治橋)

本尊 地蔵菩薩立像

 大化2年(646)奈良・元興寺の僧・道登が宇治川に初めて橋を架けたのが、宇治橋の起源とされている。その後、宇治橋は洪水で流失したり、兵火で焼失したが、その都度、再建されてきた。橋の中央で上流に向かって張り出している部分を三ノ間と言い、豊臣秀吉が茶の湯で用いる水を汲むために作らせてと言われているが、今は宇治川の流れを眺める格好のポイントとなっている。
 宇治橋の東詰の橋寺は、正式名は雨宝山放生院と言うが、古くから宇治橋を守る橋寺の通称で知られてきた。橋寺は推古天皇12年(604)聖徳太子の発願により秦河勝が建立し、聖徳太子の念持仏・地蔵菩薩像を祀ったのが始まりと伝えれている。

(写真は 本尊 地蔵菩薩立像)

 宇治川に橋を架けた道登も宇治川の治水と人馬の往来の安全を祈願して、橋寺に堂塔を建立している。荒廃していた放生院を鎌倉時代の弘安4年(1281)に再興したのが奈良・西大寺の僧・叡尊で、地蔵菩薩像(国・重文)を造立して祀ったのが現在の本尊。
 本堂前庭には宇治橋架橋のいきさつを示す石碑「宇治橋断碑(国・重文)」がある。この石碑によって大化2年(646)に道登が架けたことが明らかになった。
この石碑は寛政3年(1791)寺の近くの土中から上部3分の1が見つかり、尾張の学者・小林亮適らが帝王編年記などの記録から欠損部分3分の2の碑文を復元した。この石碑は少なくとも飛鳥時代のもので、わが国最古のもののひとつとされている。

宇治橋断碑

(写真は 宇治橋断碑)


 
平等院庭園  放送 9月13日(火)
 京の都から交通の便がよく、風光明媚な宇治には平安時代、都の貴族たちの別荘が多かった。そのころ権勢を誇り、栄華を極めた藤原道長の別荘・宇治殿を受け継いだ道長の子の関白・頼通は、末法の初年とされた永承7年(1052)にこの宇治殿を寺に改め、本堂を建立して天台宗の平等院とした。
 平等院とした翌年の天喜元年(1053)本尊・阿弥陀如来像(国宝)を安置する阿弥陀堂(国宝)を建立したが、これが現在まで創建当時のまま残る唯一の建物の鳳凰堂で、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。その後も藤原一族によって法華堂、五大堂、経蔵など建立され、華麗な大寺院となった。

鳳凰堂

(写真は 鳳凰堂)

平等院庭園

 鳳凰堂は建物全体が羽根を広げた鳥のように見えることと、中堂の屋根の上に金銅製の一対の鳳凰が飾られていることから付けられたニックネームである。
 末世末法・欣求浄土思想が強かったこの時代に建立された平等院は、平安貴族たちの憧れであった西方浄土をこの世に現出する意図の現れとされている。境内に建ち並ぶ堂塔が西に沈む夕日にシルエットのように浮かび上がる光景は、この世の極楽浄土を思わせたことであろう。鳳凰堂中堂の正面の格子の円窓から拝む阿弥陀如来像は、まさに西方浄土に向かえてくれる阿弥陀様に見える。今も鳳凰堂の前面の阿字池に映る影と共に、阿字池を中心にした平等院庭園には四季それぞれに、絵のような美しさを景色を見せてくれる。

(写真は 平等院庭園)

 本尊の阿弥陀如来座像は平安時代の藤原期を代表する仏師・定朝(じょうちょう)の傑作で、鳳凰堂と同じ天喜元年の造立。この当時、最も名声の高かった定朝の確実な作として現存するのは、この阿弥陀如来像だけと言われている。この像は定朝が考案した寄木造りで、外来文化の影響を受けない純和様の美しさを表しており、わが国の阿弥陀如来像の完成品とまで言われている。
 平等院は創建後、兵火などで焼失し、現在は鳳凰堂、観音堂、鐘楼などを残すのみとなっているが、宇治市のシンボルとして観光客らの人気は衰えていない。

本尊 阿弥陀如来坐像

(写真は 本尊 阿弥陀如来坐像)


 
佛徳山興聖寺  放送 9月14日(水)
 宇治橋から宇治川右岸沿いに上流へ約10分、仏徳山を背にして建つ興聖寺は、もとは鎌倉時代中期の天福元年(1233)日本曹洞宗の開祖・道元禅師が、中国・宋から帰国後に京都・伏見深草に開いた寺院。道元はこの寺で10年間過ごし「正法眼蔵」などの著作に取り組んでいた。その後、越前国に開いた永平寺へ移った。
 その後、興聖寺は室町時代の応仁の乱(1467〜77)の兵火によって焼失し長らく廃絶していた。江戸時代に入って慶安元年(1648)淀城主・永井尚政が、亡父・直勝と父が長久手の戦で討ち取った池田恒興の供養のため、現在地に菩提寺として再興した名刹で、関西での曹洞宗の中心寺院となっている。

道元禅師

(写真は 道元禅師)

法堂

 宇治川に面した石造りの総門から山門までの
約200mほどのなだらかな坂道は、坂道の形が琴に似ていることと、その両側を流れるせせらぎの音から琴坂と呼ばれている。琴坂の春はヤマブキ、ツツジが彩りを添え、秋は紅葉の名所となり、宇治十二景の景勝地として知られている。
 約1万平方mの境内には独特の龍宮造りの山門、さらに薬医門、これらの門をくぐると本堂(法堂)、僧堂、開山堂、大書院、方丈、庫裏など建ち並ぶ。諸堂の前には苔むす庭園が広がり、禅寺らしい静けさに満ちている。

(写真は 法堂)

 修行僧に座禅や食事などの時を知らせる魚の形をした「雲版」も長年打たれ続けたためえぐられたようになっている。関西の曹洞宗の修行道場として、今も禅僧の修行が続いており、この雲版の打たれた跡は禅宗寺院の修行の厳しさと歴史の長さを示しいる。本堂は伏見桃山城の遺構を用いて建てられており、落城の際の血染めの手形や足跡が残る床板を供養のために天井に使った血天井となっている。今は血染めの跡も黒ずみその生々しさはない。予約しておけば近くまでの行って見学することができる。
 本堂奥の天竺殿に祀られる聖観世音菩薩像は、源氏物語宇治十帖に登場する手習の杜に祀られていたことから「手習観音」とも呼ばれている。

僧堂

(写真は 僧堂)


 
西国三十三カ所第10番札所
・三室戸寺 
放送 9月15日(木)
 三室戸山の中腹、花の寺としても訪れる人が多い三室戸寺は、西国三十三カ所第10番札所で、巡礼姿の参拝者が絶えない。奈良時代の宝亀年間(770〜781)に夜毎、宮中が金色の光に照らされる奇瑞があり、光仁天皇が菟道(うじ)山を調べさせると、岩渕から黄金の千手観音像が現れた。
 この千手観音菩薩像を本尊として祀ったのが三室戸寺の始まりとされている。平安時代には桓武、花山、三条、白河、堀河天皇らが堂塔を寄進するなど朝廷、貴族の崇敬を集めて栄え、室町時代から江戸時代には観音様の御利益を求める善男善女でにぎわった。その間、火災による堂塔の焼失、織田信長による寺領の没収などで、寺運が衰退した時期もあった。

本堂

(写真は 本堂)

三重塔

 参道わきの5000坪の大庭園は、枯山水、池泉式と広庭からなっており、5月には2万株のツツジ、1千株のシャクナゲ、6月には1万株のアジサイ、
7月にはハスの花が咲き乱れ、秋は紅葉が参拝者を迎えてくれるので、庭を逍遥しながら四季折々の花の景観も満喫することができる。
 アジサイの咲く6月は境内がライトアップされ、アジサイの花と堂塔が浮かび上がる幽玄な美しさが楽しめる。枯山水の石庭の中心には阿弥陀三尊を現す三尊石を配して浄土を表現し、池泉回遊庭園の池には蓬莱島を配し、島へは板石橋が架けられている。

(写真は 三重塔)

 重層入母屋造の現在の本堂や阿弥陀堂、三重塔などは江戸時代後期の文化年間(1804〜18)に再建されたものである。三室戸寺の起こりに由来する千手観音像は脇侍の釈迦如来立像(国・重文)、毘沙門天立像(国・重文)ともに本堂に安置され、観音霊場巡礼の参拝者らが手を合わせている。
 阿弥陀堂には阿弥陀如来座像と脇侍の観音菩薩蔵、勢至菩薩蔵(いずれも国・重文)が安置されているが、脇侍の観音、勢至両菩薩蔵は両膝を折って跪座(きざ)した来迎像である。こうした来迎像は平安時代後期に流行した来迎芸術の数少ない仏像のひとつとされている。
 御詠歌は「よもすがら つきをみむろと わけゆかば うじのかわせに たつはしらなみ」。

本尊 千手観世音菩薩

(写真は 本尊 千手観世音菩薩)


 
黄檗山萬福寺  放送 9月16日(金)
 日本三禅宗(臨済、曹洞、黄檗)のひとつ、黄檗宗の大本山・萬福寺は、江戸時代初めの承応3年(1654)中国・明国の福建省の黄檗山萬福寺から来朝した隠元禅師が、後水尾上皇、徳川家綱らの帰依を得て、寛文元年(1661)に開創した中国様式の禅寺。
 萬福寺はすべて中国の黄檗山萬福寺を模して建てられており、儀式や作法、伽藍(がらん)配置、仏像、書画などはすべて中国・明代に制定された様式で、読経や法式もすべて中国式、中国語で行われてきた。隠元禅師以来、代々の住職は21世までは4人を除いてすべて中国の黄檗山萬福寺から来朝した中国僧が務めている。

大雄宝殿

(写真は 大雄宝殿)

釈迦如来坐像

 大雄殿(本堂)、法堂、開山堂の天井は、龍の腹のように曲がっている蛇腹天井と呼ばれる様式になっており、総門の前には龍の眼を表した井戸があるなど、萬福寺全体が龍の体にたとえられている。大雄宝殿はチーク材を使った建物で、本尊の釈迦如来像、脇侍には釈迦の弟子の迦葉、阿難の両尊者が安置されている。寺の玄関に当たる天王殿には、七福神のひとりの布袋尊像と韋駄天像、四天王像が祀られている。萬福寺は布袋尊の寺でもあり、中国仏師の手になる布袋尊は、おおらかな風貌と笑顔が参拝者の人気を集めている。
 開山堂や法堂正面の勾欄には中国様式の卍(まんじ)と卍くずしの文様になっており、壁や障子には円窓が開けられおり、ここにも中国色が見られる。

(写真は 釈迦如来坐像)

 修行僧に一日の修行の時を知らせる魚の形をした開板(かいばん)は、口に玉をくわえたユーモラスな姿。開板を叩く音は修行僧の怠惰を戒める音でもあり、21世紀の現代も使われている。こうした中国様式の萬福寺の雰囲気を江戸時代の女流俳人・菊舎が「山門を 出ずれば日本ぞ 茶摘み唄」と詠んで見事に表しており、その句碑が三門脇に立っている。
 隠元禅師は中国の精進料理である「普茶(ふちゃ)料理」も伝えている。普茶とはあまねく大勢の人に茶を供すると言う意味で、一卓に上下の隔たりなく座して、和気あいあいのうちに残さずいただくのが作法。予約すれば隠元禅師から伝わる300余年の悠久の味・普茶料理や普茶弁当がいただける。

普茶弁当

(写真は 普茶弁当)


◇あ    し◇
橋寺(雨宝山放生院)京阪宇治線宇治駅下車徒歩5分。 
JR奈良線宇治駅下車徒歩15分。
平等院京阪宇治線宇治駅、JR奈良線宇治駅下車、それぞれ徒歩10分。
佛徳山興聖寺京阪宇治線宇治駅下車徒歩10分。 
JR奈良線宇治駅下車徒歩20分。
明星山三室戸寺京阪宇治線三室戸駅下車徒歩18分。 
JR奈良線宇治駅からバスで三室戸下車徒歩15分。
黄檗山萬福寺京阪宇治線、JR奈良線黄檗駅下車徒歩7分。 
◇問い合わせ先◇
宇治市観光センター0774−23−3334 
橋寺(雨宝山放生院)0774−21−2662 
平等院0774−21−2861 
佛徳山興聖寺0774−21−2040 
明星山三室戸寺0774−21−2067 
黄檗山萬福寺0774−32−3900 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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