月〜金曜日 18時54分〜19時00分


敦賀市 

 敦賀市は古代から中国大陸や朝鮮半島とを結ぶ海の玄関口だった。明治時代以降も国際貿易港として発展を続け、その名残が今も港周辺に残っている。リアス式海岸の敦賀湾の沿岸は景勝の地が多く、気比の松原はその代表。だが敦賀湾周辺は原子力発電所の集中地でもあり、原発の安全問題で注目を集めることも多い。


 
越前一の宮・氣比神宮  放送 9月26日(月)
 敦賀市民から「けえさん」(又は「けいさん」)と呼び親しまれている氣比(けひ)神宮は、飛鳥時代の大宝2年(702)の創建と伝えられ、越前一の宮で北陸道の総鎮守。
 高さ10.9m、柱間7.45mの朱塗りの大鳥居(国・重文)は、木造の鳥居としては春日大社、厳島神社と並んで日本三大鳥居に数えられている。最初の鳥居は平安時代初期に建立されたが、南北朝時代に暴風で倒壊し、江戸時代初期の正保
2年(1645)佐渡のムロの木で建立された。祭神は伊奢沙別命(いささわけのみこと)で、後に仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、日本武尊ら六神を合わせ祀る七柱の神々。伊奢沙別命は笥飯(けひ)大神とも言い、海の航海安全と漁業の繁栄、陸の産業発展と衣食住に御神徳があるとされている。

大鳥居

(写真は 大鳥居)

神水苑

 織田信長の朝倉攻めに当時の宮司が対抗したため、社殿は織田勢に攻められ灰燼に帰した。江戸時代初めの慶長19年(1614)に福井藩の藩祖・結城秀康が社殿を再興した。しかし第2次世界大戦の空襲で社殿は焼失、昭和25年(1950)に本殿、昭和37年(1962)に拝殿がそれぞれ復興された。境内摂社のひとつ角鹿(つぬが)神社は、敦賀の地名発祥の神と言われている。
 敦賀には多くの名水が湧き出ているが、氣比神宮にも氣比の長命水があり、この水を求めて訪れる人も多い。この名水は大宝2年創建当時に湧き出てきたと言われ、1300年間、枯れることなく湧き出て境内の神水苑の池にも流れ込んでいる。

(写真は 神水苑)

 奥の細道の旅を続けていた松尾芭蕉は、元禄2年(1689)この地を訪れている。ちょうど中秋の名月にあたる旧暦8月14日から16日まで敦賀に滞在した。宿の主人が中秋の名月の明日の天気はわからないと、前夜の氣比神宮参拝を勧めたので、前日に参拝して「名月や 北国日和 定なき」と詠んだ。
 遊行上人がぬかるんでいた氣比神宮の参道を見て、浜から砂を運びぬかるみを埋め立てはじめ、これを見て住民や遊女までがその作業に加わったという言い伝えがある。芭蕉はその故事にちなみ「月清し 遊行のもてる 砂の上」と詠み、これら氣比神宮で詠んだ7句の句碑が境内にある。芭蕉は敦賀周辺で多くの句を詠んでおり、これらの句碑が敦賀市内に数多く建立されている。

長命水

(写真は 長命水)


 
氣比神宮例大祭  放送 9月27日(火)
 敦賀に秋の訪れを告げる氣比神宮の例大祭は、9月2日の宵宮に始まって3日の神幸祭、4日の本祭、5日から10日までの後祭、15日の月次祭まで続けられるので「氣比の長祭」として有名である。
 3日の神幸祭は御鳳輦(ごほうれん)が巡幸し、氏子各町の神輿が市内を巡幸、渡御が行われる。4日は本祭で6基の山車(やま)が市内を巡幸し最高のにぎわいを見せる。これらの山車はいずれも甲冑をつけた武者人形を飾り、金襴緞子(きんらんどんす)、銀襴緞子の幕を回した豪華絢爛な装いである。祭の期間中、境内やその周辺に露店が並び、福井、石川、富山の北陸一帯はもとより、滋賀、京都、大阪など京阪神、岐阜、愛知の中京方面から多くの参拝者、見物人が訪れにぎわう。

氣比神宮

(写真は 氣比神宮)

山車

 例大祭に引き出される山車の起源ははっきりしないが、織田信長や江戸時代に小浜藩9代藩主・酒井忠貫が豪華壮麗な山車を見物したと伝えられている。
 敦賀の山車は民俗的な風物を表した代表的なものであり、港町・敦賀の繁栄をしのぶ資料でもあった。山車の名称は山車を所有する町のいわれなどにちなんで命名されており、いずれも江戸時代に作られたものだった。第2次世界大戦の空襲で焼失し、金ヶ辻子山車、御所辻子山車、唐仁橋山車の
3基だけが残った。平成6年(1994)に焼失していた東町山車、観世屋町山車、鵜飼ヶ辻子山車がそれぞれ復元され、この6基の山車が4日の本祭に市内を巡行する。

(写真は 山車)

 江戸時代には大山車と小山車があり、大山車は敦賀36町のうち12町が東西の組に分かれ、6基ずつ1年交代で曳き出していた。小山車は大山車と同じ町に住む町人が個人又は数人で曳き出していたもので、盛んな時には30〜40基が繰り出したと言われている。しかし、明治6年(1873)に小山車が廃止され、今日の形態の巡行になった。
 山車の飾り付けは毎年変わり、武者人形3体と馬1頭、それに日輪(金)と月輪(銀)を掲げる幡竿(はたさお)、神の依代(よりしろ)である松で構成されるのが一般的である。人形に着ける装束や、具足、仮面などは美術工芸的にも高い水準にあり、町衆の財力と祭にかける心意気を表している。

山車巡行

(写真は 山車巡行)


 
常宮神社  放送 9月28日(水)
 敦賀湾に面してアカマツ、クロマツなど約1万7千本の松が生い茂り、白砂青松が延々と続く景勝地・気比の松原。国の名勝地に指定され夏は海水浴客でにぎわい、普段は市民の散歩やジョギングコースなどの憩いの場となっている。
 この気比の松原を抜けて敦賀半島の海岸線を北へ向かって、敦賀原子力発電所のある立石岬方面へ行くと、海に臨む拝殿を持つ常宮(じょうぐう)神社がある。氣比神宮の奥宮・常宮大権現と称し大宝3年
(703)に仲哀天皇と皇后の神功皇后が主祭神と一緒に祀られた。明治9年(1876)に氣比神宮から独立して常宮神社となった。

気比の松原

(写真は 気比の松原)

拝殿

 神功皇后がこの地で腹帯をつけ、九州で後の応神天皇を安産された故事から「お産のじょうぐうさん」と親しまれ、安産祈願のお参りが多い。毎年
7月22日の例祭・総参祭には、氣比神宮から仲哀天皇の御神体が海上を渡御してくる。この祭は常宮神社にいた仲哀天皇と神功皇后が熊襲(くまそ)の反乱を聞き、天皇がまず九州に駆けつけ、皇后は海路から天皇の後を追ったことを再現した神事と伝えられている。
 本殿は福井藩の藩祖・結城秀康が慶長7年
(1602)に造営、現在の本殿は正徳3年(1713)に再建されたものであり、各部の形式、装飾などは第2次世界大戦の戦災で焼失した気比神宮の本殿と共通した点が多い。

(写真は 拝殿)

 常宮神社の国宝・朝鮮鐘(新羅鐘)は1150年以上昔のものと思われる新羅の名鐘。文禄・慶長の役の時に朝鮮から持ち帰ったもので、豊臣秀吉の命を受けて慶長2年(1597)に敦賀城主・大谷吉継が奉納したと伝わっている。銅製で高さ1.1m、口径66cmで美術的、工芸的価値の高い鐘で「太和7年(833)
3月菁州蓮池寺」の銘がある。太和7年は中国・唐の文宗の時代の元号で、新羅の興徳王8年に当たる。
 2人の天女が太鼓を打ちながら大空を舞う姿の浮き彫りが美しく、音色は黄鐘調(おうしきちょう)である。新羅製の朝鮮鐘は現在、世界に4つしか残っておらず、このうち日本には常宮神社と大分県の宇佐八幡宮にあり、それぞれ国宝に指定されている。

朝鮮鐘

(写真は 朝鮮鐘)


 
モダン建築巡り  放送 9月29日(木)
 古代から港町として栄え、明治時代以降は国際都市して発展した敦賀では、明治時代から昭和時代初めにかけてのモダンな建築をいくつか見ることができる。
 敦賀港の東側に並ぶ2棟の赤煉瓦倉庫は、明治38年(1905)外国人技師によって建てられたニューヨーク・スタンダード石油会社のモダンな石油貯蔵倉庫で県内最大級の煉瓦建築。外国人の設計だけにすべてフィート単位で造られており、柱の内側に壁が設けられているので、内部はまったく柱のない空間になっている。
この赤煉瓦倉庫は今は敦賀市の所有になっており、その活用方法を検討中である。

赤煉瓦倉庫

(写真は 赤煉瓦倉庫)

旧敦賀港駅舎(復元)

 とんがり屋根の旧敦賀港駅舎は、シベリア鉄道経由でヨーロッパを結んだ「欧亜国際連絡列車」の発着駅の敦賀港駅だった。平成11年(1999)に「つるがきらめきみなと博21」の開催に合わせて復元された。
 敦賀港駅には昭和15〜16年(1940〜41)にかけて、リトアニア領事代理の杉原千畝に命を救われたユダヤ人難民約6000人が降り立った駅でもある。
杉原はナチスの迫害から逃れようとしたポーランド系ユダヤ人に対し、人道的立場から日本通過のビザを発給した。この「命のビザ」で日本の地を踏みしめたユダヤ人たちにとっては敦賀は忘れることのできない土地である。復元された駅舎内には大正時代の敦賀港周辺の写真や杉原の写真、命のビザの複製など、旧敦賀港駅にまつわる資料が展示されている。

(写真は 旧敦賀港駅舎(復元))

 敦賀市立博物館は昭和2年(1927)完成した旧大和田銀行本店の石造りの建物。古典的な石造りの柱、建物内には、いたるところに大理石が使われており、北陸で初めてエレベーターが設置された。この豪華な洋風建築は大陸や西欧への玄関口として栄えた「東洋の波止場」と言われた港町・敦賀を象徴する建物であった。
建設当時のエレベーターは今も残っているが使用はされていない。
 敦賀市がこの建物を買い取り昭和53年(1978)敦賀市立歴史民俗資料館、平成5年(1993)に敦賀市立博物館としてオープンした。モダンでレトロな建物を外観や内部のデザインを眺めながら、館内の美術工芸品や歴史・民俗資料、考古学資料などの見学ができる。

敦賀市立博物館

(写真は 敦賀市立博物館)


 
大原山西福寺  放送 9月30日(金)
 敦賀市街地の西、大原山の山麓にある西福寺は、南北朝時代の正平23年(1368)=北朝・応安元年=良如上人によって開かれた浄土宗の中本山。
 良如上人は光り輝く阿弥陀三尊と1匹の白狐に導かれてこの地までやって来た。ここで白狐は姿を消し、阿弥陀三尊仏も大岩と化した。上人はここが仏法有縁の地であると教えられたと考え、一寺の建立を発願して開いた寺と伝えられている。当時の室町幕府の将軍・足利義満の援助を受けて堂塔を整備し、大原山西福寺の寺号をもらった。

法然上人像

(写真は 法然上人像)

書院

 御影堂の裏には上人をこの地へ導いた白狐が、寺の守護神として祀られており、阿弥陀三尊仏は三尊石として西福寺の裏山の中腹にある。その御影堂には宗祖・法然上人61歳の等身大の木像が安置されている。
 総門のそばの2本のシイの大木(敦賀市指定天然記念物)は、飢饉で人びとが苦しんでいる時、良如上人の夢に阿弥陀仏が現れた。阿弥陀仏は「シイの実は飢饉の年に豊作になるので、これを植えて村人を助けよ」と告げた。上人が早速このお告げに従いシイの木を植え、以後は飢饉の度に貴重な食糧となって村人たちを助けたと言われる。

(写真は 書院)

 西福寺は勝運の寺とも言われている。南北朝時代、後小松天皇は、戦の終結と平和の祈願を良如上人に命じた。2年後に戦乱は終わり南北朝は統一されたので、天皇はこの寺を戦勝と平和到来を祈願する勅願寺とした。
 西福寺には国の名勝に指定されている名園がある。この書院庭園は4600平方mもある広大な庭園で、自然の巨岩や松の木の間に石灯籠が巧みに配されている。
庭園内の木々は四季折々に彩りを変えて参拝者の目を楽しませてくれ、特に秋の紅葉は見事である。周囲の堂塔などともよくマッチし、静かな寺院のたたずまいを見せている。この庭園は江戸時代中期に造られたが作庭者は定かでない。

書院庭園

(写真は 書院庭園)


◇あ    し◇
氣比神宮JR北陸線敦賀駅からバスで神宮前下車。 
JR北陸線敦賀駅下車徒歩15分。
常宮神社JR北陸線敦賀駅からバスで常宮下車。 
気比の松原JR北陸線敦賀駅からバスで気比の松原下車。 
赤煉瓦倉庫JR北陸線敦賀駅からバスで金崎宮下車徒歩5分。 
JR北陸線敦賀駅下車徒歩25分。
旧敦賀港駅舎JR北陸線敦賀駅からバスで市民センター前下車徒歩2分。
JR北陸線敦賀駅下車徒歩25分。
敦賀市立博物館JR北陸線敦賀駅からバスで山車会館下車。 
JR北陸線敦賀駅下車徒歩15分。
大原山西福寺JR北陸線敦賀駅からバスで西福寺下車徒歩5分。 
◇問い合わせ先◇
敦賀市役所商工観光課0770−22−8128 
敦賀市観光協会0770−22−8167 
氣比神宮0770−22−0794 
常宮神社0770−26−1040 
旧敦賀港駅舎0770−21−0056 
敦賀市立博物館0770−25−7033 
大原山西福寺0770−22−3926 

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