月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大津市 

 琵琶湖の恵みを受けた近江国・滋賀県は、縄文時代から人が住みつき早くから開けた。渡来人文化の影響も受け、飛鳥時代には天智天皇が近江大津京へ遷都して歴史の舞台に登場した。また、比叡山延暦寺を中心にした仏教文化も華開き、名刹が多い。一方では近江に伝わっていた古文化財の7割が、織田信長による兵火や破壊で消滅したと言われている。今回はこうした近江の中心地・大津市を訪ねた。


 
西国三十三カ所第14番札所
・三井寺
放送 10月3日(月)
 三井寺の正式名は園城寺(おんじょうじ)といい天台寺門宗の総本山である。園城寺の名は7世紀後半に天智天皇の後を継いだ弘文天皇(大友皇子)の皇子・大友与多王(よたおう)が父の菩提を弔うため、田園城邑を喜捨して建立したことに由来し、天武天皇から園城寺の勅額を賜った。
 通称の三井寺の名は境内に湧く霊泉が天智、天武、持統の三帝の産湯に用いられたので、御井(みい)と呼ばれたことに由来する。この泉を護る閼伽井屋(国・重文)は現在、壮大な金堂(国宝)と共に
平成20年(2008)まで修理中であるが、今も豊かな清水が湧き出ている。

仁王門

(写真は 仁王門)

金堂

 荒廃していた三井寺を中国・唐から帰朝して天台宗5世座主となった智証大師・円珍が再興し、比叡山延暦寺の別院とした。やがて天台宗は3世座主慈覚大師・円仁派と円珍派の間で争いが起こった。園城寺を本拠とする円珍派を寺門派、延暦寺を本拠とする円仁派を山門派として争いは激化し、三井寺は山門派による焼き討ちで何度も焼失した。
 慶長7年(1602)再建の鐘楼(国・重文)の梵鐘は、近江八景の「三井の晩鐘」として知られ、宇治の平等院、高尾の神護寺の鐘とともに日本三銘鐘とされ、荘厳な音色で有名だ。

(写真は 金堂)

 西国三十三カ所第14番札所である観音堂は広い寺域の東南の小高い所にあり、元禄2年(1689)再建の堂々たる建物。秘仏の本尊・如意輪観音像(国・重文)は、平安時代に円珍が香木に刻んだものと言われている。
 静かで厳かな三井寺の境内の中で、ここ観音堂だけは庶民的な雰囲気が漂い、観音信仰の巡礼者たちがたむける線香の煙が絶えない。この観音堂からの琵琶湖の眺めは素晴らしく、眼下に大津の市街地、遠くには近江富士と呼ばれる三上山、湖西の比良山系から比叡の山々まで見渡せ、観音様にお参りした後の心身に、心地よい安堵感を与えてくれる。
 御詠歌は「いでいるや なみまのつきを みいでらの かねのひびきに あくるみずうみ」。

観音堂

(写真は 観音堂)


 
不断念仏・西教寺  放送 10月4日(火)
 穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣の面なりが美しい坂本の町の北西部、琵琶湖の眺望が次第に広がって行く坂道を登って西教寺へたどり着く。天台真盛宗総本山のこの古刹は、飛鳥時代に聖徳太子が、朝鮮半島高麗の僧・慧慈(えじ)と慧聡(えそう)のために創建し、後に天智天皇から勅額をもらったと伝えられている。
 その後、平安時代中期に比叡山延暦寺中興の祖と言われる慈恵大師・良源やその弟子の恵心僧都(源信)らがこの寺に入って修行したと伝えられている。その後、荒廃していたのを延暦寺で20年間修行を積んだ真盛上人が、文明18年(1486)に入寺して諸堂を復興した。

本堂

(写真は 本堂)

本尊 阿弥陀如来像

 上人は当時、応仁の乱で荒れた世の中にあって、宗教界での戒律の厳守を強調し、安らかに暮らすには念仏を唱えることであると説いた。称名念仏と戒律で世の荒廃を救済をしようとし、西教寺を戒律、不断念仏の根本道場とした。今も本堂から常に澄んだ鉦の音が響き渡り、その間を縫うように念仏の声が絶えることなく聞こえる幽玄静寂な雰囲気の境内である。
 その荘厳な本堂(国・重文)は、江戸時代中期に再建されたもので、総ケヤキの欄間の十六羅漢の彫刻は見事である。内陣には高さ2.8mの丈六の本尊・阿弥陀如来座像(国・重文)が安置されている。

(写真は 本尊 阿弥陀如来像)

 本堂外陣に赤いずきんをかぶり鉦を叩いている猿の木像がある。比叡山の僧兵たちが真盛上人が徳政一揆に関わりがあると西教寺を襲撃したことがあった。その時、本堂から鉦の音がしたので本堂に攻め入ると、手が白い猿が真盛上人の代わりに鐘を叩いていた。僧兵たちは「比叡山の守護と言われる猿までが上人の不断念仏に教化を受けて念仏を唱えているのか」とそのまま立ち去ったと言われている。猿は不断念仏の象徴とされ「身代わり手白猿」とか「身代わり護猿(ござる)」とか呼ばれている。
 静寂なたたずまいを見せる西教寺も、秋が深まる11月には木々の紅葉が境内に彩りを添え、紅葉見物を兼ねた参詣者でにぎわう。

身代わりの手白猿

(写真は 身代わりの手白猿)


 
光秀が眠る西教寺  放送 10月5日(水)
 広大な境内に真盛上人が復興した伽藍が建ち並んでいた西教寺は、元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちのとばっちりを受けて焼け落ち荒廃した。天下を狙っていた信長は、自分に刃向かうものは容赦なく排除、殺害し、焼き払うと言う戦術を取った。比叡山の里坊だった坂本の町に火をつけ、比叡山の堂塔や3千坊と言われた坊舎をことごとく焼き払い、僧侶をすべて殺害した。
 この比叡山焼き討ちに信長の知将・明智光秀も関わったが、内心では伝教大師・最澄以来の伝統ある比叡山を、灰燼に帰してよいものだろうかとの悩みがあったのではなかろうか。

真盛上人座像

(写真は 真盛上人座像)

明智光秀寄進の坂本城陣鐘

 比叡山焼き討ち直後に坂本城の城主となった光秀は、坂本の町の復興に乗り出す。そして西教寺の檀徒となり、坂本城の陣屋を寄進して本坊を再建、こっそりと西教寺の再建に力を貸した。寺に伝わる梵鐘(国・重文)は平安時代に鋳造された坂本城の陣鐘を寄進したもので、以前は鐘楼に吊り下げられていたが今は宝物庫に保管されている。総門は坂本城の城門をそれぞれ移すなど、こうした秀光の援助によって西教寺は延暦寺よりも早く再建された。
 天正10年(1582)本能寺の変で三日天下に終わった光秀は、復興に力をつくしたことから煕子(ひろこ)夫人や一族とともに西教寺に葬られ、静かな境内で眠っている。また寺には明智氏ゆかりの遺品も多い。

(写真は 明智光秀寄進の坂本城陣鐘)

 敦賀城主・大谷刑部の母が寄進したとされる客殿(国・重文)は、京都・伏見城の旧殿を移したもので、屋根は?(こけら)葺きで南面は入母屋造、北面は切妻造となっており、質素で落ち着いた桃山様式を今に伝える数少ない建物である。二列に配置された部屋は、鶴の間、賢人の間、猿猴(えんこう)の間、花鳥の間、上座の間、茶の間などの名がつけられている。
 賢人の間には京都・法勝寺伝来の秘仏・薬師如来座像が安置され、上座の間の違い棚にも古い様式を残している。各部屋の襖(ふすま)や杉戸、腰障子、障壁には狩野派画家の筆による見事な絵が描かれており、客殿前には小堀遠州作と伝えられる庭園が広がっている。

明智光秀寄進の総門

(写真は 明智光秀寄進の総門)


 
義仲寺  放送 10月6日(木)
 源氏の木曽義仲は治承4年(1180)平氏討伐の兵を挙げ、寿永2年(1183)北陸路で平氏の大軍を打ち破って京に入った。だが翌年の寿永3年、鎌倉の源頼朝の命を受けて京に上ってきた源義経・範頼軍と戦う巡り合わせとなり、粟津の里で壮烈な最期を遂げ、この地に葬られた。その後、この墓所に義仲の側室・巴御前が庵を結び義仲を供養する姿が見られたと言う。この庵が後に無名庵と呼ばれ義仲寺(ぎちゅうじ)の始まりとなった。
 その後、義仲寺は荒廃したが、戦国時代の天文22年(1553)近江源氏の流れをくむ佐々木高頼が、同じ源家の将軍の菩提を弔うためにと諸堂を建立、寺観を整えた。

木曽義仲木像

(写真は 木曽義仲木像)

芭蕉の木

 義仲寺の境内はこじんまりとして、本堂の朝日堂、翁堂、無名庵、文庫などが静閑なたたずまいを見せている。朝日堂には本尊の聖観世音菩薩像のほかに木曽義仲、義高父子像が祀られ、義仲や松尾芭蕉ら31柱の位牌が安置されている。
 創建当時は境内そばまで琵琶湖のさざ波が打ち寄せていた景勝の地だった。この風光を愛した松尾芭蕉は度々義仲寺を訪れており、無名庵などで月見の宴を催している。また、近江の門人への手紙に「貴境は旧里(ふるさと)のごとく存ぜられ…」と書いており、生まれ故郷の伊賀上野以外を旧里と言ったのは近江だけであり、すでにこのころから終の住み処と考えていたようだ。

(写真は 芭蕉の木)

 こうした近江への思い入れが強かった芭蕉は、元禄7年(1694)大坂で客死したが、生前の遺言により遺体は其角、去来らの門人が義仲寺に運び葬った。義仲と芭蕉の墓が仲良く並んでおり、芭蕉の弟子・又玄(ゆうげん)が「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」と詠んでいる。
 境内には芭蕉の辞世の句「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」や近江の人たちの交流を示す「行く春を あふみの人と おしみける」など、数多くの句碑が立っている。茅葺きの翁堂には芭蕉像が安置され、壁には36人の俳人の画像が掲げられ、天井には伊藤若冲の四季の花の絵が描かれている。

翁堂

(写真は 翁堂)


 
西国三十三カ所第12番札所
・岩間寺 
放送 10月7日(金)
 大津市の南西端、京都府との境にある標高441mの岩間山上の西国三十三カ所第12番札所・正法寺は、一般には岩間寺と呼ばれている。奈良時代、女帝の元正天皇の病を祈祷で治した泰澄大師が、養老6年(722)元正天皇の勅願によって建立したと言う。
 泰澄大師は「越の大徳」と言われ、加賀白山を開いた山岳修行僧で、岩間寺も山岳信仰の霊場として栄え、平安時代には熊野権現、吉野・金峰山とともに日本三霊場と言われていた。その後、衰微していたのを憂いた正親町天皇が天正5年(1577)に修理して再興した。

泰澄大師

(写真は 泰澄大師)

本尊 千手観世音菩薩(お前立ち)

 岩間寺の本尊は元正天皇の念持仏だった金銅製の千手観世音菩薩像で秘仏となっている。この観音様は衆生の苦を救うため毎夜地獄を駆けめぐり、夜明け前に汗びっしょりになって帰ってくるとの言い伝えから「汗かき観音」と呼ばれて信仰を集めている。
 また、泰澄大師がこの地に伽藍建立した後たびたび落ちる雷に困ったことがあった。泰澄が法力で雷を封じ込め、その訳をたずねたところ雷が「仏門に入りたいと思ってくるのだが、いつも雷を落としてしまう」と言ったので快く弟子にした。その時、岩間寺へ参詣する善男善女には、雷の害をおよぼさないことを約束させたことから「雷除け観音」とも呼ばれ、毎年4月17日に雷除け法要(雷神祭)が行われる。

(写真は 本尊 千手観世音菩薩(お前立ち))

 本堂そばの小さな池は芭蕉が「古池や 蛙飛び込む 水の音」と詠んだ「芭蕉の池」。芭蕉は晩年、岩間寺近くの石山の幻住庵に住み、岩間寺に籠もった時にこの句を詠んだ。この当時、俳聖・芭蕉の心をとらえる静寂な空間がこの境内にあったのであろう。
 泰澄大師が岩間山に来た時、桂の木の大樹から千手観音が現れ啓示を受けたと言われ、その霊木とされる桂の大樹が境内にある。岩間寺からの琵琶湖の眺めは素晴らしく、岩間山の山上に登れば奈良や大阪の夜景も眺められるという。
 御詠歌は「みなかみは いずくなるらん いわまでら きしうつなみは まつかぜのおと」。

古池

(写真は 古池)


◇あ    し◇
三井寺(園城寺)京阪電鉄石山坂本線三井寺駅下車徒歩10分。 
JR東海道線大津駅からバスで三井寺下車。
JR湖西線西大津駅からバスで三井寺下車。
西教寺JR湖西線比叡山坂本駅からバスで西教寺下車。 
京阪電鉄石山坂本線坂本駅からバスで西教寺下車。
義仲寺JR東海道線膳所駅、京阪電鉄石山坂本線京阪膳所駅下車
徒歩10分。
岩間寺JR東海道線石山駅、京阪電鉄石山坂本線京阪石山駅から
バスで中千町下車徒歩50分。
毎月17日の縁日には駅前から岩間寺までバスが運行される。
◇問い合わせ先◇
三井寺(園城寺)077−522−2238 
三井寺観音堂077−524−2416 
西教寺077−578−0013 
義仲寺077−523−2811 
岩間寺077−534−2412 

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