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月〜金曜日 18時54分〜19時00分 |
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大津市 |
琵琶湖の恵みを受けた近江国・滋賀県は、縄文時代から人が住みつき早くから開けた。渡来人文化の影響も受け、飛鳥時代には天智天皇が近江大津京へ遷都して歴史の舞台に登場した。また、比叡山延暦寺を中心にした仏教文化も華開き、名刹が多い。一方では近江に伝わっていた古文化財の7割が、織田信長による兵火や破壊で消滅したと言われている。今回はこうした近江の中心地・大津市を訪ねた。 |
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西国三十三カ所第14番札所である観音堂は広い寺域の東南の小高い所にあり、元禄2年(1689)再建の堂々たる建物。秘仏の本尊・如意輪観音像(国・重文)は、平安時代に円珍が香木に刻んだものと言われている。 |
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(写真は 観音堂) |
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本堂外陣に赤いずきんをかぶり鉦を叩いている猿の木像がある。比叡山の僧兵たちが真盛上人が徳政一揆に関わりがあると西教寺を襲撃したことがあった。その時、本堂から鉦の音がしたので本堂に攻め入ると、手が白い猿が真盛上人の代わりに鐘を叩いていた。僧兵たちは「比叡山の守護と言われる猿までが上人の不断念仏に教化を受けて念仏を唱えているのか」とそのまま立ち去ったと言われている。猿は不断念仏の象徴とされ「身代わり手白猿」とか「身代わり護猿(ござる)」とか呼ばれている。 |
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(写真は 身代わりの手白猿) |
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敦賀城主・大谷刑部の母が寄進したとされる客殿(国・重文)は、京都・伏見城の旧殿を移したもので、屋根は?(こけら)葺きで南面は入母屋造、北面は切妻造となっており、質素で落ち着いた桃山様式を今に伝える数少ない建物である。二列に配置された部屋は、鶴の間、賢人の間、猿猴(えんこう)の間、花鳥の間、上座の間、茶の間などの名がつけられている。 |
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(写真は 明智光秀寄進の総門) |
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こうした近江への思い入れが強かった芭蕉は、元禄7年(1694)大坂で客死したが、生前の遺言により遺体は其角、去来らの門人が義仲寺に運び葬った。義仲と芭蕉の墓が仲良く並んでおり、芭蕉の弟子・又玄(ゆうげん)が「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」と詠んでいる。 |
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(写真は 翁堂) |
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本堂そばの小さな池は芭蕉が「古池や 蛙飛び込む 水の音」と詠んだ「芭蕉の池」。芭蕉は晩年、岩間寺近くの石山の幻住庵に住み、岩間寺に籠もった時にこの句を詠んだ。この当時、俳聖・芭蕉の心をとらえる静寂な空間がこの境内にあったのであろう。 |
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(写真は 古池) |
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