月〜金曜日 18時54分〜19時00分


阪神間のミュージアム 

 阪神間には数多くの公立、私立のミュージアムが多い。今回はその中で美術への深い造詣から収集した人たちの収蔵品を、展示している美術館と文学者に関わりの深いミュージアムを紹介する。


 
逸翁美術館(池田市)  放送 10月24日(月)
 逸翁美術館は阪急・東宝グループの創始者で、政財界に大きな業績を残した小林一三氏(1873〜1957)の雅号「逸翁」を冠して昭和32年
(1957)に開館した。
 小林翁は20歳代から収集を始め、現在の館蔵品は内外の絵画、陶磁器、漆芸品など5000点におよぶ。茶人・逸翁の天性の審美眼と美術、茶道への造詣の深さと熱い思いが、収集品の一品、一品に表れている。小林翁はこれらの収集品を茶会の場などで披露していたが、文化の向上のため美術館での一般公開を計画していた。しかしその実現を直前に他界、その遺志を継いで美術館が実現した。

色絵竜田川文向付(尾形乾山)

(写真は 色絵竜田川文向付(尾形乾山))

五老酔帰図(与謝蕉村)

 2005年12月4日まで開かれている秋季展「雅美と超俗」は、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳・乾山兄弟ら琳派と与謝蕪村・池大雅ら文人画派の絵画が集められ、殊に初公開の蕪村の幻の名作「五老酔帰図」が注目されている。
 みやびで気品ある風情、優美な色彩と洗練されたデザインで瀟洒(しょうしゃ)な世界を作り出している琳派。これに対し世俗を超えた世界を形作り、中国の文人画とは趣の異なる日本人の感性が生み出した独特の画風の文人画派。これら両派の作品の中から精選して展示された作品が鑑賞できる。

(写真は 五老酔帰図(与謝蕉村))

 和と洋の自然な形で融合している逸翁美術館の建物は、小林翁の旧邸「雅俗山荘」をそのままの形で、彼の美術コレクションの展示の場としたもの。そのたたずまいからも小林翁をしのぶことができる。
 小林翁は山梨県韮崎市出身で、明治、大正、昭和時代に関西の財界で活躍、阪急電鉄、阪急百貨店、東宝グループを起こした。太平洋戦争直前には商工大臣、戦後の混乱期には国務大臣復興院総裁として、戦後日本の復興に尽力した。大正3年(1914)に創設した宝塚歌劇の前身・宝塚少女歌劇は、小林翁の人となりを具現したもので、今も宝塚歌劇は小林翁の精神を受け継いでる。

奥の細道画巻 旅立(与謝蕉村)

(写真は 奥の細道画巻 旅立(与謝蕉村))


 
虚子記念文学館(芦屋市)  放送 10月25日(火)
 黒松の林が残る芦屋公園に近い閑静な住宅街の一角にたたずむ虚子記念文学館。この文学館は高浜虚子(1874〜1959)の孫に当たる稲畑汀子氏の住宅の隣にあり、稲畑邸のスパニッシュスタイルに合わせたデザインになっている。
 文学館には虚子の85年にわたる活動と業績の紹介や正岡子規との往復書簡、夏目漱石の「吾輩は猫である」の直筆原稿などが展示されている。図書室では虚子に関する文献などが閲覧できる。玄関から地階への階段の側壁には、寄付者の俳句と名前を呉須で染めつけたタイルの俳磚(はいせん)が飾られている。

「ほとゝぎす」

(写真は 「ほとゝぎす」)

「吾輩は猫である」原稿

 現代俳壇の祖と言われる虚子は、松山市に生まれた。父は松山藩の剣術監を務めた武芸の達人で、能楽もたしなんだ。虚子は父や兄の影響で若い時から能楽に関心が寄せ、演能、能の脚本の執筆など、生涯能楽に深く関わった。また母は虚子が小さいころから古典文学などを語り聞かせており、虚子の叙情性に大きな影響を及ぼした。
 明治24年(1891)学友・河東碧悟桐の紹介で正岡子規の知遇を得て作句を開始、虚子と碧悟桐は子規門下の双璧と目されたが、二人は別の俳句観に基づき異なった道を歩む。虚子は「花鳥諷詠」「客観写生」の理念を確立して時代をリードしていくようになる。虚子はそこから「在間の文学」「極楽の文学」へと思想を発展させていった。

(写真は 「吾輩は猫である」原稿)

 明治31年(1898)には前年に松山で創刊された俳誌「ほとゝぎす」を継承した。俳句だけにとどまらず小説、写生文など文学作品を遺した虚子が編纂した「ほとゝぎす」には、夏目漱石の「吾輩は猫である」が連載され好評を博した。
 小説などに傾倒していた虚子だったが俳句への復帰を決意、守旧派を宣言した。その時に詠んだ句が「春風や 闘志抱きて 丘に立つ」である。虚子は20万句にのぼる俳句や小説、写生文など優れた文学作品を遺したばかりでなく、優れた作家を多く育てている。特筆すべきは大正時代初期に女性に俳句を奨励し、今日の女性俳人隆盛の幕開けになったと言える。
 昭和9年(1934)に本格的な新歳時記を編集して季題に対する見解を明示した。虚子の「花鳥諷詠」「客観写生」の理念は長男・高浜年尾、孫の稲畑汀子に引き継がれ、俳誌「ホトトギス」100年の歴史の中に脈々と流れている。

春風や闘志抱きて丘に立つ 虚子

(写真は 春風や闘志抱きて丘に立つ 虚子)


 
白鶴美術館(神戸市)  放送 10月26日(水)
 住吉川の西岸の町を見下ろす高台に建つ薄緑色の銅葺き屋根、城郭風の堂々たる建物が白鶴美術館。幼いころから古美術を愛した白鶴酒造の7代目・嘉納治兵衛氏(鶴翁)は、昭和初年ごろには相当数の美術品を収集していた。
 当時、収集家の多くが収蔵品を公開することを嫌い、収集家の没後には優れた美術品が散逸する例が多かった。鶴翁はそれを憂い、個人の所有欲を離れて永久に保存されることと、多くの人びとの観賞、研究に役立つことを願って、昭和6年
(1931)に古希を記念して財団法人を設立、昭和
9年(1934)に美術館が開館、私立美術館の先駆けとなった。

本館

(写真は 本館)

白鶴酒造七代 嘉納治兵衛

 鶴翁は奈良市の旧家に生まれ、幼いころから古都・奈良で古美術に親しみ、正倉院展の手伝いなどもしていた。白鶴酒造の当主に迎えられ、酒造業に力を入れるかたわら美術品の収集も続けた。
 所蔵品は1400点におよび、その大半は鶴翁の寄贈によるもので、その中心は中国と日本の古美術品。特に中国の殷、周時代の青銅器は形、文様、銹(さび)色など、いずれも美しい逸品がそろっている。陶磁器は焼物の黄金時代と言われた宋、明時代の優れた作品が多い。ほかに戦国時代から漢時代の漆器、金工品、唐時代の銀器、鏡などにも貴重なものがある。

(写真は 白鶴酒造七代 嘉納治兵衛)

 平成7年(1995)に完成した新館は、ペルシャ(イラン)、トルコ、アフガニスタン、トルクメニスタン、コーカサス(アゼルバイジャン、ダゲスタン)など、中近東の手織り絨毯(じゅうたん)を展示する日本初の絨毯展示館となっている。
 絨毯と一口に言っても作り手、作られる地方によって多岐多様で、イスラム文化の中での絨毯の持つ歴史的意味は奥深いものがある。絨毯の起源は明らかでないが、現存する最古の絨毯は紀元前5世紀のもので、2500年以上の歴史があり、その文様にはそれぞれの地方の民族の独自の文化や民族性が表現されている。白鶴美術館では2005年11月27日まで「古代中国青銅器展」と「文様の宝庫・オリエント絨毯展」が開かれている。

中近東の絨毯

(写真は 中近東の絨毯)


 
西宮市大谷美術館(西宮市)  放送 10月27日(木)
 大谷記念美術館は実業家の故大谷竹次郎氏(元昭和電極社長・現社名エスイーシー)が、長年にわたって収集した美術コレクションと広大な宅地、建物の寄贈を受けて、西宮市が昭和47年(1972)に開館した美術館。昭和52年(1977)には新館とアトリエが完成、平成3年(1991)には約1年をかけて大規模な増改築工事を行い、現在の建物が完成した。
 所蔵作品は大谷氏が収集した当時の日本とフランスの近代絵画を中心の作品群に加えて、地元作家の作品、版画、現代美術、グラフィック、デザインなど多岐にわたる収集がなされている。

大谷竹次郎

(写真は 大谷竹次郎)

西宮市大谷記念美術館

 2005年11月27日まで開催されている「生誕
100年・今竹七郎大百科展」は、神戸市生まれでわが国のグラフィックデザインのパイオニアとして活躍した今竹七郎(1905〜2000)のデザイン原画、デザイン資料、商品パッケージ、絵画など約
200点を展示している。
 神戸大丸のグラフィックデザイナーを皮切りに、関西を離れることなくデザイン界で活躍した大竹氏は多くの作品を残している。ゴムバンド「オーバンド」の茶色と黄色の箱、メンタムのロゴマーク、関西電力の社章など、日ごろ何気なく目にしているデザインが、大竹氏のデザインであることを改めて知らされる。

(写真は 西宮市大谷記念美術館)

 毎年開いている恒例の「イタリア・ボローニヤ国際絵本原画展」は、子供たちからお年寄りまでの幅広い来館者があり、多くの人たちに親しまている展覧会として人気が高い。この展覧会のせいか、普段も他の美術館と違って家族連れ、子供たちの楽しげな姿がここでは見られる。平成9年(1997)から始まった「美術館の遠足〜一日だけの展覧会」は、一日だけと言うこれまでにないタイプの展覧会として注目され、多くの人たちが美術鑑賞を楽しんでいる。
 大谷氏から寄贈された和風邸宅の良さは増改築後もそのまま残し、流れ落ちる滝など水と緑の美しい庭園を持つ美術館として来館者に和みを与えている。観覧者は庭園に展示されているいろいろな作品が鑑賞できる。

庭園

(写真は 庭園)


 
倚松庵(神戸市)  放送 10月28日(金)
 住吉川畔の和洋折衷の家・倚松庵(いしょうあん)は関東大震災で被災し、関西に逃れてきた谷崎潤一郎(1886〜1966)が、昭和11年
(1936)から18年まで3人目の妻・松子と2人の妹と暮らした家。船場の豪商の夫人だった松子と出会い、心をひかれて昭和10年(1935)に結婚し、以後、20年間関西で暮らした。
 倚松庵とは「松によりかかっている住まい」の意味で、谷崎の理想の女性である松子夫人への深い愛が込められている。谷崎が「けふよりは まつの木影をたゞ頼む 身は下草の 蓬(よもぎ)なりけり」「さだめなき 身は住吉の 川のべに かはらぬまつの 色をたのまん」と倚松庵で詠んだ歌は、松子夫人を頼りにしている心境がうかがえる。

倚松庵

(写真は 倚松庵)

1階内部

 谷崎は関東大震災で被災後、芦屋に住む小学生時代の友人を頼って関西へ移り住んだ。関西に嫌悪感を抱いていた谷崎は、東京復興までの仮住まいのつもりだったが、次第に関西の風土、気候、食べ物の味などに引かれて定住することになった。
 谷崎は阪神間で生活する中で「痴人の愛」「蓼喰う蟲」「吉野葛」「春琴抄」などの作品を発表した。松子夫人と出会って以後の谷崎作品には、どれも彼女の影が色濃く出ており、この倚松庵での松子夫人と妹たちの日常を観察して、船場の旧家の美しい四姉妹の物語「細雪」が書き進められた。

(写真は 1階内部)

 松子夫人姉妹と共に「細雪」の重要なモデルの役を果たしたのが倚松庵の部屋で、松子夫人と2人の妹たちの日常の生活や立ち居振る舞いが描写された部屋が、そのままの形で倚松庵に残っている。谷崎が倚松庵に住んだのは7年間だったが、家主とのいざこざがなければ、もっと住み続けていた思われる。倚松庵の明け渡しを巡っていざこざが起こり、谷崎が家主へ書いた詫び状が倚松庵に展示されている。
 谷崎が住んだ倚松庵は、現在地より南150mの所にあったが、道路拡幅工事のため神戸市が買い取り、平成2年(1990)に現在地へ移築した。

2階内部

(写真は 2階内部)


◇あ    し◇
逸翁美術館阪急電鉄宝塚線池田駅下車徒歩10分。 
阪急電鉄宝塚線池田駅からバスで五月丘小学校前下車すぐ。
虚子記念文学館阪神電鉄芦屋駅下車徒歩15分。 
阪急電鉄神戸線芦屋川駅、JR東海道線芦屋駅、阪神電鉄芦屋駅からバスでテニスコート前下車徒歩10分。
白鶴美術館阪急電鉄神戸線御影駅下車徒歩15分。 
阪急電鉄神戸線御影駅、JR東海道線住吉駅からバスで
白鶴美術館前下車。
西宮市大谷記念美術館阪神電鉄香櫨園駅下車徒歩7分。 
阪急電鉄神戸線夙川駅下車徒歩20分。
倚松庵JR東海道線住吉駅下車徒歩12分。 
阪神電鉄魚崎駅下車徒歩6分。
六甲ライナー魚崎駅下車徒歩2分。
◇問い合わせ先◇
逸翁美術館072−751−3865 
虚子記念文学館0797−21−1036 
白鶴美術館078−851−6001 
西宮市大谷記念美術館0798−33−0164 
倚松庵078−842−0730 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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