月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪歴史ウォーク

 大阪城から南の四天王寺にかけての上町台地は、飛鳥時代に難波宮が造営されるなど大阪の歴史を物語る遺跡や文化財、寺院の多い所である。大阪の歴史を知ろうと思えば「上町台地を歩け」とも言われる史跡の宝庫を歩き、大阪の歴史の一端をのぞいてみた。


 
城下町の武家屋敷 放送 10月31日(月)
 豊臣秀吉が天正11年(1583)から大坂城築城を始め、本丸が2年後、二の丸が5年後に完成している。「大坂城図屏風」には大坂城周辺に豊臣の武将たちの屋敷が建ち並び、城下町のにぎわい、人びとの暮らしが生き生きと描かれている。
 現在の大阪の町名や旧町名に大名屋敷の存在を知ることができるものがある。例えば筒井順慶邸の順慶町、細川越中守忠興邸の越中町、浅野紀伊守幸長邸の紀伊国町、龍造寺政長邸の竜造寺町などである。この大名屋敷の周辺には家臣団の屋敷が建ち並び、さらにその周辺には職人、商人、水運業者らの町家があり、大変にぎわっていた。

玉造稲荷神社

(写真は 玉造稲荷神社)

豊臣秀頼 胞衣塚大明神

 前田利家の屋敷があった玉造あたりの玉造稲荷神社は、たびたび兵火で焼失しており、慶長8年
(1603)に豊臣秀頼が再建し、大坂城の鎮守神となった。境内には秀頼の胞衣(えな)塚大明神が祀られている。胞衣とは卵膜、胎盤のことで、当時、胞衣は生まれた子供の分身とされ、屋敷などの大切な場所に埋められ、人に踏ませないようにしたそうだ。
 このあたりには良質の水が湧いたようで、豊臣秀吉の信任の厚かった茶人の千利休が住まいし、邸内には茶の湯に用いる水を汲みあげた井戸があった。利休の屋敷跡は今は民家が建っており、そこには利休が使った井戸が残っていると言う。秀頼寄進の玉造稲荷神社の石鳥居の奥に利休の顕彰碑がある。

(写真は 豊臣秀頼 胞衣塚大明神)

 ここからほど近い路上に残る越中井は、細川越中守忠興の屋敷の台所にあった井戸。忠興の妻・ガラシャ夫人は明智光秀の三女で本名は玉。関ヶ原の戦で東軍の徳川家康についた忠興に対し、西軍の石田三成が諸大名の妻を人質として大坂城に移そうとした。ガラシャ夫人はこれを拒み三成軍に屋敷を囲まれた。夫人は屋敷に火を放ち、家老に長刀で胸を突かせて自決、37歳の生涯を閉じた。越中井の脇には辞世の歌碑が立っており、この屋敷で散ったガラシャ夫人の悲劇がしのばれる。
 越中井の近くにある大阪カテドラル聖マリア大聖堂の入り口には、ガラシャ夫人とキリシタン大名として知られる高山右近の像が立ち、大聖堂内には堂本印象が描いた「最後の日のガラシャ夫人」の絵が掲げられている。

大阪カテドラル聖マリア大聖堂

(写真は 大阪カテドラル聖マリア大聖堂)


 
四天王寺の名建築 放送 11月1日(火)
 推古天皇元年(593)に聖徳太子が創建した四天王寺の堂塔伽藍は、度重なる戦火や天災に遭いながらその度に再建を重ねてきた。天正4年
(1576)織田信長の兵火で諸堂宇を焼失したが、豊臣秀吉、秀頼父子が伽藍を再建した。大坂夏の陣(1615)の兵火にかかった後は、徳川秀忠が本坊方丈、五智光院(いずれも国・重文)を再建している。
 昭和9年(1934)の室戸台風で五重塔、仁王門が倒壊、昭和20年(1945)の空襲で本坊方丈、六時堂、五智光院、元三大師堂などを残して歩どんどの堂塔が焼失、現在の諸堂は戦後に再建されたものである。戦災を免れた建物には名建築多く、国の重要文化財に指定されている。

湯屋方丈(四天王寺)

(写真は 湯屋方丈(四天王寺))

勝鬘院 愛染堂

 徳川秀忠が元和3年(1617)に再建した本坊方丈(湯屋方丈)と五智光院は四天王寺の中でも代表的な名建築。方丈は元は食堂(じきどう)の東にあったものを明治33年(1900)に本坊庭園に移した。現在は客殿として使っている。
五智光院は元は西大門内南側万燈院の北隣にあったものを明治34年(1901)に移転した。大日如来を本尊とする五智如来像を安置し、授戒灌頂会(じゅかいかんじょうえ)を行う道場である。
 ほかに毎日多くの参詣者でにぎわっている六時堂(国・重文)は、元和9年(1623)建立の椎寺薬師堂を文化8年(1811)に移築したもので、昼夜6回、礼賛をすることから六時礼賛堂、略して六時堂を呼ばれている。本坊西通用門(国・重文)は、椎寺薬師堂の西門を明治時代に移築した。

(写真は 勝鬘院 愛染堂)

 四天王寺の支院で大阪に夏を呼ぶ愛染祭りでおなじみの勝鬘院愛染堂(しょうまんいんあいぜんどう)は、「愛染さん」と呼び親しまれている。聖徳太子が四天王寺を建立した時の施薬院の跡に建てられたもので、太子が勝鬘経を講じた場所だったことから勝鬘院と呼ばれるようになった。
 聖徳太子が建立した多宝塔は焼失、現在の多宝塔(国・重文)は文禄3年(1594)に豊臣秀吉が再建したものである。大阪市内最古の木造建築で、品格のある美しい建造物とされている。多宝塔の本尊は大日如来像で、秀吉が朝鮮出兵の時、この大日如来像に戦勝を祈ったと言われている。

大日大勝金剛尊(多宝塔)

(写真は 大日大勝金剛尊(多宝塔))


 
戦国武将の墓所 放送 11月2日(水)
 大阪市天王寺区の松屋町筋から谷町筋にのぼる坂道の石畳の起伏が、蛇を思わせることから口縄坂と呼ばれたこの坂道の沿道に珊瑚寺がある。本能寺の変の後、羽柴秀吉と柴田勝家が織田信長の後継者を争った賤ヶ岳の戦(1583)で軍功を挙げた桑山重晴の菩提寺。
 重晴は慶長3年(1598)に出家し、珊瑚寺の本堂を再建して秀吉の木像を安置した。慶長11年(1606)83歳の高齢で没し珊瑚寺に五輪塔が建てられている。

珊瑚寺

(写真は 珊瑚寺)

桑山重晴の墓

 重晴は尾張国の生まれで、賤ヶ岳の戦の後、但馬国竹田城主となり、ついで秀吉の弟・秀長の城代として紀州・和歌山城に入った。関ヶ原の戦では家督を譲った孫の一晴と三男・貞晴が徳川方につき、その子孫は徳川幕府の時代まで続いた。
 賤ヶ岳の戦の軍功が象徴するように武人として名をはせた重晴だが、千利休の高弟としての茶人でもあり、文化人としての素養もあった。また、後の一族にも茶人や画家など文化人が出ている。

(写真は 桑山重晴の墓)

 珊瑚寺の北東、谷町筋に面した吉祥寺は、赤穂義士の寺として有名だが、秀吉の信任が厚かった蜂須賀小六の墓のあった所。だが、吉祥寺にあった小六の墓は領地の徳島に移されて今はない。
 蜂須賀小六は尾張国の生まれで、羽柴秀吉が織田信長の家臣の時、「墨俣の一夜城」として有名な墨俣城の築城に協力して信長に認められ、秀吉の家臣となった。
その後、秀吉の朝倉攻めや中国攻め、四国攻めなどで軍功挙げ、四国・阿波国を与えられた。孫の至鎮(よししげ)が関ヶ原の戦で徳川方につき、蜂須賀家は阿波の国主として幕末まで続いた。

吉祥寺

(写真は 吉祥寺)


 
大坂城三の丸 放送 11月3日(木)
 大坂城と言えば豊臣秀吉が天正11年(1583)から大坂・石山本願寺跡に築いた城だが、現在の大阪城は江戸時代初めに徳川幕府が再築した城である。秀吉の築いた大坂城は慶長20年(1615)の大坂夏の陣で落城、豊臣家は滅亡した。
 その後、大坂は幕府直轄地となり、元和6年
(1620)徳川2代将軍秀忠が大坂城の再建を始めた。秀忠は普請奉行の藤堂高虎に「石垣も堀も旧城の倍にせよ」と命じ、これまでにない巨石も多く使用され、約10年かけて大坂城は再建された。再建された大坂城は、城郭の面積こそ豊臣時代の5分の1に縮小されたが、石垣や天守閣の高さは豊臣時代のものを圧倒した。

大坂城三の丸石垣

(写真は 大坂城三の丸石垣)

大阪市立 東中学校

 現在目にする大阪城の石垣は秀吉が築城した時のものと誰しも思うが、地上に残る石垣はほとんど徳川幕府が再建したものである。徳川秀忠は大坂城再建の際、大幅な盛り土をして豊臣時代の石垣などは地下に封じ込めた。
 秀吉は最晩年の慶長3年(1598)大坂城防衛強化のため、外堀のさらに外側に三の丸を作らせ石垣を巡らしたが、この石垣は大坂冬の陣の講和条件として徳川方に取り壊され、地中深く埋められてしまった。平成元年(1989)になって天守閣北西にあたる大阪府立女性総合センター建設の発掘調査で、地表下2mのところに東西21mにわたる野面(のづら)積みの石垣が発見された。

(写真は 大阪市立 東中学校)

 発掘調査で発見された三の丸の石垣は復元されて展示されており、豊臣時代の面影をしのぶことができる。石垣に使われている石は、生駒山系と六甲山系の花崗岩の自然石で大きさは不揃い。三の丸の堀に落ち込んだ瓦や漆喰、土壁片が見つかっており、石垣に沿って塀が巡らされていたと推定されている。  大阪城の南西、大阪市中央区大手前4丁目にある東中学校の体育館の地下には、三の丸工事にともなって行われた武家屋敷地造成にかかわる遺構と見られる石垣が保存されている。このあたりの土地は当時、南東が高く、北西に低かったが、石垣を築いて平らにして屋敷地を作り出したと見られている。

豊臣大坂城三の丸遺構

(写真は 豊臣大坂城三の丸遺構)


 
徳川氏の町 放送 11月4日(金)
 天王寺公園にある高さわずか8mほど茶臼山は、前方後円墳とも言われている。
この茶臼山が豊臣氏滅亡の戦となった慶長19年(1614)大坂冬の陣では徳川家康が本陣を置き、翌年の夏の陣では豊臣方の勇将・真田幸村が本陣を置いた所である。
 冬の陣で徳川軍は初め住吉神社付近に本陣を置いていたが、大坂城に対し眺望のよい茶臼山に陣を移し20万人の大軍で大坂城を包囲した。大坂城周辺で双方が激突したが、結局は豊臣方が屈服する形で和睦となった。大坂冬の陣図屏風には、茶臼山の徳川方の大規模な本陣が描かれている。

茶臼山

(写真は 茶臼山)

茶臼山稲荷神社

 冬の陣の翌年の夏の陣では、豊臣方の真田幸村が茶臼山に本陣を置いた。この時の軍勢は徳川方15万人、豊臣方5万5000人で、兵力から見ても豊臣方に勝ち目はなかった。しかし、幸村の「狙うは徳川家康の首」との決死の猛攻に、家康も一時は陣から逃げ出したと言われている。だが、幸村も力尽きて戦死、大坂城は落城して豊臣氏は滅亡した。
 夏の陣終了後、家康は茶臼山の山上に旗を立て、麓に諸将が集まって戦勝を祝した。茶臼山の北西、堀越神社境内の茶臼山稲荷社はかつては茶臼山にあったが、夏の陣後に現在地に祀られた。家康は夏の陣で茶臼山稲荷に危機を救われたと篤く信仰したと言う。

(写真は 茶臼山稲荷神社)

 徳川幕府3代将軍・家光は寛永11年(1634)大坂城に入って、大坂三郷の地子銀(固定資産税)免除を宣言した。当時の大坂三郷の地子銀は年間178貫934匁と言う巨額で、これが永久に免除されると言うので町民は大感激した。この恩恵に感謝し、それを忘れぬために時を知らせる釣鐘(高さ1.9m、直径1.1m、重さ3トン)を作った。
 鐘楼は4回も焼失したが、鐘は無事だった。だが、明治3年(1870)に時の鐘は廃止され、釣鐘はあちこちを転々としていたが、昭和60年
(1985)地元有志の努力で、大阪市中央区釣鐘町の釣鐘屋敷跡に鐘楼が建設され元の場所へ戻った。現在は朝8時、正午、日没の3回、コンピューター制御で時を知らせている。

仁政の鐘(釣鐘屋敷跡)

(写真は 仁政の鐘(釣鐘屋敷跡))


◇あ    し◇
玉造稲荷神社、越中井、
大阪カテドラル聖マリア大聖堂・
カトリック玉造教会
JR大阪環状線、
地下鉄中央線・長堀鶴見緑地線森ノ宮駅下車徒歩10分。
四天王寺、愛染堂勝鬘院地下鉄谷町線四天王寺前夕陽ケ丘駅下車徒歩5分。
JR天王寺駅、地下鉄天王寺駅、近鉄南大阪線
阿部野橋駅下車徒歩15分。
珊瑚寺、吉祥寺地下鉄谷町線四天王寺前夕陽ケ丘駅下車徒歩5分。
大阪城地下鉄谷町線天満橋駅又は谷町4丁目駅、
地下鉄中央線森ノ宮駅又は谷町4丁目駅、
地下鉄長堀鶴見緑地線大阪ビジネスパーク駅下車。
JR環状線森ノ宮駅
又は大阪城公園駅、東西線大阪城北詰駅下車。
京阪電鉄天満橋駅下車。
茶臼山、堀越神社JR天王寺駅、地下鉄天王寺駅、
近鉄南大阪線阿部野橋駅下車徒歩5分。
時の鐘京阪電鉄、地下鉄谷町線天満橋駅下車徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
玉造稲荷神社06−6941−3821
大阪カテドラル聖マリア大聖堂・
カトリック玉造教会
06−6941−2332
四天王寺06−6771−0066
愛染堂勝鬘院06−6779−5800
珊瑚寺06−6779−9180
吉祥寺06−6771−4451
堀越神社06−6771−3101
時の鐘06−6941−3364

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

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