|
月〜金曜日 18時54分〜19時00分 |
|
大阪歴史ウォーク |
大阪城から南の四天王寺にかけての上町台地は、飛鳥時代に難波宮が造営されるなど大阪の歴史を物語る遺跡や文化財、寺院の多い所である。大阪の歴史を知ろうと思えば「上町台地を歩け」とも言われる史跡の宝庫を歩き、大阪の歴史の一端をのぞいてみた。 |
|
|
||||
|
||||
|
||||
ここからほど近い路上に残る越中井は、細川越中守忠興の屋敷の台所にあった井戸。忠興の妻・ガラシャ夫人は明智光秀の三女で本名は玉。関ヶ原の戦で東軍の徳川家康についた忠興に対し、西軍の石田三成が諸大名の妻を人質として大坂城に移そうとした。ガラシャ夫人はこれを拒み三成軍に屋敷を囲まれた。夫人は屋敷に火を放ち、家老に長刀で胸を突かせて自決、37歳の生涯を閉じた。越中井の脇には辞世の歌碑が立っており、この屋敷で散ったガラシャ夫人の悲劇がしのばれる。 |
||||
(写真は 大阪カテドラル聖マリア大聖堂) |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|
||||
四天王寺の支院で大阪に夏を呼ぶ愛染祭りでおなじみの勝鬘院愛染堂(しょうまんいんあいぜんどう)は、「愛染さん」と呼び親しまれている。聖徳太子が四天王寺を建立した時の施薬院の跡に建てられたもので、太子が勝鬘経を講じた場所だったことから勝鬘院と呼ばれるようになった。 |
||||
(写真は 大日大勝金剛尊(多宝塔)) |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|
||||
珊瑚寺の北東、谷町筋に面した吉祥寺は、赤穂義士の寺として有名だが、秀吉の信任が厚かった蜂須賀小六の墓のあった所。だが、吉祥寺にあった小六の墓は領地の徳島に移されて今はない。 |
||||
(写真は 吉祥寺) |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|
||||
発掘調査で発見された三の丸の石垣は復元されて展示されており、豊臣時代の面影をしのぶことができる。石垣に使われている石は、生駒山系と六甲山系の花崗岩の自然石で大きさは不揃い。三の丸の堀に落ち込んだ瓦や漆喰、土壁片が見つかっており、石垣に沿って塀が巡らされていたと推定されている。 大阪城の南西、大阪市中央区大手前4丁目にある東中学校の体育館の地下には、三の丸工事にともなって行われた武家屋敷地造成にかかわる遺構と見られる石垣が保存されている。このあたりの土地は当時、南東が高く、北西に低かったが、石垣を築いて平らにして屋敷地を作り出したと見られている。 |
||||
(写真は 豊臣大坂城三の丸遺構) |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|
||||
徳川幕府3代将軍・家光は寛永11年(1634)大坂城に入って、大坂三郷の地子銀(固定資産税)免除を宣言した。当時の大坂三郷の地子銀は年間178貫934匁と言う巨額で、これが永久に免除されると言うので町民は大感激した。この恩恵に感謝し、それを忘れぬために時を知らせる釣鐘(高さ1.9m、直径1.1m、重さ3トン)を作った。 |
||||
(写真は 仁政の鐘(釣鐘屋敷跡)) |
||||
|
||||
|
◆歴史街道とは
|
歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
|
◆歴史街道倶楽部のご紹介 歴史街道推進協議会
|