|
月〜金曜日 18時54分〜19時00分 |
|
橿原市・大和三山 |
藤原宮を守るかのように北に耳成山(139.7m)、南西に畝傍山(199.2m)、南東に香久山 |
|
|
||||
|
||||
|
||||
山腹に鎮座する耳成山口神社は、地元の人たちの雨乞いの信仰を受けていた。明治時代以前は天神社と呼ばれていた。大和盆地のどこからでも見える美しい姿の耳成山は、古代から神が座す山として敬われ、人びとは麓から拝んでいたのであろう。 |
||||
(写真は 雨乞いの絵馬) |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|
||||
藤原京跡からの出土品は、藤原京の全体像を紹介したパネルや映像などとともに、藤原京の東にあたる奈良文化財研究所資料室に展示されている。 |
||||
(写真は 奈良文化財研究所) |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|
||||
椎根津彦命は敵中を通り抜け、天香久山まで行きこの土を持ち帰り祭祀土器を作らせた。このことから陶祖神とされ陶芸家らから崇められている。後世になって椎根津彦命は香久山のどのあたりの土を持って行ったのかが議論された。日本書紀の記述からは山頂の国常立神社付近の土と見られており、今もこの付近では粘土質の土が採取できる。 |
||||
(写真は 畝尾都多本神社) |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|
||||
本薬師寺跡に残る金堂の礎石や東西両塔の土檀から伽藍の配置や規模は、平城京西の京の薬師寺とほぼ同一のものであったと考えられる。また、藤原京の京内に大寺が計画的に配置されたのは、初めて条坊制を敷いた計画的な都市づくりの一端と見ることができる。この寺は藤原京が完成したのと同じ時期に建立されたので、藤原薬師寺とも呼ばれていた。 |
||||
(写真は 東塔跡) |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|
||||
畝傍山の東麓と西麓には古墳が多い。神武天皇陵のほかに綏靖(すいぜい)天皇陵、イトクの森古墳、西麓には懿徳(いとく)天皇陵、安寧(あんねい)天皇陵、スイセン塚古墳などが点在している。またその周辺には久米、忌部、曽我など古代氏族と同じ地名の集落があり、古墳はこれらの豪族との関わりを示している。 |
||||
(写真は 畝傍山登山口) |
||||
|
||||
|
◆歴史街道とは
|
歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
|
◆歴史街道倶楽部のご紹介 歴史街道推進協議会
|