月〜金曜日 18時54分〜19時00分


養父市、朝来市 

 兵庫県北西部の養父、八鹿、関宮、大屋の4町が平成16年4月1日に合併して養父市が誕生、同じく兵庫県中北部の朝来、生野、和田山、山東の4町が平成17年4月1日に合併して朝来市が誕生した。今回のこの新しく誕生した二つの市の文化財や芸術、自然などを訪ねた。


 
鉢伏山(養父市)  放送 11月14日(月)
 但馬の名の起源は「谷間の国」に由来するとも言われるように、養父市の市域は1000m級の山また山が連なっている。市西部の北端、合併前の旧関宮町と香美町の旧美方町、旧村岡町の旧3町との境にそびえる鉢伏山は標高1221m。この鉢伏山と氷ノ山の懐に抱かれた草原地帯はハチ高原と呼ばれている。関西でも有数のスキー場として知られ、冬はスキー客で大にぎわいとなる。今、スキーシーズンに備えスキーリフトなどの整備などが始まっている。

ハチ高原

(写真は ハチ高原)

鉢伏山

 夏は高原リゾート地となり、自然を楽しむ家族連れのハイキングやキャンプ、スポーツのトレーニング合宿、林間学校などでにぎわい、氷ノ山や鉢伏山への登山を楽しむ人も多い。
 鉢伏山へはハチ高原を経て、頂上まで約2時間で登ることができ、頂上からは360度の大パノラマの絶景が楽しめる。またハチ高原を周遊するハイキングコースなどが整備されており、晩秋から初冬にかけて積雪までのひとときを大自然の中で過ごせる

(写真は 鉢伏山)

 ハチ高原にある別宮(べっく)の集落から鉢伏山への登山道を進むと、ほどなく大カツラの木(兵庫県指定天然記念物)に出会う。1本の株が地上1〜2mのところから80本余りの幹に分かれて伸び、高さは約27m、幹回りは15m近くもある。
 別宮への入口にあたる葛畑(かずらはた)地区には、農村歌舞伎の舞台がある。江戸時代後期の安政5年(1858)に、地元の人たちが葛畑座をつくり公演したとの記録が残っており、ほかに歌舞伎衣装、浄瑠璃本なども伝わっている。現在の舞台は明治25年(1892)に再建した茅葺き入母屋造りの建物。

大カツラ

(写真は 大カツラ)


 
名草神社(養父市)  放送 11月15日(火)
 標高1142mの妙見山の8合目、800mの高さに位置する名草神社は、6世紀中期の飛鳥時代、敏達天皇のころに創建されたと伝えられる古社。五穀豊穰を司る名草彦大神を主祭神に七柱の神を祀っている。
 鳥居前の広場に建つ高さ23.9mの三重塔(国・重文)は、もとは出雲大社境内にあったもので、出雲国の守護・尼子経久が大永5年(1525)から3年がかりで建立して寄進した。江戸時代になって出雲大社本殿改築のために、妙見山の巨杉を用材とした提供したお礼に、寛文5年(1665)現在地に移築された。三層目の軒下に「見えざる」「言わざる」「聞かざる」に加えて「思わざる」の4匹の猿が彫られているユニークな塔である。

三重塔

(写真は 三重塔)

本殿

 境内の最も高い場所に位置する本殿は、江戸時代中期の宝暦4年(1754)に再建されたもので、日光東照宮様式を取り入れた建物。正面中央の柱の上には口を押さえた獅子と耳を押さえた獅子、向かい合った一対の獅子、玉を握った龍、屋根を担ぎ上げるよう姿の力童子、鳳凰など精巧な彫刻が施されている。
 本殿前の拝殿は江戸時代初めの元禄元年
(1688)に建立された中央に通路がある割拝殿で、石垣の上に建つ優雅な姿の建物である。拝殿右の社務所も元禄8年(1695)に建てられた古い建物で、玄関には左甚五郎作と伝えられる龍の彫り物がある。

(写真は 本殿)

 名草神社は江戸時代までは神仏習合の妙見宮として、妙見信仰の霊場であり山陰地方の総本宮として栄えていた。妙見とは北極星(北辰)や北斗七星(北斗)を神仏として祀るもので、武家を中心に信仰を集めてきた。本殿の屋根にもある七曜星の神紋もこの妙見信仰に由来している。
 三重塔の横に高さ57m、幹回り14.5m、樹齢
1500年と言われ、国の天然記念物に指定されていた夫婦(めおと)杉がそびえていたが、平成3年(1995)の台風で倒れその姿を消した。今はその根株が残っており、すぐそばの夫婦杉記念館に夫婦杉の巨木が展示されている。

かぐや姫

(写真は かぐや姫)


 
あさご芸術の森美術館(朝来市)  放送 11月16日(水)
 朝来市も養父市と同じく山地が大きな割合を占める地形となっている。旧朝来町の関西電力の雄大なロックフィル式の多々良木ダム直下にあるのが、野外彫刻公園と美術館からなる「あさご芸術の森美術館」。朝来町出身の世界的彫刻家・淀井敏夫氏(1911〜2005)の記念美術館となっている。
 淀井氏の多くの作品が屋内外に常設展示されているほか、広大な彫刻公園のあちこちには、多彩なアーティストたちの奇抜とも言える26基の作品群が展示されており、その造形は子供たちも充分に楽しめそうだ。

あさご芸術の森美術館

(写真は あさご芸術の森美術館)

動力空間―2つの領域(内田靖之)

 淀井氏は旧朝来町佐中の出身で東京芸術大学で彫刻を学び、同大学の教授、美術学部長を務め、平成13年(2001)に文化勲章を受章した。
 美術館とその屋外に展示されている淀井氏の作品と一緒に26人の彫刻家の作品が野外に展示されている。自然の広い空間に独創的で個性あふれる作品が並び、散策を楽しみながら作品が鑑賞できる。野外のすべての作品を鑑賞するには約2時間近くかかる。

(写真は 動力空間―2つの領域(内田靖之))

 あさご芸術の森美術館では常設展示のほかに企画展覧会を開催したり、芸術講座を開いて絵画や陶芸の指導をしている。近くにはキャンプ場もあり、芸術を鑑賞した後は自然の中でのひとときを楽しむことができる。
 美術館の真上にある自然石を積み上げたロックフィル式多々良木ダムは、兵庫県の市川と円山川の分水界一帯の地形的特徴を利用して作られ、多々良木ダムの上にある黒川ダムとの落差を利用した揚水式発電所がある。6基の発電機の総出力は
193万2千キロワットで、揚水発電所としてはわが国最大である。

MY FAMILY(中岡慎太郎)

(写真は MY FAMILY(中岡慎太郎))


 
生野銀山(朝来市)  放送 11月17日(木)
 旧生野町と言えば「生野銀山」と言われたほど銀山と共に発展してきた鉱山の町である。生野銀山は平安時代初期の大同2年(807)に発見されたと伝えれているが、それを裏付ける資料はなく定かでない。
 室町時代に但馬国の守護職・山名祐豊の時代に銀鉱脈が発見され、山名氏が銀山を経営していたと見られる。その後、戦国時代に入って織田信長、豊臣秀吉が銀山を経営、江戸時代には徳川氏が天領として本格的な銀山開発を進めた。徳川幕府は生野代官を置いて最盛期を迎えた銀山経営に当たり、佐渡金山、石見銀山と並んで幕府の宝庫となった。明治時代にはいるとフランス人技師のフランソワ・コワニエを招き、採掘や鉱石の運搬などにフランスの技術を採り入れて近代化を図った。

フランソワ・コァニェ

(写真は フランソワ・コァニェ)

捲揚室

 明治22年(1896)に民間の三菱合資会社に払い下げられ、大正、昭和時代には日本有数の鉱山として金、銀、銅、鉛、亜鉛、スズなどを産出したが、ついに鉱石が枯渇して昭和48年(1973)に閉山に至った。
 戦国時代から430年間にわたって掘り進められた坑道は地下880mの深さ、東海道新幹線の新大阪駅から静岡駅近くまでの距離に匹敵する350
kmまで達している。国の史跡に指定された生野銀山跡は現在、観光資源として坑道の一部が一般公開され、坑内には江戸時代から現代までの採掘作業の様子が人形を使って再現されている。江戸時代の坑道は人が一人やっと通れるほどのもので、岩肌にはノミの跡が今も生々しく残っており、つらい坑内作業がしのばれる。

(写真は 捲揚室)

 鉱山資料館には、坑内から出土した江戸時代の雁木(がんぎ)、はしご、竹とい、精錬に使ったふいごのほかに、坑内の模型、鉱石の標本、銀山の様子を描いた江戸時代の絵巻物など、生野銀山に関わる資料が展示されている。近くには国内産出の鉱石標本を集めたわが国最大級と言われている生野鉱物館もある。
 江戸時代、公用で生野の代官所を訪れた一般の旅人が宿泊するために、6軒の「郷宿(ごうしゅく)」が設けられていた。そのうちの1軒、井筒屋が修復され資料と共に一般公開されている。井筒屋の当主・吉川氏は江戸時代、生野銀山の有力な山師で、生野代官所から銀山の採掘権を与えられていたこの地方の有力者であった。鉱山町の当時の様子を知ることができる。

生野まちずくり工房 井筒屋

(写真は 生野まちずくり工房 井筒屋)


 
竹田城(朝来市)  放送 11月18日(金)
 夜明けとともに雲海に浮かぶように姿を現すのが標高353mの古城山の竹田城跡。山頂に虎が伏したように見えることから虎伏(とらふす)城とも呼ばれていた中世の典型的な山城の遺構。
 竹田城は室町時代の但馬国の守護職・山名持豊(宗全)が、中国の大内氏、播磨の赤松氏、丹波の細川氏らの諸勢力に備えて、配下の太田垣氏に命じて嘉吉3年(1443)から13年間の歳月をかけて築いた山城で、大田垣氏が初代の城主になった。天下統一を狙っていた織田信長は天正5年(1577)羽柴秀吉に命じて播州を攻略させて平定、その勢いに乗って但馬も攻めさせ、秀吉と弟の秀長の軍勢によって竹田城は落城した。

竹田城跡

(写真は 竹田城跡)

穴太積み

 築城当時の竹田城は砦のような城で、石垣はなく土塁で囲まれていた。豊臣時代にはいって天正13年(1585)に龍野から移ってきて城主となった赤松広秀が、秀吉の援助を受けて城を改築した。
 天守台を中央に本丸、二の丸、三の丸、大手門、北千畳、南の二の丸、南千畳、平殿、花屋敷などが南北400m、東西100mにわたって築かれた。その姿は鳥が両翼を広げたように見える。山城としての規模は全国一と言われ、国の史跡に指定されている。竹田城の石垣は自然石をそのままの形で積み重ねる穴太(あのう)積みで、その豪壮な石垣は今もそのままの姿で残っており、往時の威容をしのばせている。

(写真は 穴太積み)

 赤松広秀は竹田城主となった後も、秀吉の小田原攻め、二度にわたる朝鮮出兵にも参戦した。関ヶ原の戦では石田三成の西軍に属して丹後・田辺城を攻めたが、西軍の敗戦で広秀も敗者となった。だがその直後、徳川方として鳥取城攻撃に加わり戦功をあげたが「鳥取城下に火を放ち市中を焼いた」と徳川家康の怒りに触れ、その責任をとってこの年に自刃させられた。
 その後、竹田城は廃城となりその領地は徳川幕府の天領となった。広秀は領民から「仁政の君主」として慕われており、広秀の死後、領民はその死を悼み旧八鹿町に塚を作り毎年法要を営んでいたと言う。竹田城下の寺町通りにある法樹寺には広秀の供養塔が建てられている。

赤松広秀墓所(法樹寺)

(写真は 赤松広秀墓所(法樹寺))


◇あ    し◇
鉢伏山JR山陰線八鹿駅からバスで大久保下車徒歩2時間。
名草神社JR山陰線八鹿駅からバスで石原下車徒歩2時間。
あさご芸術の森美術館JR播但線新井駅からタクシーで10分。 
JR播但線新井駅下車徒歩1時間。
生野銀山JR播但線生野駅からバスで小野下車徒歩15分。
生野まちづくり工房・井筒屋JR播但線生野駅下車徒歩10分。 
竹田城跡JR播但線竹田駅下車徒歩40分。 
法樹寺JR播但線竹田駅下車徒歩5分。 
◇問い合わせ先◇
養父市役所商工観光課079−664−0285 
名草神社079−662−2793 
朝来市役所商工観光課079−672−4003 
あさご観光協会079−677−2112 
あさご芸術の森美術館079−670−4111 
生野町観光協会079−679−2222 
生野銀山079−679−2010 
生野まちづくり工房・井筒屋079−679−4448 
和田山町観光協会079−672−4003 
法樹寺079−674−2448 

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  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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