月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和歌山市・城下町和歌山 

 和歌山市街地の真ん中に天守閣がそびえる和歌山城は、江戸時代には徳川御三家のひとつ、紀州徳川家の居城として威容を誇っていた。和歌山市はもとより紀州藩の領地だった和歌山県下には、徳川家にゆかりのある史跡や文化財などが多い。今回はその中心地・和歌山市内の史跡や社寺を訪ねた。


 
和歌山城・豊臣から徳川へ  放送 11月28日(月)
 和歌山は水戸、尾張と並ぶ徳川御三家のひとつ、紀州徳川家・紀州藩55万5千石の城下町として発展した。和歌山市の中心にある標高48.9mの虎臥山(とらふすやま)にそびえる和歌山城は、紀州徳川家の居城として知られているが、天正
13年(1585)紀州を平定した豊臣秀吉が、築城の名手と言われた藤堂高虎に命じて城を築いたのが始まり。その城を異父弟の秀長に与えたが、秀長は大和郡山城を居城としていたため、重臣の桑山重晴を城代とした。
 関ヶ原の戦で豊臣方が敗れ、この戦で軍功のあった徳川方の浅野幸長が和歌山城主となり、内堀、石垣などの増築、修築を行い、城下に商工業者らを集めて城下町を整備した。

和歌山城

(写真は 和歌山城)

石垣の刻印

 その後、元和5年(1619)徳川家康の第十子・徳川頼宣が入城して、徳川御三家・紀州藩の藩祖となり、明治維新まで徳川家が和歌山城主として紀州藩を治めた 初代紀州藩主となった頼宣は、すぐに城の増改築に着手し、まず天守閣をはじめ城郭の大拡張を行い、徳川幕府西国支配の拠点としての役割を担った。大手門も城の東南にあった岡口門(国・重文)から東北の一の橋の門に変更して大手門とした。
また、南の丸に高石垣を築き、城下町の範囲も拡張して整備した。こうした大規模な城の増改築が幕府からにらまれ、謀反の嫌疑がかけられる羽目になったが、家老・安藤帯刀の懸命の弁明で事無きを得た。頼宣は48年間の藩主時代に250年間におよぶ紀州藩の繁栄の基礎を築いた。

(写真は 石垣の刻印)

 和歌山城は桑山、浅野、徳川のそれぞれの城主が築城、城郭の増改築を進めたため、城内各所の石垣は野面積み、切り石積み、算木積みなど、それぞれの時代によって石垣の形態が異なっている。工事を担当した大名や石工の刻印がある石があるなど、和歌山城の歴史を石垣が物語っている。
 頼宣が築いた天守閣は弘化3年(1846)落雷で焼失した後、嘉永3年(1850)に再建されたが、第2次世界大戦の戦災で焼失した。昭和33年
(1958)現在の鉄筋コンクリート造りの天守閣が再建された。天守閣の1、2階は郷土資料館、物産展示場となっており、紀州徳川家ゆかりの武具、絵画、古文書類が展示されている。和歌山城周辺は和歌山公園として市民に開放され、県立博物館、県立近代美術館などがある。

天守閣

(写真は 天守閣)


 
和歌山城・西の丸庭園  放送 11月29日(火)
 和歌山城天守閣の北西にあたる藩主が暮らした西の丸御殿跡の南に西の丸庭園がある。紀州藩祖・徳川頼宣が築造したもので、昔から紅葉渓(もみじだに)庭園の名で親しまれており、国の名勝に指定されている。
 ひなびた茅葺きの門をくぐると、浅野幸長が築いた内堀の一部と虎臥山(とらふすやま)の地形を巧みに利用した起伏に富んだ庭が広がっている。豊かな緑の中に三つの滝が落ちて渓流となり、意匠を凝らした橋の下をくぐって池に注ぎ込んでいる。無数のコイがのどかに泳ぐ池には美しい出島と巨大な舟石が浮び、柳島のある堀池、緑や紫色などの紀州の名石を使った豪快な石組みが、起伏に富んだ地形にマッチするよう配されている。

西の丸庭園(紅葉渓庭園)

(写真は 西の丸庭園(紅葉渓庭園))

鳶魚閣

 堀池に浮かぶ鳶魚閣(えんぎょかく)は、4本の花崗岩の石柱を池の中に立て、その上に建てられた木造宝形造り桧皮(ひわだ)葺きの建物。庭園と池によく調和した鳶魚閣だが、特に雨の日には煙るような水面に浮かぶ鳶魚閣の姿が格別だと言われている。高台に建つ?(こけら)葺きの休憩所の御腰掛、渓流に架けられた紅葉溪橋など石橋、土橋などを園内に配し、雅趣豊かな庭園に仕上げている。
 紅葉渓庭園の静かなたたずまいとその眺めは、和歌山市街地の中にいることを忘れさせてくれる。特に秋には紅葉の名所として大勢の人が訪れるが、最近は温暖化の影響で紅葉の時期がだんだん遅くなり、見ごろは12月に入ってからになると言う。

(写真は 鳶魚閣)

 庭園内の茶室「紅松庵」は、和歌山市の名誉市民だった故松下幸之助氏が寄贈した。荒廃していた紅葉溪庭園が、昭和48年(1973)3年がかりの復元整備工事でよみがえり、この庭園復元を記念して松下氏が茶室を建てて昭和49年(1974)に寄贈した。
 平屋建て数寄屋造りの茶室には、茶座席、立礼席が用意されている。茶の作法を知らない人でも、和服姿の女性が点ててくれる抹茶が、気軽にいただける立礼席があるのはありがたい。茶室から眺める苔におおわれた庭園は、四季折々にその趣を異にしている。庭を眺め、渓流を流れる水の音に耳を傾けながらの一服は、大名気分にひたれるひとときなので、ぜひ一度どうぞ。

茶室 紅松庵

(写真は 茶室 紅松庵)


 
紀州東照宮  放送 11月30日(水)
 和歌山市内には紀州藩時代の名残の史跡が随所に見られる。そのひとつ、和歌浦のアーチ型の石橋「不老橋」は嘉永4年(1851)に建造された。この橋は5月中旬に行われる東照宮の例大祭・和歌祭の時に徳川家や東照宮の関係者が、片男波の東照宮御旅所へ向かう「お成り道」に架けられた。
 橋台のアーチ部分は肥後国・熊本の石工集団が作り、勾欄部分は紀州国・湯浅の石工・石屋忠兵衛が製作したとされ、勾欄部分の雲を文様化したレリーフの彫刻は優れたものとして注目されている。江戸時代に架けれらたアーチ型の石橋は、九州地方以外では非常に珍しいと言われる。

紀州東照宮

(写真は 紀州東照宮)

正面軒唐破風

 紀州東照宮は初代紀州藩主として元和5年
(1619)に入国した徳川頼宣が、その翌年、南海道の総鎮護として和歌浦を望む権現山の中腹に社殿の造営を始め、元和7年(1621)完成した。祭神として父・家康を祀り、東照大権現と称していたが、後に東照大権現の宮号が定められので、東照宮と呼ばれるようになった。
現在は祭神として家康と頼宣の父子が祀られており、市民からは「権現さん」と呼び親しまれている。
 緑濃い木々の間の青石が敷き詰められた参道を抜けると、侍坂と呼ばれる急な石段がある。人の煩悩の数と同じ108段を登り詰め、朱塗りの楼門をくぐると「関西の日光」とも呼ばれる桃山風の極彩色も鮮やかな壮麗、豪華な権現造りの社殿が現れる。

(写真は 正面軒唐破風)

 漆塗りの本殿のほか拝殿など7棟の建物は、江戸時代初期の代表的建築として国の重要文化財に指定されている。社殿には左甚五郎が腕をふるった極彩色の精巧な龍虎の彫刻、狩野、土佐両派の画家によるふすま絵などが残っている。また鎌倉時代の多くの太刀や家康の具足など、国の重要文化財を含む社宝も数多い。
 和歌山市で最大の祭、東照宮の例大祭の和歌祭は、昔は家康の命日の4月17日に行われていたが、現在は5月中旬の土、日曜日に和歌山商工祭の一環として行われている。祭神の家康、頼宣の御霊を乗せた2基の神輿を中心に約500mの渡御行列が続き、その中にはそれぞれ伝統芸能を披露しながら進む集団があり、これらを見物する人たちで沿道はにぎわう。

欄間

(写真は 欄間)


 
報恩寺  放送 12月1日(木)
 和歌山城の南方にある紀州徳川家の菩提寺の報恩寺は、慶長14年(1609)に要行院日忠上人が建立した要行寺が始まりと言う。
 紀州藩初代藩主・徳川頼宣の夫人・瑶林院(ようりんいん)は、加藤清正の5女に生まれ、16歳で頼宣に嫁して寛文6年(1666)65歳で没し要行寺に葬られた。2代藩主・光貞が母の追善のため、要行寺の諸堂伽藍を整備して報恩寺と改め、紀州徳川家の廟所を設けた。

「矢作町より御城迄の図」(和歌山県立図書館 蔵)

(写真は 「矢作町より御城迄の図」
             (和歌山県立図書館 蔵))

御成門

 南国らしいソテツの大木の植わった境内から葵の御紋のついた御成門をくぐり、長い石段を登り詰めると「徳川家御廟」にたどり着く。ここには瑶林院のほかに光貞夫人の天真院、吉宗夫人の寛徳院はじめ、側室、歴代藩主の子女らの墓が居並ぶ。
 この報恩寺は和歌山城下唯一の武士寺としての役目も果たしてきた。なお、初代藩主・頼宣の墓は海南市下津町(旧下津町)の長保寺にある。

(写真は 御成門)

 山門右の鐘楼にある鐘(和歌山県指定文化財)は、2代藩主・光貞が16歳で亡くなった娘の光姫の冥福を祈って鋳造した梵鐘である。
 寺宝として瑶林院愛用の琴や琵琶、茶器などがあり、夫人の趣味の深さがうかがえる。ほかに藩主らの書など紀州徳川家ゆかりの品々が多い。

徳川家御廟

(写真は 徳川家御廟)


 
紀州手まり  放送 12月2日(金)
 「てんてんてんまり てんてまり てんてんてまりの てがそれて…」。西条八十作詞・中山晋平作曲の童謡「まりと殿様」で歌われた手まりは、垣根を越え、屋根を越えて表の通りへ飛んで行き、お国入りの紀州の殿様の行列に出くわす。
 和歌山児童合唱団の少年、少女たちが米国・ロサンゼルスで日系人たちの前で、この「まりと殿様」を合唱したことがある。誰もが幼いころに口ずさんだことのあるこの童謡を聴いたお年寄りたちは、涙を流して「日本へ帰りたくなった」と話したと言う。故郷での思い出がいっぱい詰まったこの童謡に、感無量の気持ちが一度にこみあげたのだろう。

紀州手まり

(写真は 紀州手まり)

手まりづくり

 てまりは日本古来の伝統美を持つ工芸品で、平安時代末期ごろから御殿まりとして姫君たちに愛好され、御殿女中たちが姫君のために技を競い合って作った。
 紀州でも初代紀州藩主・徳川頼宣のころから幼くして嫁入りした姫たちのために手まりが作られた。御殿女中たちが宿下がりした時、自分の娘たちにも手まりを作ってやったのが、城下の町民たちの間にも広がった。色彩と模様の組み合わせで無限に表情を変える色鮮やかな紀州手まりは、雅で心を和ませてくれる。今では観賞用や室内の装飾品として販売されているが、ひと針、ひと針ずつ丁寧に刺繍を縫い込んでゆく作り方は昔と変わっていない。

(写真は 手まりづくり)

 紀州手まり会の人たちは「根気のいる作業ですが、簡単に作れますよ」と言っており、手ほどきを受けてオリジナルな紀州手まりを作る人もいると言う。
 「まりと殿様」を作詞した西条八十は「紀州と旅した時、ミカンが実る日うららな紀州の感慨を無心な幼児の手まりの動きに託した」と記しており、和歌山城天守閣前の広場に「まりと殿様」の歌碑がある。ちなみに殿様の行列の前に飛んで行った手まりは、殿様に抱かれて紀州へ旅をして「赤いミカンになった」と最終の歌詞で結ばれている。

青木瀑布美さん宅

(写真は 青木瀑布美さん宅)


◇あ    し◇
和歌山城JR紀勢線和歌山駅、南海電鉄和歌山市駅からバスで
公園前下車すぐ。
JR紀勢線和歌山駅下車徒歩15分、
南海電鉄和歌山市駅下車徒歩10分。
紀州東照宮JR紀勢線和歌山駅、南海電鉄和歌山市駅からバスで
権現前下車徒歩5分。
報恩寺JR紀勢線和歌山駅、南海電鉄和歌山市駅からバスで
日赤医療センター前下車徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
和歌山市観光協会073−433−8118 
和歌山城管理事務所073−435−1044 
和歌山城天守閣073−422−8979 
和歌山城西の丸庭園
(紅葉渓庭園)
073−431−8648
紀州東照宮073−444−0808 
報恩寺073−422−9446 
紀州手まりの会073−424−7588 

◆歴史街道とは

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

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