月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪市・キタ 

 大阪市の北の玄関口としてターミナルを中心に高層ビル群やデパートが建ち並び、繁華街がにぎわう大阪・キタだが、史跡や文化財も少ない。都市近代化の波に押し流されて隅に追いやられたり、忘れられてしまっているものも多い。キタに残る由緒ある社寺や温もりのある町を訪ねて見た。


 
お初天神  放送 12月5日(月)
 大阪・キタの曽根崎・梅田地域の総鎮守、お初天神として親しまれている露天神社は、1300年昔の創建と伝わる古社。はるか昔の大阪湾に浮かぶ八十島(やそしま)のひとつの小島に「住吉須牟地曽根ノ神」が祀れており、この祭神の名前から曽根洲と呼ばれた。
 その後、大阪湾は徐々に埋め立てが進み、南北朝時代には曽根洲は陸続きとなり、曽根崎の地名が生まれた。埋め立て地では農業が営まれ、この付近は曽根崎村となり神社も村の産土(うぶすな)神として村人から崇敬され、後には露天神社として信仰を集めた。明治時代になってこの地に現在のJR大阪駅、阪急電鉄梅田駅が開業して、大阪の北の玄関口、中心街へと発展し、露天神社も梅田・曽根崎の総鎮守社となった。

露天神社(お初天神)

(写真は 露天神社(お初天神))

菅原道真木像

 昌泰4年(901)筑紫の太宰府へ流される途中の菅原道真が福島に船泊まりした時、露天神社の近くにある太融寺に参詣した。その道すがら、道端の草の露に都を思い出し「露と散る 涙に袖は 朽ちにけり 都のことを 思い出ずれば」と詠んだことから、露天神の名が起こったと言われている。他に入梅の時期に露天神社の祭礼が行われることから「露(梅雨)天神」と言ったとか、境内にある難波七名井のひとつ「神泉・露の井戸」が、梅雨の時期になると清水が涌きあふれることから「露(梅雨)天神」と呼んだとか、いろいろな説がある。
 大坂夏の陣で焼失した社殿が元和8年(1622)に再建された時に菅原道真が合祀された。現在の社殿は第2次世界大戦の空襲で焼失後、昭和32年(1957)に再建されたものである。

(写真は 菅原道真木像)

 「お初天神」の名は近松門左衛門の「曾根崎心中」から生まれた。江戸時代中期の元禄16年
(1703)大坂・内本町の醤油商平野屋の手代・徳兵衛と堂島新地の遊女・お初が、この社の天神の森で心中した。これを近松門左衛門が浄瑠璃「曾根崎心中」に書き上げ、道頓堀の竹本座で上演した文楽が大当たりを取った。心中を美化した近松の世話物は浪速の人たちの心を動かし、心中事件の舞台となった露天神は、以後お初天神の方が通り名となってしまった。今も徳兵衛とお初の回向や恋の成就を願って参詣する男女が多い。
 お初天神の近くのそば屋「瓢(ひさご)亭」には、梅の香と千切り山芋、針ショウガの風味が自慢の「お初そば」がある。このお初そばはそば粉にゆずの皮をおろして混ぜて打つ「夕霧そば」の姉妹品である。

夕霧そば(瓢亭)

(写真は 夕霧そば(瓢亭))


 
太融寺  放送 12月6日(火)
 大阪の人ならキタの太融寺と聞けば、つい歓楽街を連想してしまうが、このお寺は弘仁12年
(821)弘法大師・空海が、嵯峨天皇から下賜された念持仏の千手観音像を本尊として創建した古刹。その後、嵯峨天皇の皇子・源融(みなもととおる)が八町四方を寺域とした広大な境内に七堂伽藍を建立し、その威容を誇っていた。
 だが、都市化が進につれて、境内地は削られ、周囲はビル群に囲まれる状態になってしまった。当時の寺域をしのぶものとして、寺の周辺に太融寺町、堂山町、神山町、扇町、野崎町、兎我野町などの地名が、太融寺との関わりを示している。

本尊 千手観音菩薩

(写真は 本尊 千手観音菩薩)

一願不動明王

 創建後、難波の名刹として参詣者でにぎわっていた太融寺は、慶長20年(1615)大坂城が落城した大坂夏の陣の際、兵火で諸堂が全焼した。元禄年間(1688〜1704)に七堂伽藍が復興し「北野の太融寺」として信仰されるようになった。昭和20年(1945)第2次世界大戦の大空襲で再び堂塔伽藍すべてが灰燼に帰してしまった。戦後、復興に着手し本堂、大師堂、不動堂など20余棟の諸堂が次々に再建され、現在の寺観を整えた。
 二度にわたる火災で堂塔はすべて焼失したが、幸い本尊の千手観音像は難を免れ無事だった。この本尊は秘仏で、毎年1月18日の初観音の日にだけ開扉され、観音像を拝観することができる。厨子の前には御前立ちの千手観音像が安置され、お参りの信者を迎えている。

(写真は 一願不動明王)

 もうひとつ、2度の火災をくぐり抜けてきたのが願不動明王の石像。空襲で焼け落ちた瓦礫の中に横たわっていた不動明王は、今は奥の院の洞窟内に安置され、戦後に再刻された石造・不動明王像が不動堂に祀られている。一願成就のご利益があると信仰されている一願不動尊で、不動明王像の周囲を黙々とお百度を踏み、願をかけている信者の姿が見られる。
 境内の一隅に大坂夏の陣で落城した大坂城で、秀頼と共に自刃して果てた淀殿の墓がある。淀殿の遺骨は初め大坂城外の鴫野の弁天島の淀姫神社に祀られていたが、明治時代初めに陸軍の練兵場(現大阪城公園)建設に伴い、豊臣ゆかりの太融寺に移され、九輪塔(戦災で欠落し現在は六輪塔)を建立して祀られた。

淀殿の墓

(写真は 淀殿の墓)


 
綱敷天神社  放送 12月7日(水)
 太融寺にほど近い綱敷天神社は、周囲はキタの歓楽街の店にすっかり取りかこまれているが、創建は1160年前と言われる由緒ある神社。平安時代初期の承和10年(843)源融(みなもととおる)が、太融寺に七堂伽藍を興した時、嵯峨天皇追悼のために神野太神宮を創建したのが始まり。
 神仏習合思想の信仰によって綱敷天神社は太融寺と深い関係にあって共に栄えてきたが、第2次世界大戦の空襲で社殿は焼失し、戦後、再建されたコンクリート造りのしゃれた社殿がビルの間に建っている。

綱敷天神社 御旅所

(写真は 綱敷天神社 御旅所)

神宝「御綱」

 菅原道真が左遷されて九州・筑紫の太宰府へ向かう途中、淀川の川尻に船を着け、古来より梅林の美しいこの地の梅を愛でるためにこの社に立ち寄った。その時、道真は梅の木の下に渦のように巻いた船の網を敷き、即席の円座としたことから綱敷天神の社名となった。道真の没後、菅公の霊を祀り天神社としたが、円座に使われた長さ5.5m、太さ8.3cmの麻綱は「御綱」と呼ばれ、神宝として秘蔵されている。すっかり茶色に変色して時の流れを表している綱は、古代の綱の編み方を知る資料として関心が持たれている。

(写真は 神宝「御綱」)

 道真がこの神社に立ち寄った時、土地の農民が道真にユリワと言う器にダンゴを盛って出したところ、道真はこのもてなしを大層喜んだと言われている。今も神社の例祭にはユリワにダンゴを盛って祭壇に供えている。
 元梅田コマ劇場の裏手にある綱敷天神社の境外末社の歯神(はがみ)社は、元は農耕神して祀られ、淀川の決壊をこの付近で歯止めしたことから歯神社の名になった。今は、歯の神様として歯痛にご利益があるとお参りをする人が多い。

歯神社

(写真は 歯神社)


 
中崎町・温もりの路地裏  放送 12月8日(木)
 JRや阪急電鉄、阪神電鉄、地下鉄の駅、路線バス、高速バス乗り場が集中するターミナル・梅田は大阪市の北の玄関。そのターミナルの東側に接する中崎町は歩いてもすぐ。ターミナル周辺の高層ビルが林立する喧騒の繁華街とはまったく異なる、静かさと生活感が漂うレトロな雰囲気の町である。大阪の中心街と目と鼻の先にこのようなところがあることを知る人は少ない。
 戦前の大阪市は、町全体が長屋の町であったが、第2次世界大戦の空襲でほとんどの長屋が焼かれた。中崎町は奇跡的に戦災を免れ、長屋と路地の風景が今も残っている貴重な存在と言える。

ぎゃらりぃ 楽の虫

(写真は ぎゃらりぃ 楽の虫)

Salon de 天人

 この中崎町にここ数年、長屋に惹かれて集まってきた人たちが開いたカフェ、雑貨店、古着屋などがそこここに見られるようになり、これらの店を訪れるいろんな人たちで独特な雰囲気を醸し出すようになっている。
 中崎町に新しい動きを吹き込んだ草分的存在と言えるのが、倉庫だった長屋を改修して平成9年
(1997)にオープンアートギャラリー「楽の虫」。4年後には2号店のねこアートと手作り雑貨の店「RAKUNOMUSI」も店開きした。店を訪ねるアーティストや客たちが、中崎町の魅力を外へ発信してくれ、年々、ここに新しい店を開く人たちが集まってきた。

(写真は Salon de 天人)

 変化しつつある中崎町でひときわ特徴的な存在となっている「Salon de AManTO天人(あまんと)」は、お年寄りから子供まで様々な世代、業種の人たちが集まる公園のようなサロン。長屋の改修工事には近所の人や口コミで集まった延べ1129人が関わった。1階のカフェでは映画、ビデオの上映やコンサート、落語会、トークサロンが開かれ、片隅にはミニFM局もある。2階は文化教室となっており、陶芸や民族音楽、文学などの講座が開かれている。
 中国雑貨を並べた「シノワズリー・モダンショップ」もすっかり大阪の下町にとけ込んでおり、こうした長屋を改造した三十数軒の店がある中崎町は、一日中ぶらついていても飽きない町となっている。

シノワズリー・モダンショップ

(写真は シノワズリー・モダンショップ)


 
大川沿いの散歩道 放送 12月9日(金)
 淀川が都島区毛馬町で南へ別れた大川の両岸は、きれいに整備された水の都にふさわしい絶好の遊歩道となっている。この遊歩道を北へ進み、都島橋で都島本通へ上がって東にとると都島神社がある。
 社伝によると平安時代末期の永暦元年(1160)この地を訪れた後白河法皇が、毛馬、友渕など近隣8カ村の守護神としての神社創建を命じ、8カ村の農民が協力して建立したと言われる神社。古くは天照大神を主神として多くの神を祀っていたので十五神社と言われていたが、昭和18年(1943)都島神社に改称された。
旧社殿は第2次世界大戦の空襲で焼失し、昭和
24年(1949)に再建された。

石造宝篋印塔(都島神社)

(写真は 石造宝篋印塔(都島神社))

国分寺

 境内の高さ3.6m余りの石造三重宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、鎌倉時代末期の嘉元2年
(1304)の銘があり、大阪市内で最古の石造物と言われている。3層の屋根の四隅に突起した飾りをつけ、塔身には仏像や梵字を刻んだ非常に珍しい形式のもので、大阪府有形文化財に指定されている。
 この都島神社の地から大川を挟んで西側の長柄の地は、飛鳥時代の大化元年(645)孝徳天皇がこの地に難波長柄豊崎宮を造営して大化の改新を発布した所との説がある。しかし、大阪城の南側の難波宮跡が発掘調査の結果、豊崎宮造営地との説が有力視されている。

(写真は 国分寺)

 長柄豊崎宮で没した孝徳天皇の菩提を弔うため、孝徳天皇の同母姉の斉明天皇(皇極天皇が重祚)が、斉明5年(659)この地に長柄寺を建立した。この長柄寺は天平13年(741)聖武天皇が発した一国一寺の国分寺創建の詔勅によって国分寺と改称された。国分寺建立は地方に取っては大変な負担で、新たな寺を建立することができず、苦肉の策としてその地方の大寺を国分寺に改称した所が多く、長柄寺もこのケースと言える。
 長柄の国分寺は大坂夏の陣で焼失して再建されたが、昭和20年(1945)には第2次世界大戦の空襲ですべての建物が灰燼に帰し、昭和40年
(1965)にやっと現在の堂宇が再建された。

薬師三尊像

(写真は 薬師三尊像)


◇あ    し◇
露天神社(お初天神)JR大阪駅、阪急電鉄、阪神電鉄梅田駅、地下鉄御堂筋線
梅田駅、谷町線東梅田駅、四つ橋線西梅田駅下車徒歩7分。
太融寺、綱敷天神社、中崎町JR大阪駅、阪急電鉄、阪神電鉄梅田駅、地下鉄御堂筋線
梅田駅、谷町線東梅田駅四つ橋線西梅田駅下車徒歩10分。
都島神社地下鉄谷町線都島駅下車徒歩3分。 
国分寺地下鉄堺筋線、谷町線天神橋筋6丁目駅下車徒歩7分。 
大阪駅から大阪市バスで長柄国分寺下車すぐ。
◇問い合わせ先◇
露天神社(お初天神)06−6311−0895 
瓢亭(お初そば、夕霧そば)06−6311−5041
太融寺06−6311−5480 
綱敷天神社06−6361−2887 
ぎゃらりぃ・楽の虫06−6374−8933 
サロン・ド・天人(あまんと)06−6371−5840
シノワズリー・モダンショップ
(中国雑貨)
06−6372−7700
都島神社06−6921−5496 
国分寺06−6351−5637 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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