月〜金曜日 18時54分〜19時00分


熊野市 

 黒潮流れる熊野灘に面した熊野市は、海の幸、山の幸に恵まれた町である。海岸沿いには熊野灘の荒波に浸食された奇岩や巨岩、七里御浜などの景勝地が続き、山間部には渓谷美の瀞峡(どろきょう)などの名勝をかかえている。最近は観光地としての注目度が高くなっている熊野市を訪れた。


 
徐福伝説 放送 12月12日(月)
 熊野灘に面し、三方を山に囲まれた熊野市波田須(はだす)の里は、古くは「秦栖(はたす)」「秦住(はたす)」と記されていた。今から2200年以上もの昔、秦の始皇帝から「不老不死の仙薬を求めて来い」との命を受けた徐福が、大船団を率いて東方へ船出した後、上陸したのがここ波田須と言われている。
 徐福は呪術師、祈祷師、薬剤師を合わせたような中国では方士とされる人物で、農耕、養蚕、医学、造船、捕鯨、製鉄、陶磁器、紙すき、機織などの技術も身につけていた。こうした徐福は高度な中国文明を縄文時代から弥生時代への過渡期だった波田須の里人にもたらしたとされている。

徐福の宮

(写真は 徐福の宮)

徐福の墓

 徐福は死後、波田須の人びとから「殖産の神」として崇められた。今は海を見下ろす波田須の蓬莱山に徐福の宮が建っており、宮の傍らには徐福の墓がある。付近には徐福が捜し求めていた仙薬かも知れない天台烏薬(てんだいうやく)が茂っている。地元の人たちは「徐福さん」と呼び親しんで信仰しており、徐福の宮や墓の周囲はいつもきれいに掃き清められている。
 徐福は伝説上の人物とされているが、司馬遷が著した中国の正史「史記」には「始皇帝の命を受けて不老不死の薬を求めて船出したが、帰ってこなかった」と記されている。また中国政府の調査によって徐福村の存在が明らかになり、徐福は伝説上の人物から実在の人物へと評価が変わってきた。

(写真は 徐福の墓)

 波田須が徐福上陸の地であることを示すものとして、徐福の宮に徐福らが焼いたとされるすり鉢が神宝として伝わっている。また参道修復工事中に出土した数枚の古銭は、日本国内では非常に珍しい始皇帝の時代に造られた「半両銭」であることがわかった。
 徐福は波田須でしばらく暮らした後、南隣の新宮に移り住んだと言われている。新宮市にも徐福の墓があり、徐福公園には徐福像が立っている。徐福の渡来地は全国に20数カ所も伝えられている。これは徐福が3000人の男女や百工を伴った大船団で出航しており、それぞれの船が別々の所に漂着し、日本各地に徐福伝承地が伝わったと考えられている。

神宝「摺鉢」

(写真は 神宝「摺鉢」)


 
熊野古道・伊勢路  放送 12月13日(火)
 熊野三山の熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社に詣でる熊野古道にはいくつかのルートがあるが、東紀州を南西に抜ける三重県側の伊勢路は、和歌山県側の紀州路とともに代表的な熊野古道であった。紀州路は上皇、天皇、貴族らが通った道であるのに対し、伊勢路は伊勢参りを終えた多く人びとが、熊野詣をした庶民の道であった。
 徐福伝説で有名な熊野市波田須から大吹峠を越えて、大泊に抜ける伊勢路の波田須に残っている苔むした石畳の道は、鎌倉時代に作られたとされる伊勢路では最も古い石畳の熊野古道。

鎌倉時代の石畳

(写真は 鎌倉時代の石畳)

猪垣

 石のひとつひとつが幅2mほどもある重厚な石畳で、熊野詣の人たちが踏んだ石の真ん中はすり減っている。残っている石畳はわずか300mほどだが、世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」の中でも貴重な存在と言える。
 大吹峠へ登って行くと道の両側に竹林が広がり、しっとりとした雰囲気に変わる。熊野古道には杉林、桧林などが多いが竹林は珍しい。この竹林の中をぬって歩を進めると、あちこちにイノシシやシカから農作物を守るために石を積んだ「猪垣(ししがき)」の跡が見られる。この地方には猪垣が多いが、大吹峠付近の猪垣は特に長く延々と10kmも続いている。

(写真は 猪垣)

 大吹峠からいったん大泊まで下った伊勢路は、さらに鬼ケ城の山手側を越えて木本に至る松本峠へと向かう。松本峠から西へ少し下った梅林あたりは伊勢路の中でも最も眺めのよい所で、なだらかに弧を描いて延々と25kmも続く七里御浜の海岸線を望むことができる。この七里御浜は「白砂青松百選」「21世紀に残したい日本の自然百選」「日本渚百選」などに選ばれている景勝地である。
 松本峠に立っている身の丈約6尺(約1.8m)の石のお地蔵さんには鉄砲の弾の跡がある。江戸時代、この峠を朝のうちに越えた鉄砲の名人が、帰りに峠にさしかかったところ突然、目の前に大きなお地蔵さんが現れた。さては妖怪の仕業かと思って撃ったが、実はこの地藏さんは、鉄砲の名人が朝、通った後にここに据えられたばかりだったと言う。

松本峠

(写真は 松本峠)


 
岩に宿る神々  放送 12月14日(水)
 熊野には人びとに恐れを抱かせてきた奇岩、巨岩が数々存在する。延々と弧を描く七里御浜の北端から熊野灘に突き出した鬼ケ城(国指定の天然記念物、名勝)は、石英粗面岩の大岩壁が熊野灘から打ち寄せる荒波の浸食と幾度かの大地震によって、奇怪な洞窟群に形を変えたものである。
 その昔、多蛾丸(たがまる)と言う海賊がここに隠れ住み、付近の住民を苦しめていたが、坂上田村麻呂に征伐されたと言う伝説が、いかにももっともらしく思われる所である。鬼ケ城の波打ち際には約1kmの遊歩道が整備されており、熊野灘から打ち寄せる波の音を聞きながら鬼ケ城探訪ができる。

鬼ヶ城

(写真は 鬼ヶ城)

獅子岩

 遊歩道沿いには鬼の岩屋又は千畳敷と呼ばれる高さ15m,広さ1400平方mもある洞窟のほかに、犬戻り、猿戻り、鬼の見張り場、鬼の風呂桶、潮吹き、飛渡り、蜂の巣岩などと名づけられた、自然が造りあげた岩の芸術が続いている。
 やはり黒潮の浸食と海岸の隆起が造り上げた高さ25m、周囲210mの獅子岩(国指定の天然記念物、名勝)は、まさしく海に向かって咆哮(ほうこう)する獅子の頭部に見える。この巨岩は獅子岩の北を流れる井戸川上流の山間部にある大馬神社の阿吽(あうん)の狛犬とされている。阿の岩が獅子岩、もう一つの吽の岩は近くの神仙洞の人面岩と言われているが、これもマグマによって造り出された自然の芸術である。

(写真は 獅子岩)

 花の窟(いわや)神社の御神体となっている高さ
70mの巨岩の花の窟にも圧倒される。この巨岩を御神体とする自然崇拝、原始信仰の形を今に伝えているもので、日本国の祖神・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御陵とも言われている。
 毎年2月2日と10月2日の神社の祭礼には、古代から伝わる「お綱かけ神事」が行われる。長さ約160mの綱にワラ縄で編んだ幡旗三流れをさげ、その幡に花や扇を結びつけてつるし、御神体の岩の頂上から前方の松の木まで渡す。この綱は御神体の伊弉冉尊と現世の人びとを結び、神の恵みをいただくためのものと言われている。

イザナミノミコトの御陵(花の窟)

(写真は イザナミノミコトの御陵(花の窟))


 
海の幸と山の幸  放送 12月15日(木)
 熊野市は東紀州で唯一、海に面していない紀和町と2005年11月1日に合併して、海と山の恵みが一層豊かなものになった。
 黒潮流れる熊野灘は魚の宝庫で熊野市北東部の遊木港ではサンマ漁が盛んである。秋の終わりには三陸沖から南下してきてほどよく油が抜け、スリムになったサンマがよく捕れる。浜辺ですだれのようにぶらさげられて銀色に光るサンマの天日干しの光景は、この地方の秋の風物詩となっている。東紀州ではこのサンマで作る「サンマ寿司」や「サンマの丸干し」が特産品。特にサンマ寿司は母から娘へとそれぞれの家庭の味が伝授され「わが家のサンマ寿司が一番」とその味を自慢している。

サンマの天日干し

(写真は サンマの天日干し)

丸山千枚田

 山側の旧紀和町を代表する風景に丸山の千枚田がある。小さな水田が山の斜面に沿って連なる千枚田の眺めはのどかで美しい。この千枚田がいつごろ造られたのかはわからないが、関ヶ原の戦の翌年の慶長6年(1601)には、すでに7ha、2200枚の千枚田があったとの記録がある。
 傾斜地の千枚田は機械化が難しいため、ほとんどが手作業の過酷な労働と、農家の高齢化に伴って耕作者が減っていった。そこへ国の減反政策が追い撃ちをかけ、大幅に減少して一時は550枚になったいた。旧紀和町は平成6年(1994)に「丸山千枚田条例」を制定して、地元の千枚田保存会と協力して復興に務めた結果、1340枚にまでに復田した。

(写真は 丸山千枚田)

 こうしてよみがえった千枚田は、町外の人たちにも千枚田オーナーになってもらい、田植え、収穫などを楽しんでもらいながら耕作を確保している。春には水を入れて千枚田祭の田植え、夏には青々とした千枚田が広がり、秋には収穫の喜びを味わう稲刈りの集い、冬にはうっすらと雪化粧する千枚田が見られることもあり、四季折々の表情を見せる千枚田は、町の観光客誘致にも一役買っている。
 水田のうち20分の1以上の傾斜があるものを「棚田」と言い、棚田が連なっているものを千枚田と言う。農水省によると棚田は全国に約22万1000haあるが、機械化が困難なことから年々耕作をあきらめる農家が増え、棚田は減り続けていると言う。

めはり寿司

(写真は めはり寿司)


 
鉱山の町残照  放送 12月16日(金)
 熊野市に合併した旧紀和町はかつては国内屈指の銅鉱山を持つ鉱山の町として知られていた。その歴史は古く、奈良時代には東大寺の大仏造立のためにここから多くの銅が献上されたと言われている。古い坑道の石の壁に南北朝時代の年号「延元二」の文字が刻まれており、この時代には採鉱活動が盛んだったことを示している。江戸時代に入って銅鉱石の採鉱が増え、銅を精錬する「熊野床」と呼ばれる精錬技術も開発された。
 昭和時代初めには大手企業が鉱山開発に乗りだし、先駆的な最新技術を導入して採鉱量を増やし、日本国内の銅鉱山の中で6〜7位の銅生産量となった。

鉱山廃坑

(写真は 鉱山廃坑)

外人墓地

 昭和19年(1944)6月、捕虜となったイギリス兵約300人が連行され、鉱山作業に使役された歴史がある。終戦までの1年2ヶ月間に16人のイギリス兵が異国の地で亡くなった。当時の収容所跡に外人墓地墓が作られ、十字架の墓標が建てられている。
 紀和町の主要産業で日本の産業発展に大きく貢献した銅鉱山だったが、昭和53年(1978)ついに閉山となり、今は多くの坑道跡や選鉱場跡が最盛期の鉱山町の面影を伝えている。奈良時代から続いた鉱山の歴史や民俗、伝統文化を後世に伝えようと、旧紀和町は町制40周年記念事業として鉱山資料館を建設、平成7年(1995)にオープンした。

(写真は 外人墓地)

 資料館内には江戸時代の採掘現場とそこで仕事をした人びとの様子が、人形や模型を使ってリアルに再現されている。鉱石を運んだトロッコも展示されている。
紀和町内には南北朝時代から刀作りをしていた入鹿鍛冶がいたが、その入鹿鍛冶の歴史や作品の刀、槍なども資料館に展示されている。廃坑になった竪坑をエレベーターで地底深く降りて行き、坑道内の様子を肌で感じとる疑似体験もできる。
 鉱山資料館から南西に進むと山峡の中で露天風呂が楽しめる入鹿温泉や湯ノ口温泉があり、清流を眺めながら旅の疲れを癒すこともできるので「どうぞ」と地元の人たちは勧めている。

選鉱場跡

(写真は 選鉱場跡)


◇あ    し◇
徐福の宮、徐福の墓JR紀勢線波田須駅下車徒歩10分。 
大吹峠JR紀勢線波田須駅下車徒歩30分。 
鬼ケ城JR紀勢線熊野市駅からバスで鬼ケ城東口下車徒歩5分。
獅子岩JR紀勢線熊野市駅下車徒歩10分。 
花の窟JR紀勢線熊野市駅からバスで花の窟下車すぐ。 
遊木港JR紀勢線新鹿駅からバスで遊木下車すぐ。 
丸山の千枚田JR紀勢線熊野市駅からバスで千枚田・通り峠入口下車
徒歩30分。
鉱山資料館JR紀勢線熊野市駅からバスで板屋下車すぐ。 
◇問い合わせ先◇
熊野市役所観光交流課0597−89−4111 
熊野市役所紀和庁舎05979−7−1112 
熊野市観光協会0597−89−0100 
鬼ケ城センター0597−89−4141 
鉱山資料館05979−7−1000 

◆歴史街道とは

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