月〜金曜日 18時54分〜19時00分


柏原市 

 大阪府の中央東部にあって奈良県と接する所に位置する柏原市は、古代から、朝鮮半島からの渡来人が住み、大陸文化の影響を受けた証しとして多くの古墳が存在している。また奈良時代に建立された古社寺も多く、古くから河内文化の中心地として栄えた。江戸時代には大和川を利用した船運の終着駅、物資の集散地、陸路の奈良街道の交通の要衝として繁栄した。


 
大和川今昔  放送 12月19日(月)
 京都、奈良府県境の笠置山地南部に源を発する大和川は、奈良盆地から生駒山系南部の峡谷を通って河内平野に抜け、柏原市で北流してきた石川と合流、堺の北から大阪湾に注ぐ全長68kmの河川。
 昔は重い荷物の運送は陸路より船を利用する方がはるかに効率的だったので、飛鳥、奈良に都があった時代は難波津から大和川を上って都へ物資が運ばれた。中国や朝鮮半島からの文物も大和川を上り、都へ大陸文明を伝えた。飛鳥時代に伝来した仏教の仏像が船運を使って飛鳥の都へ伝えられたと言われており、大和川沿いの奈良県桜井市は仏教伝来の地とされている。

竜王社

(写真は 竜王社)

亀の瀬

 江戸時代の大和川には干イワシ、酒、油粕、綿などを積んだ剣先船と呼ばれる船が往き来していた。剣先船は大坂から奈良への府県境で急流になっている亀の瀬まで積み荷を運んだ。ここで奈良県側の魚梁(やな)船と呼ばれる川船に積み替え、上流の大和まで運んだ。
 大和川を航行していた剣先船は約300艘ほどあり、石川を往き来する剣先船が26艘あった。剣先船は20〜30石積みの大型船で、後に登場する柏原船は小型で10石積みだった。剣先船は明治時代に亀の瀬の水路開削が行われ、積み替えなしで大阪〜大和間を往き来できるようになったが、陸上交通の発達や鉄道の開通ですたれて行った。

(写真は 亀の瀬)

 大和川は江戸時代の元禄16年(1703)に付け替え工事が始まり、翌年の宝永元年(1704)に現在の水路につけ替えられる以前は、大雨毎に幾度も氾濫し、川沿いの住民は田畑や家を流され困窮していた。
 この地を治めていた志紀郡の代官・末吉孫左衛門は、川船の運航による利益と柏原村を物資の集散地とすることで、水害からの復興を計画した。地元の庄屋3人に準備をさせ、銀17貫を準備金として貸し与え、寛永13年(1636)40艘の川船で平野川筋にかけて柏原と大坂の間の物資運搬を始めた。これが「柏原船」と呼ばれるもので、4年後には70艘に増えた。こうして柏原村は見事に復興し、江戸時代の繁栄ぶりがうかがえる町家のひとつ「三田家住宅(国・重文)」が残っている。

三田家住宅

(写真は 三田家住宅)


 
大和川・大治水工事  放送 12月20日(火)
 江戸時代の元禄年間(1688〜1704)までの大和川は、石川との合流点から北流して大坂城東側から淀川に流れ込んでいた。流域の川底には土砂が堆積して天井川となり、大雨毎に堤防が決壊したり、氾濫を繰り返していた。低湿地帯に住んでいた流域住民は、その度に家や田畑を流される甚大な被害を受け、その日の暮らしにも事欠くほど困窮し、難儀を極めていた。
 この水害から村人たちを救うため、大和川と石川の合流地点から北への流れを、河内平野を二つに割るように新しい川を作って西へ流し、堺の北から大阪湾に流れ込むようにする大和川の付け替え案が、1650年ごろから持ち上がった。しかし、徳川幕府はこの工事を認めなかった。

堤切所付箋図(洪水の被害状況・中九兵衛 蔵)

(写真は 堤切所付箋図
(洪水の被害状況・中九兵衛 蔵))

中甚兵衛

 当時の河内郡今米村(現東大阪市今米)の庄屋・中甚兵衛らは、何度も幕府へ嘆願書を出したが、新しい川筋に当たる住民の反対などもあって、この付け替え工事はなかなか認められなかった。
 貞享4年(1687)新しい代官として就任した万年長十郎が、大和川付け替え工事に理解を示し、積極的に幕府に働きかけてくれた結果、幕府の勘定奉行が新川予定地を視察し、元禄16年(1703)大和川付け替え工事が認められた。宝永元年
(1704)2月に着工され、甚兵衛も幕府の役人らと一緒にこの付け替え工事を陣頭指揮した。昼夜兼行で工事は進められ、その年の10月に新大和川が遂に開通し、洪水による水害に悩まされていた住民の悲願が達成された。

(写真は 中甚兵衛)

 新大和川建設で約275haの田畑が失われたが、旧大和川流域の水害はほとんどなくなり、住民は安心して暮らせるようになったほか、新田開発も進み約1000haの新しい田畑が誕生した。
 柏原市内には旧大和川の流域住民を水害から救った中心人物の中甚兵衛の銅像が立っている。甚兵衛がつけ替え工事を指揮した時に着用していた、鹿皮の陣羽織が柏原市立歴史資料館に展示されており、この陣羽織には「水」の字が3つの書体で書かれている。歴史資料館には甚兵衛が幕府に提出した嘆願書の下書きなど、着け変え工事に関する資料が展示されている。柏原市の治水記念公園には大和川付替記念碑が立っている。

中甚兵衛着用の鹿革陣羽織

(写真は 中甚兵衛着用の鹿革陣羽織)


 
幕末の私塾・立教館  放送 12月21日(水)
 明治時代に学制が発布されるまでの江戸時代の教育機関は、武家の子弟を中心とする藩校と庶民のための寺子屋私塾、郷学があった。藩校は大名が設けた学校で18世紀前期に始まり、18世紀後半には急増した。大阪府下では藩校を設けていたのは6藩で柏原市周辺では丹南藩(松原市)の丹南学校、狭山藩(大阪狭山市)の簡修館があった。
 郷学や寺子屋私塾は、町の人たちが出資して校舎を建て、基礎的な学問を教えたものである。大阪府内では含翠堂(大阪市東住吉区平野)、堺郷学校(堺市)と文政13年(1830)に現在の柏原市国分に拓殖常煕(つげじょうき)開いた「立教館」が代表的な学校だった。

立教館

(写真は 立教館)

国分本町

 常煕は16歳の時、京都に出て約8年間にわたって頼山陽に学び、その門下では四天王の一人に数えられるほどの秀才だった。山陽は常煕の才能を高く買い、儒学者になることを勧めたが「私は父祖からの家業の医者を継ぐのが使命です」と丁重に断った。その後、京都の医師・小石玄瑞から医学を学び、医業を継ぐために文政10年(1827)24歳の時に郷土の国分村に帰った。
 国分村での常煕は名医としての評判が近郷近在に広まり、門前には常煕の診察を求めて患者が列を成すほどだった。江戸時代末期の不安定な世の中となった折には「文教すたれて道義地に落ちる」と嘆いていた。

(写真は 国分本町)

 世の中を憂いた常煕は文政13年(1830)村内の有志の協力を得て立教館を建て、地元青少年の教化に大きく貢献した。生徒が増えて学舎が狭くなったので、文久3年(1863)国分村の有力者の協力を得て新学舎を建設した。この学舎は後に小学校の校舎として使われ、現在は柏原市旭ケ丘の玉手山学園のキャンパス内に移転、保存されている。堂々とした建物は当時としては異彩を放っていたと思われる。
 国分村は宿駅として栄えた所で、常煕の邸には名のある詩人や画家が多く来訪し、文雅の交遊を楽しんだと言う。優れた医師、教育者として故郷のために尽くした常煕は、市内の阿弥陀寺に眠っている。

阿弥陀寺

(写真は 阿弥陀寺)


 
高井田古墳群 放送 12月22日(木)
 柏原市中心部の大和川北岸の高井田横穴公園内にある高井田横穴群(国・史跡)は、凝灰岩の崖に羨道(せんどう)や玄室のある横穴を掘って死者を葬った古墳で、大正6年(1917)に発見された。その総数約200基で、6世紀中ごろから7世紀初めにかけて造られたと推定されている。
 この横穴群の中で羨道の壁に鋭い道具を使って描かれた線刻壁画がある。壁画は人物や唐草模様、花、木の葉、馬、鳥、船、家などで、その中でもゴンドラ形の船に乗った人物の壁画が有名である。また副葬品として刀や矢などの武器、金銀の耳飾り、首飾り、土器、農耕具などが出土している。

高井田横穴公園

(写真は 高井田横穴公園)

高井田山古墳

 公園内には直径22mの円墳の高井田山古墳がある。薄い板石を積み上げた近畿地方では最も古い横穴式石室を持ち、5世紀後半から5世紀末にかけて築造されたと見られている。
 副葬品から古代のアイロンと言われる青銅製の火熨斗(ひのし)が出土した。これは日本で2例目の出土品で、火皿に炭火を入れて使われたと見られている。ほかに純金製の耳飾り、ガラス玉を中心にガラス管に金箔を挟んだものなどで作られた首飾り、剣、槍、矛などの武器類や甲冑(かっちゅう)、神人龍虎画像鏡の銅鏡など多数が出土し、被葬者を推定する上で注目を集めた。

(写真は 高井田山古墳)

 これらの高井田横穴群や高井田古墳の被葬者はどのような人物であったかに興味が集まっている。出土品から朝鮮半島からの渡来系氏族が有力視されている。一方で鳥に網をかぶせたような壁画から、このあたりに住んでいた鳥を捕まえるのを職業としていた鳥取氏との説もある。
 高井田横穴公園は平成4年(1992)にオープンし、遊歩道沿いにある横穴群が自由に見学できる。高井田古墳も内部が見えるように透明の屋根をかけ、石室内には副葬品のレプリカを置いて出土時の様子を再現している。公園内にある柏原市立歴史資料館には、横穴群や古墳から出土した副葬品や柏原の歴史を語る古文書、民俗資料などが展示されている。

火熨斗(古代のアイロン)

(写真は 火熨斗(古代のアイロン))


 
安福寺  放送 12月23日(金)
 柏原市南西部の玉手山中腹にある安福寺は、天平年間(729〜49)に行基が創建したと伝わる古刹。中世には荒廃していたのを、江戸時代前期の寛文年間(1661〜73)に、浄土宗の珂憶(かおく)上人によって再興された。尾張徳川家2代藩主・光友が珂憶の学徳を慕って帰依し、安福寺の再建に力を貸した。その後も尾張徳川家は安福寺に毎年金を贈り支援した。こうしたことから本堂の裏山には、光友の廟所があり、中央に光友、その左に夫人、右に嫡子の墓碑が建っている。
 この時に建立された本堂は、大風や地震に耐えるように屋根を低くして太い柱で支えた「珂憶建」と呼ばれる様式で、建築史上では貴重な存在とされている。

本尊 阿弥陀如来像

(写真は 本尊 阿弥陀如来像)

尾張徳川家二代藩主 光友 廟所

 安福寺参道脇にある32基の横穴群は、凝灰岩をくり抜いて造った6〜7世紀の墓で、大阪府文化財に指定されている。これらの横穴群は3つのタイプに大別できる。Aタイプは6世紀後期に造られたもので、ほぼ正方形の玄室となっている。Bタイプは6世紀末期に造られ、縦長の長方形の玄室である。Cタイプは7世紀初めの造られたもので、A、Bタイプより長さ、幅とも小さく、玄室は円形のような形をしている。
 この安福寺横穴群のひとつの羨道(せんどう)の壁に騎馬像と2人の男子立像の線刻壁画が描かれている。騎馬像は冠をつけ、たずなを持ち、男子像の一人は羽飾りの帽子をかぶり、もう一人は冠をつけ、長い袖の服を着ている。これらは朝鮮半島の高句麗の古墳壁画の人物とよく似ていると言われている。

(写真は 尾張徳川家二代藩主 光友 廟所)

 大阪府下で横穴と言えば高井田横穴群と安福寺横穴群しかなく、貴重な遺跡と言える。高井田横穴群は大正6年(1917)に発見されたが、安福寺横穴群は江戸時代からよく知られていた。江戸時代後期の享和元年(1801)に刊行された「河内名所図会」の「安福寺門前」に塚穴20余個ありと記され、絵にも「ホラ穴」と書かれ、横穴のある場所が記されている。また江戸時代初期の延宝7年(1679)に刊行された「河内名所鑑(かがみ)」にも玉手山安福寺に塚穴20余ありと記されている。
 また、線刻壁画は高井田横穴群にも描かれているが、安福寺横穴群の線刻壁画の方が描法の水準が高いと言われ、高松塚古墳の100年ほど前に造られたこの横穴の線刻壁画は、後の極彩色古墳壁画へ思いを馳せさせる。

安福寺横穴古墳群

(写真は 安福寺横穴古墳群)


◇あ    し◇
大和川亀の瀬JR関西線河内堅上駅下車徒歩10分。 
三田家住宅JR関西線柏原駅、近鉄道明寺線柏原駅下車
徒歩5分。
近鉄大阪線堅下駅下車徒歩10分。
大和川付け替記念碑近鉄道明寺線柏原南口駅下車徒歩5分。 
立教館(関西女子短大内)近鉄大阪線大阪教育大前駅下車徒歩10分。 
阿弥陀寺近鉄大阪線河内国分駅下車徒歩15分。 
高井田横穴公園
(高井田横穴古墳群、高井田古墳、柏原市立歴史資料館)
JR関西線高井田駅下車徒歩5分。
近鉄大阪線河内国分駅下車徒歩15分。
安福寺、安福寺横穴古墳群近鉄南大阪線道明寺駅下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
柏原市教委社会教育文化課0729−72−1501 
柏原市立歴史資料館0729−76−3430 
安福寺0729−78−7023 

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