月〜金曜日 18時54分〜19時00分


福井・南越前町 

 昨年1月に南条町、今庄町、河野村が合併して誕生した南越前町。内陸部の旧南条町や旧今庄町は、昨年暮から積もった大雪にすっぽり覆われた中で新年を迎えた。今回は宿場町、交通の要所として栄えた旧今庄町と北前船の拠点だった旧河野村を訪ねた。


 
今庄宿  放送 1月9日(月)
 南越前町の山間部に位置する今庄は、京都や江戸から峠越えの北陸道、北国街道で北陸へ入る玄関口で、明治29年(1896)に北陸線の鉄道が開通するまでは、交通の要所として越前で最も繁栄した宿場町。
 古代から都との往来が盛んだった海岸回りの最古の北陸官道の山中峠は、万葉集にも詠まれている。平安時代初期の天長7年(830)に開通し、山中峠越より距離が短くなり西近江路と呼ばれ、古代から中世の官道の北陸道の木ノ芽峠。戦国時代に柴田勝家によって改修され、東近江路と呼ばれた北国街道の栃ノ木峠。一方、福井方面から今庄に入ってくる湯尾峠。これらの峠はいずれも今庄で合流しており、難所の峠越えをした旅人たちは、みんな今庄宿で一泊した。

今庄宿

(写真は 今庄宿)

京藤甚五郎家

 今庄宿は平安時代には紫式部、鎌倉時代には道元や親鸞が通り、南北朝時代には新田義貞、戦国時代には織田信長、羽柴秀吉らの軍勢が通過した。江戸時代には参勤交代の大名が本陣で宿泊、俳聖・芭蕉も通った。江戸時代後期の天保年間
(1830〜44)の記録によれば、今庄宿の約1kmの街道沿いには55軒の旅籠(はたご)と15件の茶屋などがあったと記されている。
 今も当時の宿場町の面影を残す町並でひと際目を引くのが、塗籠(ぬりごめ)の外壁と赤みの強い越前瓦の屋根に卯建(うだつ)の上がる立派な屋敷の京藤(きょうとう)甚五郎家である。

(写真は 京藤甚五郎家)

 京藤家は天保年間に建てられた脇本陣格の建物で、幕末に攘夷を唱えて京へ向かった水戸天狗党が、乱闘の時に柱につけた刀傷が今も生々しく残っている。卯建は江戸時代には裕福な家でなければ、上げられなかったので「うだつがあがらぬ」との言葉が生まれた。外壁を塗籠にしたのは火事の時に延焼を防ぐためで、卯建も延焼防止の役目を果たしている。
 一般的に町家は敷地いっぱいに家を建てるが、京藤家では主屋の左に前庭を作り、奥に座敷を配した本陣形式をとっている。2階正面の壁は全面に虫籠格子(むしここうし)を取り入れ、窓と壁面の差をなくするデザインとするなど、随所に凝った造作を施し、高級な材料を使い質の高い仕上げになっている。

水戸天狗党の刀傷

(写真は 水戸天狗党の刀傷)


 
今庄宿の味わい  放送 1月10日(火)
 宿場町として栄えた南越前町今庄は良質の水に恵まれ酒造りが盛んで、赤煉瓦の酒蔵を持つ江戸時代から続く造酒屋が今も4軒あり、おいしい地酒が楽しめる。また、参勤交代の折の本陣で藩主が宿泊した際に供していたと言われる今庄名物の梅肉や梅加工品を商う老舗もあり、お茶請けやご飯、パンに乗せて食べるとおいしい。
 そうした中で今庄の一番の名物と言えるのが越前そば。今庄には何軒ものそば屋があり、地元の人や旅行客でにぎわっている。今庄そばのおいしさを多くの人たちに知ってもらおうと町直営の「今庄・そば道場」もある。今回は名優の宇野重吉さんがごひいきだった店「ふる里」を訪れ、そば打ちからじっくり見せてもらい、打ちたて、ゆでたてのおいしい越前そばを味わった。

蕎麦 ふる里

(写真は 蕎麦 ふる里)

そば打ち

 今庄特産のそばは慶長6年(1601)府中(現越前市武生)領主として着任した本多富正が、荒れ地の作物として農家にそばの栽培を勧めたことに始まる。さらに城下の医師と相談、大根おろしの汁で食べる方法を工夫したとも言われ、以来400年の歴史を持つ越前そばの本場としてその味のよさを誇ってきた。
 今庄そばと言えばピリッと辛い大根おろしを添えたおろしそばが主流。昔は大根おろしの汁をしぼり、その汁と醤油をそばにかけて食べるのが通のおいしいそばの味わい方だった。ほかに大根おろしをそのままそばに乗せ、タレをかけて食べたり、あるいはタレと大根おろしを混ぜ合わせそばにかけて食べたり、これにカツオ節をかけたりするなど、おろしそばには定型がなくいろいろな食べ方があるようだ。

(写真は そば打ち)

 明治21年(1888)敦賀湾の海岸寄りに現在の国道8号が開通してから江戸時代に栄えた今庄宿は寂れたが、明治29年(1896)鉄道の北陸線が開通して再び活気を取り戻した。今庄と敦賀間の急勾配を上り下りする列車は、今庄駅で機関車を代えたり増結するため、すべての列車が今庄駅で5分以上停車した。この停車時間に駅では立ち食いそばなどがよく売れ、今庄そばの名を全国に広めた。こうして「宿場町今庄」は「国鉄の今庄」となったが、昭和37年(1962)の新北陸トンネルの開通で、この今庄駅の立ち食いそばも昔物語になってしまった。
 だが、越前そばの発祥地・今庄では、成人病の予防に必要な栄養成分が効率よく摂取できることもあって、よくそばを打ち、素朴な味を楽しんでいる家庭が多い。

おろしそば

(写真は おろしそば)


 
慈眼寺  放送 1月11日(水)
 南越前町を流れる日野川の支流、田倉川上流の小倉谷の古刹、曹洞宗の慈眼(じげん)寺は、南北朝時代の嘉慶元年(1387)天真自性(てんしんじしょう)禅師が創建した寺で、本尊は十一面観世音菩薩像。
 天真禅師はこの深山の地で、長年子弟を薫陶、幾多の名僧を輩出した。弟子たちは諸国で曹洞宗の教えを広め、慈眼寺の末寺を開き、その数は
1200余寺を数えた時もあった。慈眼寺は天真派の根本道場として栄え、盛時には七堂伽藍を備え、塔頭17寺がある大寺であった。しかし、二度にわたる火災をこうむって、七堂伽藍や古記録のほとんどが焼失し、今は「越藩古禅林」の額がかかる苔むした山門が昔日の面影をしのばせている。

慈眼寺

(写真は 慈眼寺)

本尊 十一面観世音菩薩

 天真禅師は現在の奥州の地方官吏の子として生まれた。42歳の時、戦場に出て敵と刃を交えた際、飛び散る火花の見て、争いの無意味さを悟り、越前・府中(現越前市武生)の龍泉寺で出家して修行を積んだ。修行の旅を重ねていたところ、修行の寺を建てる地を見つけた。地面を掘っていたら地中から金色の観音像が出てきたので、これを本尊として慈眼寺を建立した。
 慈眼寺は永平寺を中心に福井と滋賀、京都での道元禅師を慕う寺を集めた「釈迦三十二禅刹」のひとつ。現世利益、後生安楽を祈るのではなく、道元の教えに学んで生きた仏教を体験しようと言うのが釈迦三十二禅刹の会。この会では32禅刹を参拝すると朱印に代えて禅語がいただける。ちなみに慈眼寺の禅語は「本源自在天真仏」。

(写真は 本尊 十一面観世音菩薩)

 慈眼寺には二つの伝説が伝わっている。そのひとつは境内の池に嫉妬深い女が夜叉になって住みついていたが、天真自性禅師がお経を授けて仏教の教えを説いたところ、夜叉は解脱して山奥の夜叉ヶ池に移り住んだ。その後寺で夜叉がお参りするような大法要を行うと雨が降ったことから、この地方では旱魃になると慈眼寺の住職が、夜叉ヶ池で雨乞いの祈祷をしたと言う。
 もうひとつは継子をいじめていた継母が、実の子には生豆、継子にはいり豆を与え、畑にまいてくるように言った。いり豆の中に一粒の生豆があり、それが豆の大木に育ち、大量の豆が実った。この不思議な出来事で継母は改心し、豆の木で搗臼(つきうす)を作ってこの地の月叟(げっそう)寺に奉納した。この臼が今は慈眼寺に伝わっている。豆の木の枝では太鼓の胴を作り近江の寺に寄進したと伝わっている。

本源自性天真佛

(写真は 本源自性天真佛)


 
北前船主の館・右近家  放送 1月12日(木)
 越前海岸の南端、敦賀湾の入口に位置する南越前町河野地区は、江戸時代から明治時代中期にかけて北前船の拠点のひとつとして栄えた地域だった。北前船とは大坂と蝦夷地(北海道)を日本海廻りで結び、各港で商いをした廻船のことで、各地との物資の流通と文化の交流に大きな役割を果たした。
 当主が代々権左衛門を名乗ってきた右近家は、幕末には日本海5大船主のひとりとして隆盛を極めた北前船主で、最盛期には八幡丸など30数隻の船を所有していた。右近家の邸宅は背後に山が迫った狭い土地に建てられ、かつては敷地内を村道が通っていた。道を挟んで山側には主屋、土蔵3棟、茶室などがあり、海側には海に向かって開く長屋門、土蔵4棟がある。

北前船主の館・右近家

(写真は 北前船主の館・右近家)

船箪笥の懸硯(かけすずり)

 主屋は明治34年(1901)に建て替えられた切妻造瓦葺き2階建。内部のケヤキやヒノキの建築材は北前船が産地から直接運んできたもので、上方風の豪勢なたたずまいの中に繊細な造作が施されている。海に向かって開く門は、海への敬虔な心を表す北前船主の河野独特の構えと言う。
 右近家の邸宅は旧河野村に管理が委ねられ、平成2年(1990)北前船をテーマとする資料館としてオープンした。資料館には、右近家の持ち船だった「八幡丸」の模型や航海用具の和磁石、遠眼鏡、貴重品を保管しておく船箪笥(ふなたんす)、印半纏(しるしばんてん)や商取引に使われた印鑑、道中秤(どうちゅうはかり)などの道具類が展示されている。

(写真は 船箪笥の懸硯(かけすずり))

 北前船主の館・右近家のある河野、今泉蒲地区は、昔から国府のあった武生〜河野・今泉浦〜敦賀〜京都を結ぶ海陸交通の要衝として栄えてきた。早くから廻船業が盛んで、住民たちは漁民より廻船への乗組員が多った。
 明治時代中ごろに蒸気船が登場して北前船も衰退していったが、右近家ではいち早く蒸気船を導入して近代船主へと脱皮した。また、海運業と関係の深い海上保険業への進出を図り、同業の北前船主と共同で明治29年(1896)に日本海上保険株式会社(現日本興亜損害保険株式会社)を創立している。郷土の発展にも私財を投入して貢献しており、河野〜武生間の春日野新道の建設、宮の谷水道の建設、学校建設への寄付などがその一例である。

茶室

(写真は 茶室)


 
北前船主の館・西洋館  放送 1月13日(金)
 北前船主の館・右近家は、山が海の間近まで迫っている土地を有効利用するために、本宅背後の山の中腹にせり出すように2階建てスペイン風の西洋館を建てた庭園がある。
 設計者は明治時代に近江八幡市に来日し、近江八幡市をはじめ日本各地で洋風建築を手がけたウィリアム・メレル・ヴォリーズによるとも言われている。そのデザインの完成度は高く、材質も最高級なものが使われている。

西洋館

(写真は 西洋館)

スペイン産タイル

 建物の屋根を茶色のスペイン瓦で葺いたこの建物は、昭和8年(1933)に11代権左衛門が発注、2年後に完成した。鉄筋コンクリート造で、2階部分の外壁は北欧の校倉造風のヒノキ丸太積みでバルコニーも設けられ、内部は和洋折衷となっている。
 1階は暖炉のあるホールと寝室が中心で、ほかに厨房、洗面脱衣室、浴室などがある。暖炉の鉄材、タイルはスペイン産でその模様にはイスラムの影響が見られる。
2階はスイス・シャレー風の和洋折衷の和室となっている。2階へ続く階段はバロック様式で、踊り場のステンドグラスには右近家の船の旗印が描き出されている。

(写真は スペイン産タイル)

 背後の山は散策道が設けられた庭園になっており、庭園内の展望台からの眺めが素晴らしい。遠くは敦賀半島、若狭の青葉山、丹後半島の経ケ岬まで望め、日本海に沈む夕日は言葉には尽くせないほどの絶景だと言う。
 展望台のまわりには当時としては珍しい、自然の木に似せたコンクリート造の擬木が柵などに使われており、細かな部分にまで新しい技術が取り入れられている。

右近家旗印「イチゼンバシ」

(写真は 右近家旗印「イチゼンバシ」)


◇あ    し◇
今庄宿JR北陸線今庄駅下車。 
蕎麦・ふる里JR北陸線今庄駅下車徒歩5分。 
慈眼寺JR北陸線今庄駅から町営バスで小倉谷下車殿10分。
町営バスの運転本数は少なく、他はタクシー利用。
北前船主の館・右近家JR北陸線武生駅からバスで河野下車すぐ。 
但し1日の運転本数は3本。
◇問い合わせ先◇
南越前町役場商工観光課0778−47−8002 
今庄観光協会0778−45−0074 
蕎麦・ふる里0778−45−0805 
慈眼寺0778−45−2110 
河野観光協会0778−48−2240 
北前船主の館・右近家0778−48−2196 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

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