月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良市・奈良町あたり 

 奈良町は行政区画としての正式の町名ではなく、室町時代の徳政一揆で焼失した元興寺や、興福寺の子院の境内に町民が移り住んでできた商人の町。そこにはいろいろな商人が商いを行い、東大寺、興福寺、春日大社の門前町としてにぎわった。今も当時の面影と情緒を残す町家が軒を連ね観光客の人気を集めている。古い町家を活用した商店も現れ、古さと新しさが渾然一体となった奈良町独特の景観を創り出している。


 
元林院の華  放送 1月23日(月)
 猿沢池の西側、奈良市元林院町の地名は興福寺の別院・元林院に由来するが、ここは明治時代初めから大正、昭和時代にかけて花街としてにぎわった。明治5年(1872)ごろ花街が生まれ、数軒の芸者置屋があった。その後、花街として発展し、最盛期の大正時代末から昭和時代初めにかけて置屋も12軒に増え、芸妓も200人以上となり京都、大阪の花街にひけを取らないほどだった。
 戦後も花街としての盛況は続いたが、昭和40年代から娯楽の多様化と芸妓を呼んで遊ぶ旦那衆と呼ばれる人が少なくなり、芸者置屋が次々と廃業していった。現在、置屋は1軒となり、芸妓も十数人となってしまった。

元林院町

(写真は 元林院町)

絵屋橋

 元林院町の食事処「まんぎょく」の絹谷家は、元は「萬玉楼」と言う芸者置屋で、江戸、明治、大正とそれぞれの時代に建てられた3棟の主屋からなっている。中央の江戸時代の家は奈良市教委の調査で棟札が見つかり、寛保2年(1742)の建築と判明して、奈良町の中で最も古い町家のひとつであることが明らかになった。
 興福寺の別院・元林院は天文元年(1532)の天文一向一揆で焼失したあと再建されず、境内に町人が移り住んで元林院町を形成した。元林院町には絵師たちが多く住んでいたため別名「絵屋町」とも呼ばれ、その名残として元林院町の率川(いさがわ)の橋に「ゑやばし」と刻まれた欄干の石の親柱が残っている。

(写真は 絵屋橋)

 「まんぎょく」の当主・絹谷眞康さんは「元林院町の歴史が誤って伝えれている部分もあるので、正確な元林院町の歴史や生い立ち、花街の歴史、元林院町で遊んだ文化人たちの墨跡などを調べ後世に伝えたい」と言っている。
 今も料理旅館などが華やかだった当時のたたずまいを残している元林院町で、元林院の伝統を守ろうと日々芸に磨きをかけている芸妓のひとりが菊乃さん。菊乃さんが昭和13年(1938)以来途絶えていた春日大社節分万燈籠に合わせた舞を2006年、大社に奉納することになり、町おこしや伝統行事復活のきっかけになればと期待されている。

まんぎょく

(写真は まんぎょく)


 
悠久の色・朱  放送 1月24日(火)
 奈良町の南端に近い瓦堂町で町家の軒の上に「朱」の文字が浮き出た看板燈籠を掲げる古風な店が、朱墨や朱印など作っている朱の専門店・木下照僊堂(きのしたしょうせんどう)。奈良市内にはもう1軒朱墨を作っている店があるが、朱のすべての商品がそろっているのは全国で木下照僊堂だけである。
 朱は印判や書道の添削に用いられて馴染み深いが、朱色は太陽の色、めでたい色、幸運を呼び色などと言われ、東洋でも西洋でも古代から聖なるもの、魔除けの色とされてきた。神社の鳥居や社殿にも朱が塗られ、古くは古墳の石棺の内部に朱が敷き詰められたり塗られるなど、その用途は多方面にわたっていた。

木下照僊堂

(写真は 木下照僊堂)

朱墨

 西暦前の古代エジプトでは、天然に産する鉱物の辰砂(しんしゃ)が朱色の顔料として用いられていた。その後、6世紀末の中国・六朝時代に、人工的に水銀と硫黄を化合させて朱が生み出され、朱肉や顔料として使われた。水銀から作られる朱だが毒性はなく、その色は空気にさらされても変色、変質しない性質を備えている。
 日本では飛鳥時代の推古天皇の時代に朱が用いられ、貴族社会では金銀に次いで貴重なものとされていた。朱は権力者が独占的に使用しており、一般庶民は作ることも使用することも許されなかった。権力者の許可状に捺す印を朱印と言い「御朱印船」「御朱印地」などがその現れである。

(写真は 朱墨)

 現代では朱肉が一般的で、書道の添削には朱墨液が用いられている。最近は魔除けのご利益にあやかろうと小さな朱墨をお守りにしたり、朱肉を香炉の代わりに床の間に飾って縁起物としている人もいる。
 江戸時代に江戸と堺に朱座が設けられて朱の製造が始まった後、明治時代初めにようやく朱の使用が一般に許されるようになった。木下照僊堂はこの時の明治5年(1872)奈良で創業、以来130年以上も朱を練って朱墨、朱肉、朱墨液や青、緑、黄、朱、茶色の唐五彩彩墨を作り続けている。木下照僊堂の現当主・木下勝章さんは「全国に奈良の朱墨を求め、朱を愛する人がいる限り伝統の朱墨の灯は守り続けたい」と言っている。

朱肉

(写真は 朱肉)


 
奈良町新発見  放送 1月25日(水)
 元興寺の境内に町民が住みつき形成された奈良町の人気が最近高まりつつある。観光客の足も多く向くようになるにつれて、古い町家を改造したバラエティに富んだ店が増えてきた。
 奈良町は元は商人の町で、奈良晒(ならさらし)と呼ばれる麻織物、造酒屋、伝統工芸品などを商う奈良格子の町家が軒を連ねていた。こうした町家が今も数多く残っていて江戸時代の面影が残る奈良町の古き良きものを大切にしながら、21世紀の新しきものが奈良町に生まれはじめている。こうした奈良町独特の雰囲気が、観光客に新鮮に映るのかも知れない。

アジア民芸 サマサマ

(写真は アジア民芸 サマサマ)

御蕎麦 玄

 約200年前に麻糸問屋として建てられた家を改修して開いた「サマサマ」はアジア民芸雑貨店。店主の今木準子さん自らが、直接現地を訪れて買い付けてきた商品が店内に所狭しと並んでいる。ジャワ更紗や衣類、雑貨が並ぶ店内のエスニックな雰囲気と古い町家のミスマッチがまた楽しい。
 エスニック風な店はいくらでもあるが、古風な町家での雰囲気はなかなか創造できないものである。先祖が残した商家の利用価値に目をつけた店主の感性が、観光客らを店に引き寄せているのだろう。

(写真は 御蕎麦 玄)

 昭和時代初めの酒屋の離れを改修したのがそば処「玄」。そばの実を石臼で時間をかけて丁寧に挽き、つなぎなしで打たれたそばは香りと風味たっぷり。店主の島崎宏之さんは「そばの特性を引き出すには時間が必要。量とスピードを求めない」と言う。新そばは水にくぐらせて一気にすする。梅のたたきを乗せて食るもよし。そこへ白ワインを含ませるとまた違ったそばが味わえる。食べ方にも島崎さんのそばに対するこだわりが表れる。
 奈良町では懐かしい骨董、古着などに目がとまり、思わず足を止めてしまう店がそこここに。他に資料館などのミュージアムも多く、奈良町の散策には飽きがこない。

田舎蕎麦

(写真は 田舎蕎麦)


 
石仏龕の寺・十輪院  放送 1月26日(木)
 元興寺の旧境内地に住民が住みつき発展した奈良町の南東に建つのが奈良時代前半に開創された十輪院。奈良時代初期の元正天皇の勅願寺で、右大臣・吉備真備(きびのまきび)の長男・朝野宿禰魚養(あさのすくねなかい)が創建したと伝えられ、元興寺の子院であった。
 南門(国・重文)を入ると正面に低く緩やかに流れる優美な屋根を持つ本堂(国宝)がある。この本堂は他の寺院の本堂とは異なった特徴を持っており、本堂後方の石仏龕(せきぶつがん・国・重文)を拝むための礼堂(らいどう)として建立された。

石仏龕

(写真は 石仏龕)

引導石

 石仏龕は間口2.68m、奥行2.45m、高さ2.42mの花崗岩製の厨子で、正面奥の中央に本尊の地蔵菩薩像、その左右に釈迦如来像と弥勒菩薩僧が浮き彫りされている。回りには四天王や仁王、十王、不動明、聖観音の各像や五輪塔、梵字などが数多く刻まれ、極楽浄土を願う地蔵世界を具現している。
 また龕の上部、左右には北斗七星、九曜、十二宮、二十八宿の星座を梵字で陰刻して天災消除、息災延命を願う現世利益の信仰もみられる。本尊の地蔵菩薩像の前には死者の亡き骸や棺を安置する引導石が置かれている。この石仏龕は当時の南都仏教の教義をもとにした民間信仰の影響を受けて作られたものと見られている。

(写真は 引導石)

 本堂は正面に広縁を設け、屋根は垂木を用いずに厚板と特殊な組み物で軒を支える工法が採られ、低い屋根になっている。軒回りの蟇股(かえるまた)も美しいもので、床を低くした住宅風の建築様式は、平安時代中期の貴族の邸宅を思わせる優美な仏堂である。
 十輪院を建立した朝野宿禰魚養は、遣唐使として中国に滞在していた吉備真備と中国女性との間に生まれた子で、日本の父親に会わせるため母親が海に流したところ、魚に乗って難波の津にたどり着いたとの伝説を持った人物。奈良時代の名筆家で十輪院に大般若経を納めており、魚養塚が十輪院境内にある。

興福寺曼茶羅石

(写真は 興福寺曼茶羅石)


 
庚申信仰  放送 1月27日(金)
 奈良町でおなじみの光景が、古い町家の軒先に吊るされている赤い猿のぬいぐるみ「身代わり猿」。この身代わり猿は、奈良町の庚申堂に祀られている庚申さんを敬う庚申信仰のお守りである。
 悪病や災難をもたらすと言う三尸(さんし)の虫は、ふだんは人のお腹の中にいるが十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)が重なる60日に一度の庚申の日の夜、人が寝ている間に体から抜け出すといわれている。三尸の虫は天帝にその人の悪事を告げに行き、その報告よってその人の寿命が短くなると言われる。このため庚申の日には、三尸の虫が抜け出さないように寝ずに庚申さんの供養をしたり、三尸の虫が嫌いなコンニャクを食べたりする風習がある。

身代り申

(写真は 身代り申)

庚申堂

 庚申さんは1300年前、疫病が流行した時に現れて病魔をはらった青面金剛のことで、病魔退散の本尊とされる。庚申信仰は中国の道教の教えを汲むもので、仏教の極楽往生に対して現世利益がかなえられると庶民の間に根強い信仰が生まれ、あちこちに庚申さんを祀る庚申堂や庚申碑が建立された。
 奈良町の西新屋町の庚申堂には木造青面金剛立像が祀られている。毎年3月と11月に庚申祭が行われ、三尸の虫に見立てた大根を断ち切る「悪魔退散の儀式」や身代わり猿や護摩木の供養をしていたが、今は中止されている。 

(写真は 庚申堂)

 奈良町で蚊帳の行商をしていた祖先が集めた絵看板や紙幣、民具、仏像などの民俗資料を展示する奈良町資料館を、自宅を改造してオープンしているのが南治さん。展示物の中で約800点にのぼる絵看板は貴重な資料で、今は目にすることができないこれらの絵看板に目を見張る人が多い。
 南さんは庚申信仰の復活を願っており、資料館内には青面金剛像が祀られ、入口では身代わり猿が出迎えてくれる。中国・敦煌の石窟の祭壇の垂れ幕に、身代わり猿と同じものがあることがわかり、南館長らはシルクロードを通って奈良へやってきた身代わり猿にまつわる庚申信仰に強い関心を寄せている。

青面金剛像(奈良町資料館)

(写真は 青面金剛像(奈良町資料館))


◇あ    し◇
レストラン・まんぎく、
サマサマ(アジア民芸雑貨)、
玄(そば)、奈良町資料
近鉄奈良線奈良駅下車徒歩10分〜15分。
JR関西線奈良駅下車徒歩15分〜20分。
木下照僊堂(朱墨、朱印)近鉄奈良線奈良駅、JR関西線奈良駅から市内循環バスで
北京終町下車すぐ
十輪院近鉄奈良線奈良駅、JR関西線奈良駅から市内循環バスで
田中町下車徒歩3分。
近鉄奈良線奈良駅からバスで福智院下車徒歩3分。
◇問い合わせ先◇
レストラン・まんぎょく0742−22−2265 
木下照僊堂(朱墨、朱印)0742−22−2248 
サマサマ(アジア民芸雑貨)0742−27−2763 
玄(そば)0742−27−6868 
十輪院0742−26−6635 
奈良町資料館0742−22−5509 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

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