月〜金曜日 18時54分〜19時00分


田辺市 

 和歌山県紀南の中心都市のひとつ田辺市は、2005年5月、大塔村、中辺路町、本宮町、龍神村と合併、熊野灘から奈良県にいたる広域な市となった。新しく誕生した田辺市には南紀州の観光スポットのほかに熊野詣に関わる史跡や熊野王子跡が点在し、ブームの熊野古道歩きの人たちでにぎわっている。


 
弁慶ゆかりの地  放送 1月30日(月)
 紀伊田辺は武蔵坊弁慶の生まれ故郷で、JR紀伊田辺駅前には薙刀姿の弁慶像が観光客を出迎えるなど、田辺市内には弁慶ゆかりの史跡が多い。弁慶は800年前の平安時代末期に熊野別当・湛増(たんぞう)の子・鬼若としてこの地に生まれ育ったと伝えられている。
 田辺市内で弁慶に最もゆかりの深いのが、湛増・弁慶父子が闘鶏の様子を眺めている像が境内立つ闘鶏神社。源平が激しい戦いを繰り広げていた元暦元年(1184)源義経から「熊野水軍を味方に」と請われた湛増は迷った揚げ句、この神社で紅白それぞれ7羽の鶏を闘わせた。白い鶏が大勝したので、源氏への加勢を決めたと言う。

湛増・弁慶の像

(写真は 湛増・弁慶の像)

弁慶産湯の釜

 湛増は熊野水軍200艘の軍船と約2000人の大軍を擁して、屋島の合戦、壇ノ浦の合戦に参戦し源氏に大勝利をもたらした。湛増の源氏への加勢がその後の歴史と義経、弁慶の生涯を決定づけたとも言える。
 比叡山西塔で修行を積んでいた弁慶は、京の五条大橋で幼少時代の義経に出会い、戦いを挑んで敗れ終生家来として義経に尽くした。最後には兄・頼朝に追われた義経を守り、奥州・平泉の衣川の地で全身に矢を受けて立ち往生した。義経に従った弁慶の武勇伝は伝説的な部分も多いが、平家物語、義経記、源平盛衰記のほか、歌舞伎、芝居、映画などで紹介されてきた。

(写真は 弁慶産湯の釜)

 弁慶と深い関わりがあるとされる闘鶏神社には「弁慶産湯の釜」「湛増の鉄扇」「湛増の鉄烏帽子」「義経鍾愛の横笛」などが社宝として伝えられている。
 弁慶が幼少時代を過ごした湛増邸跡には現在の田辺第一小学校が建っている。そこにあった弁慶産湯の井戸は市役所前の駐車場へ移転して復元、小学校近くの八坂神社には弁慶が座った腰掛け石がある。主君のために立ち往生して壮絶な最期を遂げた弁慶のために植えられた弁慶松は枯死したため、その種子から育てた松が田辺市役所や岩手県平泉町の弁慶の森で育っている。扇を広げたような白砂青松の扇浜には「熊野水軍出陣之地」の石碑が立っている。

湛増の鉄鳥帽子

(写真は 湛増の鉄鳥帽子)


 
巨岩めぐり 放送 1月31日(火)
 田辺市の中心地から稲成川を上流へ遡ると、山間部の広大な斜面の木々の間から無数の岩肌が露出している奇石群の光景に出くわす。この奇石群はあたかもヒキガエルの大群が同一方向に並んで天を仰いでいるように見えるところから「ひき岩群」と呼ばれている。
 ひき岩郡の西端の岩穴には観音像が祀られ、お堂がしつらえられ岩屋観音と呼ばれている。
約800年前、那智の滝で修行を終えた文覚上人が、一夜の夢に霊感を覚え念持仏の聖観音像を大岩窟に祀ったのが始まりと伝えられている。

聖観世音菩薩像

(写真は 聖観世音菩薩像)

ひき岩群

 正式名称は観音密寺で厄除けの寺として信仰されてきた。歴代住職が長寿だったことから、岩屋観音に参詣すれば長寿が授かると言われ、長寿寺の別名もある。岩屋観音の裏山のひき岩群の一角には、約30分でひと巡りできる石仏を祀った新西国三十三番霊場がある。周辺の雄大な景色を眺めながら33体の石仏観音像に手を合わせる観音巡りができる。
 観音巡りの向かい側には和歌山県の天然記念物に指定されている奇岩、ヒキガエルが天を仰いでいる姿のひき岩群が一望できる。

(写真は ひき岩群)

 ひき岩の中には高さ45m、周囲20m、目の部分が70cmもある巨岩もあり、自然の造形力に感じ入らせられる。
 このひき岩群一帯は国民休養地となっており、その中心施設として自然公園センターがある。センターの展示室には田辺市の自然や植物、昆虫などの資料が、パネルや写真でわかりやすく紹介されている。周囲には遊歩道が整備され、絶好のハイキングコースとなっている。こうしたアウトドアの疲れを癒してくれるのが、田辺市内の割烹「ゑびす」の海の帝王とも言われるクエを使った九絵(くえ)鍋や九絵会席料理。

九絵鍋(割烹 ゑびす)

(写真は 九絵鍋(割烹 ゑびす))


 
高山寺  放送 2月1日(水)
 田辺市の市街地を一望する高台に建つ高山寺(こうざんじ)は、1300年以上の昔、聖徳太子の人格に心から傾倒し、仏教の教えに深く帰依していた牟婁の長者と呼ばれていた人物が、聖徳太子の意を受けて建立した勘修問寺を始まりとする古刹。江戸時代になって高山寺と改められた。
 弘法大師・空海がこの寺に留まり、仏教の教えを里人たちに説いたり、飲み水に困っていた里人のために、清水の湧く地を教えて井戸を掘らせたなどの伝承が残っている。大師がこの地を立ち去る時、別れを惜しむ里人たちのために自らの像を刻んで残した。

新薬師堂

(写真は 新薬師堂)

本尊 薬師如来像

 高山寺は戦国時代の天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めの兵火で焼失した。幸い聖徳太子像と弘法大師像は岩屋観音の洞窟に避難させて難を逃れた。2年後に高野山の高僧・空増が入山して、焼失した寺を再興した。空増を高山寺の中興開山第一世法印空増とし、以後歴代住職は第○世法印○○と称するようになった。
 高山寺にある多宝塔は江戸時代中期に寺を訪れた旅僧・阿凉(ありょう)が、第十世法印義澄に真言宗の根本的建物である多宝塔の建立を進言したことに始まる。阿涼自らも多宝塔建立のために托鉢行脚を続けたが、その完成を見ずに没した。阿凉没後、26年を経た文化13年(1816)に阿凉念願の多宝塔が完成した。

(写真は 本尊 薬師如来像)

 真言宗寺院の多宝塔には大日如来像を祀るのが通例だが、高山寺の多宝塔は聖徳太子像を祀り、その名も上宮閣と名付けられ、毎年4月10日に上宮太子大法会が行われる。本堂、多宝塔などと並んで平成12年(2000)に落成した平安時代中期の様式に則した新薬師堂がある。内部には本尊・薬師如来像を中心に浮き彫りの十二神将像が囲むように並び、明るさの中に厳かな雰囲気を醸し出している。
 境内には縄文時代早期の高山寺貝塚があり、赤褐色、鉢形で底の尖った「高山寺式土器」や数種の貝殻、獣骨、打製石器など多数の出土品が本堂地下の展示室に収められている。

高山寺式土器

(写真は 高山寺式土器)


 
百間山渓谷  放送 2月2日(木)
 田辺市と合併した旧大塔村は、1000m級の山々に囲まれ、地域のほとんどが山林と言う山村。村の中央部にそびえる標高999mの百間山の山麓から発する日置川の源流に沿い、約6kmにわたって深い原生林に覆われた百間山渓谷は南紀の秘境と呼ばれている。
 百間山渓谷の入り口近くには、天然記念物のニホンカモシカを自然飼育している「かもしか牧場」があり、現在3頭のカモシカが出迎えてくれる。この「かもしか牧場」は、ニホンカモシカの生態研究をするため特別許可を受けて自然飼育しており、最も多い時には10頭のニホンカモシカが飼育されていた。

かもしか牧場

(写真は かもしか牧場)

かやの滝

 百間山渓谷は奇岩や洞窟、大小の滝が連なる日置川随一の景勝地で、ハイキングコースも整備されており一般向きの2時間コース、健脚向きの4時間半コースがある。
 渓谷の中で最も美しい滝と言われているのが「榧(かや)の滝」。樹齢300年と推定されるカヤの大木が滝の上に覆いかぶさっていることからこの名がつけられた。滝壷の上部にふたをかぶせたように岩盤が覆いかぶさっている「ふたおい釜」のほかに「雨乞の滝」「地蔵滝」「犬落ちの滝」などがある。藤が自生している「藤の中島」など、数多くの滝や淵、景勝地が続きスリルを感じながら緑の空気が満喫できる。

(写真は かやの滝)

 百間山渓谷の北西にそびえる半作嶺(標高893)は、遠くから眺めると女性が仰むけに寝ているように見える秀麗な山で、乙女の寝顔とも呼ばれている。半作嶺の麓の地下1300mから湧き出ている温泉は、半作嶺の姿にちなんで「乙女の湯」と名つけられている山あいの温泉。
 アルカリ性単純温泉で日帰りの入浴施設があり、神経痛、胃腸病、痔疾、アレルギー疾患、湿疹、運動器障害、消化器疾患などに効くと言う。近くには三方を日置川に囲まれた大塔青少年旅行村があり、家族連れでキャンプなどが楽しめる。

富里温泉 乙女の湯

(写真は 富里温泉 乙女の湯)


 
熊野古道・中辺路  放送 2月3日(金)
 平安時代初め宇多法皇に始まった熊野御幸は、歴代の上皇、天皇や皇女、女院、貴族らが熊野詣を続け、鎌倉時代の亀山上皇まで約百回以上にわたる御幸が行われた。熊野信仰は武士や庶民にまで広がり、身分の上下を問わず多くの人びとが霊場を目指した。
 熊野詣の道のりは苦しみが大きいほどご利益も大きいとされ、多くの参詣者が願いをかなえてもらおうと、熊野の霊場を目指した様子は「アリの熊野詣」と言われるほどの繁栄ぶりだった。熊野詣のルートはいくつもあるが、田辺市から山中をたどる中辺路ルートが難路ながらも主要ルートで「御幸道」とも言われた。

和鏡(熊野古道館)

(写真は 和鏡(熊野古道館))

滝尻王子

 現世と熊野の神々が籠もる黄泉の国の境とされ、ここから熊野の霊域であると言う位置にあるのが熊野九十九王子の中でも社格の高い五体王子のひとつ「滝尻王子」。上皇をはじめ女院や貴族らは滝尻王子のそばを流れる富田川で水垢離(みずごり)をして身を清め、歌会や神楽、奉納相撲などを催した後、急峻な山道へと分け入って行った。
 後鳥羽上皇は3回目と4回目の熊野御幸の際、ここで歌会を催しその時の歌を記録した懐紙が熊野懐紙として残っており、滝尻王子境内には歌碑が立っている。

(写真は 滝尻王子)

 滝尻王子前の川を挟んで向かい側にある熊野古道館は、旧中辺路町の観光案内と熊野詣にまつわる歴史を紹介する施設として平成6年(1994)にオープンした。館内には熊野古道の歩き方や熊野懐紙の複製品、滝尻王子の所蔵品を展示しており、熊野古道に関する資料や中辺路の観光情報がいっぱい詰まった情報拠点となっている。
 2004年「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録されてからブームとなった熊野古道歩きは、ここ滝尻王子を起点とする人たちが多くなった。出発前に熊野古道館に立ち寄り、熊野古道に関する知識を頭に詰め込んでスタートする人も増えた。

高原霧の里

(写真は 高原霧の里)


◇あ    し◇
闘鶏神社JR紀勢線紀伊田辺駅下車徒歩8分。 
弁慶腰掛石、弁慶産湯井戸、
弁慶松、扇浜
JR紀勢線紀伊田辺駅下車徒歩10分。
岩屋観音JR紀勢線紀伊田辺駅からバスで大坊下車徒歩10分。
ひき岩群国民休養地
ふるさと自然公園センター
JR紀勢線紀伊田辺駅からバスで大西橋下車徒歩20分。
割烹ゑびす(九絵鍋)JR紀勢線紀伊田辺駅下車徒歩10分。 
高山寺JR紀勢線紀伊田辺駅からバスで市場前
又は切戸橋下車徒歩5分。
百間山渓谷JR紀勢線紀伊田辺駅からバスで百間山下車。
富里温泉・乙女の湯JR紀勢線紀伊田辺駅からバスで下川下下車徒歩5分。
滝尻王子、熊野古道館JR紀勢線紀伊田辺駅からバスで滝尻下車。 
◇問い合わせ先◇
和歌山県観光連盟073−422−4631 
田辺市観光協会0739−22−5544 
闘鶏神社0739−22−0155 
ひき岩群国民休養地
ふるさと自然センター
0739−25−7252
割烹・ゑびす0739−22−0886 
高山寺0739−22−0274 
百間渓谷、富里温泉・乙女の湯(大塔行政局)0739−48−0301
熊野古道館
(中辺路観光協会)
0739−64−1470 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「 A係 」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会