月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・寺町通 

 寺町通は北は鞍馬口から南は五条通までの約4.6kmを言う。平安時代のこの通りは貴族の邸宅が並ぶ高級住宅街だったが、豊臣秀吉が京都の都市改造を行った際に寺院がこの沿道に集められ寺院町に変貌した。現代は電器商店街も出現し、昔ながらの老舗やいろいろな職種の商店が並ぶ多彩な顔を持つ京都を代表する通りとなっている。


 
寺町通の変遷  放送 2月6日(月)
 鴨川の西の河原町通のさらに西を、北は鞍馬口から南は五条通まで南北に走るのが寺町通。天正18年(1590)豊臣秀吉が京都を治めるために都市改造を行った際にこの通りに寺院集めた。その数は80ヵ寺、さらにこれらの寺の塔頭を含めると、かなりの数の寺院がこの通りに集中し寺町通の名がつけられた。
 この通りは平安京へ遷都の際、幅33mの堂々たる東京極大路と言う大道として出現していた。沿道には貴族の邸宅や寺院が並ぶ平安京の高級住宅街であった。だが応仁元年から文明9年(1467〜77)まで続いた応仁・文明の乱で町は焼けて荒廃し、通りが川になっているような状態だった。

寺町三条上ル

(写真は 寺町三条上ル)

織田信長供養塔(本能寺)

 豊臣秀吉によって京都を代表するような大通りによみがえった寺町通には、寺院や京都御所などの御用達を務める商人や職人が店を並べ繁栄した。
 寺町通には多くの寺院が甍(いらか)連ねているが、知名度が最も高いのが本能寺。天正10年
(1582)織田信長が明智光秀に攻められ自刃した本能寺の変で有名となり、日本人なら知らない人はいない。元は別の場所にあったが、本能寺の変の
5年後に秀吉によって現在地に再建された。境内には信長の供養塔や本能寺の変の戦死者の碑が立っている。

(写真は 織田信長供養塔(本能寺))

 平安遷都後に奈良の矢田寺の別院として創建された矢田寺は、本尊の地蔵菩薩像が火焔の中に立つ珍しい姿のお地蔵さんとして知られている。京の人びとから地獄で亡者を救う地獄代受苦地蔵として篤い信仰を集めている。
 明治、大正時代には寺町通に路面電車の市電が走っており、祇園祭の鉾も寺町通を巡行していた。寺院の土塀が続き、京都御苑の緑が通る人の目を和らげてくれる現代の寺町通は、老舗商店のほかにギャラリー、繁華な商店街など実に多彩な顔を持ち、交通の便のよさも手伝って若者からお年寄りまで、多くに人たちがショッピングを兼ねながら歩く通りとなっている。

京極小学校

(写真は 京極小学校)


 
御用達の職人町  放送 2月7日(火)
 京都には平安遷都以来培われてきた伝統工芸の実にさまざまな種類の細工物、工芸の老舗が数多くあり、今も昔ながらの技を守り伝えている。寺町通には仏具、数珠、石塔、金属工芸、陶磁器、竹工芸、額看板、筆墨、茶道具など、こうした伝統工芸品を作ったり販売している店が目につく。
 いずれも寺町通にある寺のほか、京都市内の寺社と深い関わりを持っている。通りを歩きながら店先で伝統工芸の品を作る職人さんたちの手仕事ぶりが眺められる店が多く、こうした伝統の技にふれられるのも寺町通散策の醍醐味のひとつと言えそうだ。

寺町通

(写真は 寺町通)

翠簾 みす平

 寺町通の四条の南、時代の先端を行く電器店街の中にある「みす平」は、寛政年間(1789〜
1801)初期に創業した有職翠簾(みす)づくりの店。初代当主が京都御所のお抱え職人から独立して創業、現当主の前田平八さんは8代目。今も京都御所、八坂神社、北野天満宮などをはじめ、全国の有名な寺社の御用達を務めている。
 みすは本来は神や仏の世界と人間が住む下界を分ける役割を果たすものである。細く削った竹で編み、すだれの色、周囲を縁取った綾や緞子(どんす)などの色にもそれぞれの意味がある。「すみ平」はこうした伝統の有職みす作りを守り続けている。

(写真は 翠簾 みす平)

 仏教の各宗派の大本山をはじめ寺院の多い京都の町で目につくのが仏具店。寺が建ち並ぶ寺町通に仏具や数珠、石塔の店が多いのも当然と言える。
 その中で江戸時代中期の明和元年(1764)創業の珠数屋・中野伊助店がある。機械が発達した現代でも、数珠の玉をひとつずつ糸に通して仕上げる手作業は変わっていない。108個の玉からなる数珠の一玉、一玉が人間の108の煩悩を表し、持つ人の身を守るとされる。数珠は素材から形式、製造法まで経典に定められている法具で、日本で最古の数珠は、東大寺の正倉院に保存されているものだと言う。

珠数屋 中野伊助

(写真は 珠数屋 中野伊助)


 
京のモダン  放送 2月8日(水)
 多くの寺院や老舗の商店が軒を連ねる寺町通だが、明治時代から昭和時代初めにかけての洋風のモダンな建物も点在している。二条上ルの小林写真館や洋菓子の村上開新堂などがあり、京都市役所西向かいのオーダーメイドのテイラー加納洋服店は、商品の背広と同様に上品な3階建ての洋風建築である。
 大正8年(1919)創業の加納洋服店は、昭和時代初めにこの建物に移転してきた。創業当時からすべてオーダーメイドの洋服作りを続けており、店内の巨大な作業台、道具類は丁寧に使い込まれて風格がにじみ出ており、仕上がった服をかけるクローゼットにも格調がある。顧客も親子三代にわたると言う。

加納洋服店

(写真は 加納洋服店)

新島襄旧邸

 こうした商店と趣を異にするのが京都御苑の南端近くにたたずむ洋風民家の新島襄旧邸。同志社を創立した新島自身がアメリカ人宣教師の助言を受けながら設計、明治11年(1878)に竣工した数寄屋造りの木造2階建て。2階の外回りにはベランダを巡らし、アメリカの開拓時代を思わせるコロニアルスタイルとなっている。
 新島夫妻が暮らした当時のまま保存されており、1階は公的な場として使われ、応接間は教室、職員室、大学設立準備事務所などに利用されていた。書斎も当時のままで洋書がずらりと並んでおり、新島が愛用した椅子、机、ランプ、タンスが往時をしのばせる。2階は寝室などとなっている。

(写真は 新島襄旧邸)

 建物は洋風建築に属するものだが、畳敷きの部屋や箱階段、欄間など日本建築に見られる伝統的手法も取り入れ、和と洋の優れた趣をうまく調和させている。日本人が設計し、日本人の大工が日本人のために建てた明治時代初期の洋風住宅として貴重な遺構と言える。
 また邸内に残っている57点の家具類は、新島が世を去るまで11年間過ごした時に使っていたもので、この中の国産洋家具は、明治時代初期の家具技術を知る資料としての価値が高い。この新島襄旧邸は同志社大学が管理しており、無料で一般公開されている。

書斎

(写真は 書斎)


 
池波正太郎の散歩道  放送 2月9日(木)
 作家・池波正太郎(1923〜90)は、江戸・東京を愛したと同様に京都も愛していた。「京都に来て、ホテルからの行き帰りに、寺町通をえらんで歩くのが一つのくせになってしまった」と随筆に記しているように、寺町通は池波が好んで歩いた通りであった。
 「京都が切っても切れぬ縁になったのは、時代小説を書くようになってからだった」とも書き、何気なく通り過ごしてきた町筋に堪え難い愛着をおぼえるようになったようだ。池波の作品の登場人物の梅安、鬼平も京の町々を歩き、池波の追体験をしているようである。

尚学堂

(写真は 尚学堂)

京都サンボア

 狭い店内に古文書が無造作に積まれている古書店・尚学堂では、よく古地図や武鑑などを買い求め、時代小説に正確で詳しい考証を持たせた。現代の区分地図のような「江戸切絵図」や武家の姓名、紋所、知行高、居城、家来の姓名などを記載した「武鑑」は、歴史小説を書く作家にとっては必需品のようなものだった。
 食通で知られる池波は、京都で最古と言われる酒場の京都サンボアによく立ち寄った。「軽く一杯やってから飯を食べに行き、その帰りにまた、ちょいとサンボアへ立ち寄る。男だけが行く酒場である」と記している。京都での池波には気が置けない酒場のひとつで、水割りやオンザロックをよく飲んでいたようだ。

(写真は 京都サンボア)

 宿での酔いざましに洋菓子店・村上開新堂の冷えた「好事福廬(こうずふくろ)」を楽しんでいた。日本で最初に洋菓子店を東京で開いた村上開新堂の初代当主が、明治37年(1904)に京都で開いた店で、紀州ミカンをゼリー状にしたのが好事福廬。「京都の寒気に冷えきったゼリーが、酔いにかわいた口中へすべりこむときの旨さは、たとえようがなかった」と記している。
 また、村上開新堂は昭和10年(1935)に建てられた洋風の建物が、現在も変わらぬ姿を保ち、昔ながらの洋館の風情を残している。池波は「この店の構えのよさは、まったく、たまらない。立ちつくしていて飽きない」とも記している。

好事福盧(村上開新堂)

(写真は 好事福盧(村上開新堂))


 
西国三十三カ所第19番札所・
行願寺(革堂) 
放送 2月10日(金)
 いろいろな商品を扱う商店と並んで、寺町通に面する西国三十三カ所第19番札所の行願寺、別名革堂(こうどう)。西国霊場の中では間口が最も狭いかも知れないが、その歴史は1000年を超える。平安時代中期の寛弘2年(1005)一条天皇の勅願によって一条の地に行円上人が創建した天台宗の寺。
 行円上人は若いころは非常に激しい気性で常に狩猟を楽しんでいた。ある時、射止めた雌鹿が出産間近で、矢傷の苦しみの中で子鹿を出産し、産まれた子鹿をなめながら息絶えた。この光景を見て母鹿にわび、殺生の罪を悔い出家して仏門に入った。

都名所図会(京都市歴史資料館 蔵)

(写真は 都名所図会(京都市歴史資料館 蔵))

本尊十一面千手千眼観世音菩薩(お前立ち)

 そしてその母鹿の毛皮を衣にして身に着け、行脚しながら布教に努めたことから革聖(かわひじり)と尊ばれ、寺も革堂と呼ばれるようになった。行円上人が賀茂の社の巨木を願い下げてもらい刻んだのが、行願寺の本尊・十一面千手千眼観世音菩薩像である。秘仏となっており毎年1月17、18日に開扉され拝観することができる。
 宝物館には円行上人が身につけていた革衣や幽霊の絵馬が保存されている。江戸時代に革堂近くの質屋に子守りとして奉公していた少女が、革堂の御詠歌を子守り歌代わりにうたっていたのを法華経信者の主人にとがめられ、納屋に閉じ込められ凍死させられた。

(写真は 本尊十一面千手千眼観世音菩薩
(お前立ち))

 行方が分からない娘のために両親が革堂に祈願したところ、娘が亡霊となって現れて愛用の手鏡を渡した。殺されたことがわかった両親は娘の供養のため、絵馬に手鏡をはめ込んで奉納したとされるのが幽霊の絵馬だといわれている。
 行願寺は第2次世界大戦の戦中、戦後に荒廃したが、これを立派な寺に整えたのは、現住職で尼僧の中島湛海さん。昭和44年(1969)妙法院の三崎門跡から「革堂が荒れ、寺中に人が住みついている。あなたが行ってきれいにしてくれないか」と頼まれ、4年後には立派な革堂によみがえらせた。
 御詠歌は「はなをみて いまはのぞみも こうどうの にわのちぐさも さかりなるらん」。

本堂

(写真は 本堂)


◇あ    し◇
本能寺地下鉄東西線京都市役所前駅、京都市バス京都市役所前下車すぐ。
矢田寺地下鉄東西線京都市役所前駅下車徒歩2分。 
京都市バス河原町三条下車徒歩2分。
前田平八(みす)阪急京都線河原町駅、京都市バス四条河原町下車徒歩2分。
地下鉄烏丸線四条駅下車徒歩10分。
京阪電鉄四条駅下車徒歩5分。
中野伊助(数珠)京阪電鉄五条駅下車徒歩10分。 
地下鉄烏丸線四条駅下車徒歩15分。
京都市バス河原町松原下車徒歩2分。
加納洋服店地下鉄東西線京都市役所前駅、京都市バス京都市役所前すぐ。
京阪電鉄三条駅下車徒歩5分。
新島襄旧邸京都市バス河原町丸太町下車徒歩すぐ。 
京阪電鉄丸太町駅下車徒歩5分。
地下鉄烏丸線丸太町駅下車徒歩10分。
尚学堂(古書)地下鉄東西線京都市役所前駅、京都市バス京都市役所前下車3分。
村上開新堂(洋菓子)地下鉄東西線京都市役所前駅、京都市バス京都市役所前下車5分。
京都サンボア(バー)地下鉄東西線京都市役所前駅下車徒歩5分。 
阪急京都線河原町駅下車徒歩5分。
京都市バス河原町三条下車徒歩2分。
行願寺(革堂)京都市バス河原町丸太町下車すぐ。 
京阪電鉄丸太町駅下車徒歩5分。
地下鉄烏丸線丸太町駅下車徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
本能寺075−231−5335 
矢田寺075−241−3608 
中野伊助(数珠)075−351−0155 
前田平八(みす)075−351−2749 
加納洋服店075−231−1934 
新島襄旧邸
(同志社大学広報課)
075−251−3120 
尚学堂(古書)075−231−2764 
村上開新堂(洋菓子)075−231−1058 
京都サンボア(バー)075−221−2811 
行願寺(革堂)075−211−2770 

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