月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都・与謝野町 

 2006年3月1日与謝郡加悦町、岩滝町、野田川町が合併して与謝野町が誕生した。旧三町は丹後ちりめんの産地として知られているほか、古くから日本海文化が栄えた地方で、縄文、弥生時代の遺跡や古墳などが多い。今回はその中でも丹後と京都、大阪を結ぶ街道筋で、経済、文化の中心だった旧加悦町を訪ねた。


 
ふるさとの面影  放送 3月6日(月)
 新しく誕生した与謝野町の町名は、旧加悦町とのかかわりの深い著名な歌人・与謝野鉄幹・晶子夫妻と鉄幹の父・与謝野礼厳(れいごん)とのゆかりによって名づけられた。与謝の名を冠した俳人・与謝蕪村もこの地と深いかかわりを持っていた。
 旧加悦町は三方を山に囲まれ、野田川が北に向かって流れ天橋立の内海にそそいでいる。野田川の扇状地に広がる肥沃な大地が、旧加悦町に豊かな恵みを与え、経済、文化の中心地として栄え、今もその名残としてちりめん商家や多くの歌碑や句碑、古墳公園などがある。

野田川

(写真は 野田川)

与謝蕪村像(京都国立博物館 蔵)

 僧侶で歌人であった礼厳は加悦で生まれ青春時代を過ごした。幕末には勤皇活動に加わり各地を奔走、明治維新後は故郷の医療関係や産業振興に尽くした。明治時代に各地を奔走していた礼厳が久しぶりに故郷に帰ってきて詠んだ「見も聞きも 涙ぐまれて 帰るにも 心ぞ残る 与謝のふるさと」の歌の歌碑が、国道176号沿いの道の駅内にある。
 礼厳が遺した歌は3万首にもおよぶび、そのうち
630首を収めた「礼厳法師歌集」が鉄幹の手によって編さんされ、この中に故郷の与謝をしのんだ歌の多くがある。

(写真は 与謝蕪村像(京都国立博物館 蔵))

 鉄幹は父の手ほどきで幼いころから歌に親しみ、父の生地をわが故郷と懐かしんでいた。父の記念碑除幕のため加悦を訪れた折に「帰り来て 家は無けれど 与謝郡 ゆく方はみな ちちのふるさと」と詠んでいる。晶子も夫ともに加悦を訪れ「大江山 桜の山の 高松に 居隠るるほど 遠きなりけり」と詠んだ。
 与謝蕪村も少年時代に思いをはせ「夏河を 越すうれしさよ 手に草履」と詠み、その句碑が野田川親水公園内にある。こうした加悦町に関わる短歌、俳句の資料を保存、展示しているのが「江山文庫」。江山文庫の名は蕪村が友人に宛てた手紙に大江山のことを「江山」と称したことに由来している。

与謝蕪村句碑

(写真は 与謝蕪村句碑)


 
ちりめん街道  放送 3月7日(火)
 加悦は織田信長の命によって丹後を支配していた細川藤孝(幽斎)の重臣・有吉立信(たつのぶ)が、天正8年(1580)安良(やすら)山に安良城を築き、城下町と街道を整備した。だが、立信の死によってわずか3年で城下町の役割は終わり、その後は市場町へと転換していった。
 加悦の地は丹後半島のつけ根に位置していたことから、古くから丹後と京都、大阪を結ぶ交通の要衝として栄えていた。後に加悦が丹後ちりめんの産地として繁栄し、京、大阪を結ぶ街道が「ちりめん街道」と呼ばれるほどにぎわい、今日にその面影を伝えている。

旧加悦鉄道加悦駅舎

(写真は 旧加悦鉄道加悦駅舎)

杉本家住宅

 加悦は室町時代から「精好織(せいごうおり)」の産地だったが、江戸時代中期に加悦の木綿屋六右衛門が、手米屋小右衛門を京都・西陣へやり、ちりめん織の技術を学ばせた。享保7年(1722)ちりめんの技術が小右衛門によって伝えられると、加悦はちりめんの産地、京との物流の拠点として大いに発展した。
 それから44年後の明和3年(1766)には、加悦の町にちりめん織機が95台になったとの記録がある。今も加悦町は丹後ちりめんの主産地として機織の音が高く響いており、町内には明治時代に建てられたちりめん工場が、丹後地方で現存する唯一の明治時代の工場として残っている。

(写真は 杉本家住宅)

 「ちりめん街道」と呼ばれる旧街道筋は、明治時代から昭和時代初期にかけて、織屋のほかにランプ屋、化粧品屋、牛肉屋、呉服屋、料理旅館、人力車屋などさまざまな商店が軒を連ね、大変なにぎわいを見せていた。当時、但馬地方から加悦へ遠足で来た小学生が「ここは日本か」と驚いたと言う話が伝わっている。
 城下町の名残の直角に曲がる「まがり」を持つちりめん街道には、今も当時から伝わる手米屋小右衛門宅の杉本家などのちりめん商家や工場、洋館の医院、郵便局、鉄道駅舎、旧町役場などの建物が、虫籠窓(むしこまど)や格子戸などを備えた落ち着いたたたずまいで、旅人たちを迎えてくれる。

伊藤医院

(写真は 伊藤医院)


 
旧尾藤家住宅  放送 3月8日(水)
 ちりめん街道沿いには、加悦の町が丹後ちりめんの産地として繁栄した華やかなりしころの建物群が軒を連ねており、その中で中心的存在となっているのが旧尾藤家住宅である。
 その建物は近畿北部の大型農家の建物を基本として、そこへ生糸ちりめん商家としての要素を加えたもので、大商人の邸宅にふさわしいものである。さらに昭和初期、洋館が増築されて和と洋が敷地内で融合した建築物として評価され、平成14年(2002)京都府有形文化財に指定された。これを機に尾藤家から加悦町へ建物が寄贈され、加悦町が保存修復工事を行って平成16年(2004)から一般公開されている。

旧尾藤家住宅

(写真は 旧尾藤家住宅)

洋館

 尾藤家は戦国時代には武士であった文書が伝わっている。江戸時代初め加悦谷東の温江(あつえ)から加悦に移住し、17世紀末から18世紀にかけて大庄屋を務めていた。18世紀後半には代々庄蔵を名乗るようになり、7代庄蔵は庄屋を務めながら酒造業も手がけて、丹後へ測量に来た伊能忠敬にも面会している。
 このころの尾藤家は約1700平方m(520坪)屋敷を構え、70石を越える石高をあげる大庄屋に成長、江戸時代後期から大正時代初めまでちりめん商人として活躍して財をなした。昭和時代には11代庄蔵が加悦町長を務め、大きな被害を受けた丹後大震災の町の復興に尽力している。

(写真は 洋館)

 尾藤家邸宅は近隣の旧家の建物を買い取り、幕末の文久3年(1863)にその建築材を使って着工し、2年後に完成させ、その後も蔵や座敷などを増築している。各室ごとに趣の異なる天井、床の間、襖(ふすま)絵、障子、欄間など、その意匠や装飾の凝り方には目を見はらせられる。
 加悦町長も務めた11代庄蔵は、若いころから洋館建築に関心を抱き、横浜の商館群を見学したり、洋館建築に関する図書を購入して勉強している。
昭和3年(1928)に念願の洋館をを建て、椅子や机、ベッドなど調度、室内装粧品はすべて特注品で整えており、今も応接室には当時の応接セットが伝わっている。

洋館応接室

(写真は 洋館応接室)


 
加悦SL広場  放送 3月9日(木)
 鉄道ファンに取っては懐かしい民間鉄道が旧加悦町を走っていた。大正13年(1924)に国鉄宮津線の宮津駅〜丹後山田駅(現近畿タンゴ鉄道野田川駅)間に鉄道が開通したが、この鉄道は加悦町は通過しなかった。加悦の人たちは「町の発展のためには鉄道が必要」と自分たちで鉄道会社を設立し、大正15年(1926)宮津線の丹後山田駅から加悦駅まで全長5.7kmの小さな加悦鉄道を開通させた。
 昭和時代に入ってちりめん産業の好景気とニッケル鉱石採掘による鉱石の運搬などで、この加悦鉄道は大活躍し大いに活気づいた
2号機関車(明治6年イギリス製)

(写真は 2号機関車(明治6年イギリス製))

郵便車

 昭和2年(1927)の丹後大震災で加悦鉄道も大きな被害を受けたが、復旧作業を急ぎ震災被災地への復旧資材の運搬に活躍した。その後、蒸気機関車からディーゼルカーに変わるなどの変遷を経て、地元住民の足としてその使命を担ってきたが、自動車の普及で昭和60年(1985)加悦鉄道は営業を廃止し、60年におよぶ加悦鉄道の歴史に幕を下ろした。
 旧加悦鉄道を経営していたカヤ興産が、旧鉱山駅敷地に旧加悦駅舎を移転して復元、明治6年
(1873)にイギリスで製作され、開通時に走っていた2号蒸気機関車(国・重文)などを展示したSL広場をオープンさせた。

(写真は 郵便車)

 木造の旧加悦駅舎の改札を抜けるとSL広場。そこには日本で2番目に古い2号蒸気機関車や加悦鉄道で活躍した多くの蒸気機関車、ドイツ製の木造客車、郵便物を仕分ける棚のある郵便車、だるまストーブのある車掌室など、鉄道ファン垂涎の珍しい車両27両が展示されているほか、機関車の方向を変える転車台などがある。
 旧加悦駅舎内には当時の時刻表、ランプ、時計などが置かれて現役時代の雰囲気がそのまま。展示室には興味深い当時の鉄道用具がいっぱい並んでいる。旧鉱山駅舎では鉄道グッズを販売する店や客車風のカフェ、焼きたてパンの店などがあり、鉄道ファンのみならず家族連れで楽しめる広場となっている。

車掌車

(写真は 車掌車)


 
古墳公園 放送 3月10日(金)
 加悦の里は丹後でも古くから開け、縄文時代早期から弥生時代にかけての遺跡や640基におよぶ古墳が密集しており、古代日本海文化の中心であったと推定されている。
 発掘調査された蛭子山(えびすやま)古墳と作山(つくりやま)古墳5基を1600年前の姿に復元、整備したのが加悦町古墳公園。公園内にはこれらの復元古墳のほかに古代復元住居やはにわ資料館、映像館、300年前の民家を移築したいろり館、物産展示館などがある。この公園は古代への入り口であり、古代社会の暮らしを想像するタイムトリップに誘ってくれる。

丹後の首長墓(古墳時代前期)

(写真は 丹後の首長墓(古墳時代前期))

作山古墳

 古墳公園のメインは4世紀後半に築造された全長145mの大型前方後円墳の蛭子山古墳。この地方の大首長の墓と推定されており、昭和4年
(1929)に発掘調査されてその全貌が明らかになり、翌年に国の史跡に指定された。
 復元整備は発掘調査された調査結果に基づき、古墳の上に土をかぶせて遺構を保護し、築造当時の古墳の姿に正確に復元した。蛭子山古墳と谷ひとつ隔てたところにある作山古墳は、4世紀後半から5世紀前半にかけて築造された5基の前方後円墳、円墳、方墳の中型古墳群。この作山古墳も同じ手法で復元された。

(写真は 作山古墳)

 復元された作山古墳の1号墳、2号墳の墳頂部や古墳の周辺には円筒埴輪や土器の複製品が並べられ、当時の様子をほうふつとさせている。蛭子山古墳の後円部の上に立つと古墳の巨大さが実感でき、石室にあった石棺が展示されているのを見学できる。作山古墳の1号墳、墳頂部ではガラス越しに内部の石室が発掘した当時のままの姿で見ることができる。
 はにわ資料館は加悦一帯で出土した埴輪や土器類などの実物資料を展示しており、隣接の映像館では古墳の造り方の様子がアニメーションで見られる。古墳公園で築造当時の姿に復元された古墳を肌で実感し、さまざまな出土品を目にすることで、加悦の悠久の歴史を垣間見ることができる

はにわ資料館

(写真は はにわ資料館)


◇あ    し◇
江山文庫近畿タンゴ鉄道宮福線野田川駅からバスで加悦の里
下車徒歩3分。
ちりめん街道、
旧尾藤家住宅
近畿タンゴ鉄道宮福線野田川駅からバスで旧加悦役場
下車すぐ。
加悦SL広場近畿タンゴ鉄道宮福線野田川駅からバスでSL広場下車。
加悦古墳広場近畿タンゴ鉄道宮福線野田川駅からバスで旧加悦役場
下車徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
与謝野町教育委員会0772−43−1511 
加悦観光協会0772−43−0155 
江山文庫0772−43−2180 
旧尾藤家住宅
(ちりめん街道案内所)
0772−43−1166
加悦SL広場(カヤ興産)0772−42−3186 
加悦古墳広場0772−43−1992 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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歴史街道推進協議会