月〜金曜日 18時54分〜19時00分


野洲市、守山市 

 琵琶湖の南東の野洲市は平成16年(2004)10月に野洲町と中主町が合併して誕生した新しい市。近江富士の名で知られる三上山が有名で、古墳が多いことでも知られている。野洲市の西に隣接する守山市は、中山道の宿場町として栄えたところで、全国でもあまり例のないほたる条例を制定してほたるの保護に力を入れている。


 
近江富士(野洲市)  放送 5月29日(月)
 俵藤太(藤原秀郷)の大ムカデ退治伝説が残る標高432mの三上山は、円錐形をしたコニーデ型の美しい姿から近江富士と呼ばれ親しまれている。また、古代から「神のいます山・神奈備山(かんなびやま)」として敬い崇められてきた。
 この三上山を神体山として祀るのが麓の御上(みかみ)神社で、神話時代の孝霊天皇6年に三上山に降臨したとされる天照大神の孫。天之御影命(あめのみかげのみこと)を祀っている。頂上には神が宿るといわれる巨石の磐座(いわくら)があり、御上神社奥宮の小祠がある。

三上山(近江富士)

(写真は 三上山(近江富士))

拝殿

 御上神社の本殿は鎌倉時代に建立されたもので、屋根が神社造り、白壁の壁面は仏堂造り、格子窓や裏側の扉は御殿造りとなっている。この三様式が一体となった「御上造り」と言われる建築様式の建物で、国宝に指定されている。
 社伝によると奈良時代の養老2年(718)元正天皇の勅命によって藤原不比等が、現在地に社殿を造営したとある。境内にある現在の建物は鎌倉時代のもので、本殿、拝殿(国・重文)、楼門(国・重文)が南面してほぼ一直線上に並んでいる。ほかに摂社・若宮神社本殿、木造狛犬1対が国の重要文化財に指定されている。

(写真は 拝殿)

 祭神の天之御影命が降臨した6月18日には、毎年、神職と氏子らが三上山頂上に登り、神迎えの山上祭を行い、下山して本宮で神を迎える神事が行われる。中世以降は武神として崇敬を集め、木曽義仲、源頼朝、足利尊氏らの社領寄進などが続いた。
 富士山のような美しい山容と異なり、頂上付近は火山の跡を残す荒々しい岩が点在し、2つの峰がある。頂上からの眺めは素晴らしく、西には比叡山から比良山系の山並みが続き、その手前には琵琶湖の湖面が広がり、眼下には野洲川がゆったりと流れ、琵琶湖に注いでいる。

楼門

(写真は 楼門)


 
大岩山古墳群(野洲市)  放送 5月30日(火)
 3世紀末から7世紀初めにかけて築造された古墳が、国道8号沿いに点在する大岩山古墳群は国の史跡に指定されている。これらの古墳はこの地方に大きな勢力を持っていた豪族・安直(やすのあたい)氏の古墳ではないかと推測されている。
 大岩山古墳群の中の甲山、円山、天王山の3基の古墳がある一帯を桜生(さくらばさま)史跡公園として整備し、古墳を一般公開している。また、近くの銅鐸博物館の敷地内にある宮山2号墳も石室内に入って見学することができる。

宮山二号墳

(写真は 宮山二号墳)

大岩山銅鐸(複製)

 甲山古墳は6世紀中ごろに築造された直径30m、高さ8mの円墳で、横穴式石室の中には朱とベンガラで赤く塗られた家形石棺が置かれていた。平成7年(1995)の調査で、副葬品の中から日本最古の「金糸」が発見された。円山古墳は直径28m、高さ8mの円墳で、横穴式石室からは赤く塗られた家形石棺と組み合わせ式家形石棺が見つかった。天王山古墳は全長50mの前方後円墳。
 弥生時代の大岩山遺跡からは明治14年(1881)に14個、昭和37年(1962)に10個、計24個にのぼる大量の銅鐸が発見され「銅鐸のまち野洲町」として知られるようになった。

(写真は 大岩山銅鐸(複製))

 大岩山遺跡から出土した銅鐸の中に高さ134.7cm、重さ45.47kgと言う日本最大の銅鐸がある。これらの銅鐸を展示し、銅鐸の謎に迫り、銅鐸のルーツや銅鐸の変遷を映像や音で教えてくれるのが銅鐸博物館。銅鐸の持つ不思議な魅力や音色などの知識を身につけると「銅鐸博士」になった気分にひたれる。
 銅鐸博物館に隣接する「弥生の森歴史公園」には竪穴式住居、高床式倉庫、古代米を栽培する水田などが復元されており、弥生時代の生活が体験できる。公園内の工房では、まが玉作りや土器作り、土の銅鐸作り、土笛作りなどが有料で体験できる。但し土、日、祝日は予約が必要。

弥生の森歴史公園

(写真は 弥生の森歴史公園)


 
兵主大社(野洲市)  放送 5月31日(水)
 野洲町と合併した旧中主(ちゅうず)町にある兵主(ひょうず)大社は、「兵主十八郷」と称されたこの地の総氏神で、住民から篤い信仰を受けている。
 元来、中国の八神信仰に由来する兵主の神を渡来人が、但馬国を中心に全国各地に祀ったの始まり。全国に50社近くある兵主神社のうち延喜式神名帳に記載されているのは19社ある。その中でも野洲市の兵主大社は、大和国(現桜井市)の穴師坐兵主神社、壱岐国(現壱岐市)の兵主神社と並んで明神大社に列せられた神社である。毎年5月5日に末社18社から神輿、太鼓30数基が大社に集まる兵主祭は有名である。

兵主大社

(写真は 兵主大社)

随神像

 大社の歴史は古く、奈良時代初めの養老2年(718)に社殿が造立された。一説には祭神の八千矛神(やちほこのかみ)が大津市の日吉大社から亀に乗って琵琶湖を渡り、鹿に乗って現在地に来たと伝えられている。
 兵主を「つわものぬし」と読むことで、中世には武将たちの信仰を受け、源頼朝、足利尊氏がそれぞれ社殿などを造立、再建している。

(写真は 随神像)

 古社にふさわしく武具類などの社宝も多い。南北朝時代の鎧(よろい)の白絹包腹巻(しらぎぬつつみはらまき=国・重文)は、やや小型なので実戦用ではなく神事用に作られたものと見られている。ほかに黒漆皮巻太刀や矢を納める弓具の一種の皮箙(かわえびら=国・重要美術品)などある。
 本殿横に広がる樹木と水の豊かな庭園は、びっしりと苔に覆われていることから近江の苔寺とも言われている。最近の発掘調査で河原石の洲浜敷護岸や導水路、排水路などが見つかり、水の流れを利用した祭祀が行われていた庭園と見られている。

兵主神社庭園

(写真は 兵主神社庭園)


 
中山道・守山宿(守山市)  放送 6月1日(木)
 京から江戸へ向かう街道は草津で東海道と中山道に分かれ、その中山道の最初の宿場が守山で、江戸・日本橋からは67場番目の宿場になる。朝、京を発つと夕方に守山に着くので、守山宿は「京発ち、守山泊まり」として旅人たちに知られていた。歌川(安藤)広重も守山宿を「木曽海道六十九次」に描いている。
 中山道は徳川家康が定めた五街道のひとつで、初めは中仙道となっていたが、元からあった東山道を修復したものだったことから中山道となった。別に木曽街道、木曽海道、木曽路などと呼ばれている。

東門院守山寺

(写真は 東門院守山寺)

石造宝塔

 今も守山市の町角には宿場町のころの道標がそのまま残され、古い町屋がたたずむ街道筋では、振り分け荷物の旅人がすぐ前を歩いてるような錯覚にとらわれる。街道沿いに東門院守山寺がある。
 延暦7年(788)伝教大師・最澄が比叡山延暦寺を建立した際、延暦寺の四門のひとつである東方の鬼門を守るために創建された。延暦13年(794)に桓武天皇が御幸して「比叡山を守り給う寺」と言われたと伝えられることから、東門院守山寺と名づけられた。

(写真は 石造宝塔)

 本尊の十一面観世音菩薩像(国・重文)は、弘仁元年(810)琵琶湖に毎夜光るものがあるので、村人が網を投げ入れて引き上げたところ観音像だったので、東門院守山寺の本尊として安置されたとの伝えがある。京都・清水寺の観音像と同じ一木から造られたとも言われている。
 不動堂本尊の不動明王座像(国・重文)は、近江では最大、全国でも十指に入る大きなものである。境内には石造五重塔(国・重文)や石造宝塔、石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)など、鎌倉時代石造物が多い。

不動明王像

(写真は 不動明王像)


 
湖南の仏たち(守山市)  放送 6月2日(金)
 守山市の南東端にある東福寺は、平安時代末期の仁安年間(1166〜69)に後白河法皇がこの地に来て病にかかり、比叡山の阿闍梨が七仏薬師に祈祷したところ速やかに平癒したので、後白河法皇が堂宇を建立して薬師像を祀ったことに始まり、当時は仁安寺と称していた。
 本尊の薬師瑠璃如来像(国・重文)は平安時代末期の作で、ふっくらとした穏やかな顔となで肩の体つきで親しみやすい観音様である。脇侍の菩薩形立像、薬師如来形座像の3体の仏像は、滋賀県の文化財に指定されているが傷みがひどい。菩薩形立像は日光、または月光菩薩像ではないかと言われている。

本尊 薬師瑠璃如来像(東福寺)

(写真は 本尊 薬師瑠璃如来像(東福寺))

秘仏 十一面観世音菩薩像

 琵琶湖に架かる琵琶湖大橋近いところにある福林寺は、伝教大師・最澄が延暦寺の根本中堂建立の用材を甲賀の山に求めた際に、三上山の麓に瑞光を見てそこで得た霊木で十一面観音像を刻み安置したのが福林寺の開創と言われている。また桓武天皇勅願の寺と言われ、旧野洲郡下で最古の寺でもある。
 最盛期には七堂伽藍を備え、国家安泰、庶民豊楽の祈願道場として貴人から庶民まで幅広い信仰を集めていた。戦国時代の兵火で諸堂を焼かれ、本尊は村人たちが何とか運び出し、現在地に本堂を再建した。旧福林寺跡は史跡として保存されている。

(写真は 秘仏 十一面観世音菩薩像)

 最澄自刻と伝わる本尊の十一面観音像(国・重文)は秘仏となっている。普通の観音像は腰をやや左にひねっているが、福林寺の観音様は腰をやや右にひねり、左足を浮かせて歩いているような姿が非常に特徴的で、毎年11月に1日だけ開扉され、拝観することができる。
 昭和54年(1979)に琵琶湖から漁師が引き上げ、福林寺に安置された石造不動明王像は、いつしか「水掛け不動」と呼ばれて信仰を集めている。境内には鎌倉時代の武将・佐々木高綱が、宇治川の合戦に向かう折、父母の菩提を弔うために建立したと言う石造宝塔がある。

石造宝塔(福林寺)

(写真は 石造宝塔(福林寺))


◇あ    し◇
三上山頂上JR東海道線野洲駅からバスで山出前下車徒歩40分〜1時間。
御上神社JR東海道線野洲駅からバスで御上神社下車徒歩5分。
桜生史跡公園
(大岩山古墳群)
JR東海道線野洲駅からバスで辻町下車徒歩8分。
銅鐸博物館
(野洲市歴史民族博物館)
JR東海道線野洲駅からバスで銅鐸博物館前下車徒歩すぐ。
兵主神社JR東海道線野洲駅からバスで兵主大社前下車徒歩5分。
東門院守山寺JR東海道線守山駅下車徒歩10分。 
東福寺JR東海道線守山駅下車徒歩15分。 
福林寺JR東海道線守山駅からバスで木浜口下車徒歩3分。
◇問い合わせ先◇
野洲市商工観光課077−589−6316 
野洲市教委文化財保護課077−589−6436 
野洲市観光案内所077−587−3710 
守山市観光協会077−582−1131 
御上神社077−587−0383 
桜生史跡公園
(大岩山古墳群)
077−587−4234
銅鐸博物館
(野洲市歴史民族博物館)
077−587−4410
兵主神社077−589−2072 
東門院守山寺077−582−2193 
福林寺077−587−1205 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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