月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪市・平野郷 

 大阪市南東の平野区のJR関西線平野駅から地下鉄谷町線平野駅にかけての1キロ四方の一角は、かつては平野郷と呼ばれ、自治都市を形成していた。都市化が進み昔の面影が失われて行く中で、旧平野郷の町の良さを残そうと住民たちが「町ぐるみ博物館」運動を起こし、自宅や職場を開放したミニ博物館を提供、町を訪れる人たちとのコミュニケーションの場にしている。


 
町屋の情趣  放送 6月12日(月)
 大阪市最南東の平野郷、現在の平野区。その地名は平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂の次男・広野麻呂が嵯峨天皇からこの地を賜り一帯を開発した。広野麻呂の屋敷のあった地が「広野」と呼ばれ、それが転化して「平野」となったと伝わる。
 戦国時代は堺と並ぶ自治都市で、自衛と潅漑、洪水調整池として集落の周りを濠を巡らした環濠集落だった。今もJR平野駅から南の地下鉄谷町線平野駅にかけての旧平野郷には、自治都市として栄えた環濠集落の遺構の濠や土居の一部が残っている。

外観

(写真は 外観)

内部

 環濠集落の自治都市として平和な日々を送っていた平野郷も、豊臣と徳川が激しく争った大坂の陣では、このあたりが軍事拠点となり、両陣営が激しい争奪戦を繰り広げて町はほとんど焼失してしまった。
 江戸時代に入って徳川家康が、この町を支配していた坂上家の子孫に町割りを命じ、碁盤の目状に区画された町が復興した。以後は元禄年間(1688〜1704)まで徳川幕府の直轄地となり、海外貿易を中心とした商業の町として栄えた。第二次世界大戦の戦火を浴びることもなく、江戸時代初期のままの町割りの中に、江戸時代の町屋が何軒か残っている。

(写真は 内部)

 そのひとつが代々農業を営んできた今野家住宅で、この地域で進めている「町ぐるみ博物館」の「町家博物館・今野家」として見学者が訪れている。
 今から150〜160年ほど前の江戸時代後期に建てられた典型的な茅葺きの農家建築。間口が狭くて「ウナギの寝床」と言われる敷地に建つ建物は、玄関から土間に沿った部屋の奥の中庭があり、さらにその奥に離れ座敷がある。土蔵や井戸なども残っており、古い民家がどんどん建て替えられる大阪市内では、江戸時代の茅葺き農家として貴重な遺構となっている。

中庭

(写真は 中庭)


 
商い発展の証  放送 6月13日(火)
 平野郷は元は杭全(くまた)郷と呼ばれ、この地方を支配していた豪族・杭全氏の所領であった。平安時代初期に坂上田村麻呂の次男・広野麻呂が領主となり、この地を治め平野郷と呼ばれるようになり、大阪でも最も早く開けた地域だった。
戦国時代には町の周囲に濠と土居を巡らし、町民の代表たちによって運営される自治都市であった。
 江戸時代には坂上家の子孫がルソン(フィリッピン)、シャム(タイ)、トンキン(ベトナム)まで進出する海外貿易を始めるなど、堺と同様に商人の町として発展していた。

平野環濠跡

(写真は 平野環濠跡)

平野郷民俗資料館・阪井家

 また平野郷は河内木綿の集散地として栄え、明治時代の紡績工場が長屋に変身したりしている。こうした商人の町で江戸時代の元禄年間(1688〜1704)から明治時代まで、約300年間両替商を営んでいた阪井家住宅が「町ぐるみ博物館」の「平野郷民俗資料館・阪井家」として公開されている。
 阪井家は平野郷で町年寄、戸長などを務めてきた旧家で、資料館内には両替商の商売道具のそろばんや天秤、環濠跡がわかる古地図、杭全神社で興行した大阪相撲の番付表などの民俗資料や民具などが展示されている。

(写真は 平野郷民俗資料館・阪井家)

 かつては関東では金、関西では銀が用いられ、銭は全国共通と言った具合で、いわば3種の通貨があってその両替には天秤が使われていた。今ではなかなか目に入らない両替用の「銭さし百文」が、帯封をつけたままの未使用状態で展示されている。銭さしとは穴のある1文銭などの穴に通して使うひものこと。
 館長の13代目当主・阪井明さんのコレクション・古伊万里も展示されており、この古伊万里を目当てに訪れる人もいる。蔵にはまだ未公開の品がたくさんあり、3カ月ごとに展示替えをしながら順次公開するとのこと。資料館の入り口の軒先にぶら下がっているガス灯がこの資料館に風情を添えている。

古伊万里

(写真は 古伊万里)


 
杭全神社  放送 6月14日(水)
 平野郷の各町からだんじりが出る勇壮な夏祭りで名高い杭全(くまた)神社は、平安時代初めの貞観4年(862)に坂上平野麻呂の子・当道が素戔嗚尊(すさのおのみこと)を第1殿に氏神として祀ったのが始まりと言う古社。
 鎌倉時代初めの建久元年(1190)には熊野権現を勧進して第3殿に祀り、さらに後醍醐天皇の勅命で伊弉諾尊を第2殿に祀った。これら3殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、坂上家の一族が神職を努めるなど神社の管理、運営に当たっている。

大くすの木

(写真は 大くすの木)

社殿

 古い歴史の神社にふさわしく、広大で静かな境内地を持つ杭全神社境内が「鎮守の森博物館」となっている。神聖な場所として守られてきただけに多くの古木、大木が緑濃い森を形成している。
 その中でも一番の大木は境内入り口のすぐ左にある樹齢800年とも1000年とも言われる大クスノキ。大阪府の天然記念物に指定されているこのクスノキは高さ30m、周囲10m、四方に枝葉をいっぱいに伸ばしたその大きさのみならず、樹霊も感じさせる存在感に圧倒される。

(写真は 社殿)

 大クスノキに匹敵するのが、樹齢約500年の「垂乳根(たらちね)の銀杏(いちょう)」。この巨樹に願いをかけると、母乳の出がよくなったり、乳房の病が治ると言われている。境内の樹木が予想外に成長したため、社殿の屋根の一部を切り取って木の生長を助けたところなどは、鎮守の森博物館の心優しい気配りがうかがえる。
 博物館と言えば展示物を陳列ケースに入れたり、手の届かぬところに展示するのが普通だが、鎮守の森博物館は太陽の光を浴び、雨風にさらされながら四季折々に変化する展示物の木々を目の当たりにできると言う、博物館の既成概念を打ち破った発想にも驚かされる。

鎮守の森博物館

(写真は 鎮守の森博物館)


 
色あせない記憶  放送 6月15日(木)
 明治42年(1909)創業の和菓子店の店内が展示場となっているのが「和菓子屋さん博物館・梅月堂」。緻密な彫刻が施された菓子の型をとる木型、饅頭に押す焼き印など、代々受け継がれてきた和菓子作りの道具が店内いっぱいに展示されている。
 綿の生産地だった平野に因む「わたのさと」、杭全神社由来の「笈掛(おいかけ)の松」、秀吉が醍醐の花見に用いたと言う平野酒を使った「平野酒饅頭」など、平野郷の言い伝えに因んだ創作和菓子を作り商っている。

梅月堂(和菓子屋さん博物館)

(写真は 梅月堂(和菓子屋さん博物館))

染と織・まつや

 約150年前に建てられと言う建物の「染と織・まつや」は、店内に呉服の反物が並ぶれっきとした呉服と染物の店に違いないが、もうひとつの顔がカメラや8ミリ撮影機などの映像機器がずらりと並ぶ「平野映像資料館」。
 店主の松村長二郎さんは、これまでに数多くの賞を受賞しているセミプロ映像作家ともいえる人で、40年以上も前から写真と8ミリフィルムで平野の町の風物や行事を撮り続けている。その写真と映像は貴重な資料であり、同時に松村さん自身が平野の歴史の語り部である。

(写真は 染と織・まつや)

 5歳の時に父に買ってもらった「活動幻灯機」との出会いが、松村さんを映像の世界へのめり込ませた。8ミリ撮影機を手に入れてからは、移り変わる平野の町を撮り続けてきた。今はビデオの時代になってしまったが、貴重な映像が記録されたフィルムや映写機、カメラはなお健在。松村さんを映像の世界へ引き込んだ活動幻灯機は、世界でも現存しているのは少ないと言われている。
 平野映像資料館の開館日にちっちゃなスクリーンに映し出される懐かしい光景は、マニアにとってはたまらないものであろう。

活動幻灯機(平野映像資料館)

(写真は 活動幻灯機(平野映像資料館))


 
みんなの遊び場・全興寺  放送 6月16日(金)
 平野郷がまだ原野だったころ、聖徳太子が薬師堂を建立して薬師如来像を安置したのが全興寺(せんこうじ)の始まりで、その薬師堂を中心に人が住み始め町に発展したのが平野郷だと伝わっている。
 全興寺はやがてこの地を治めていた坂上家の帰依を受け、現在の本堂は坂上家によって天正4年(1576)再建された。大坂の陣の時、一部を焼失して再建されているが、大阪府下では古い木造建築のひとつにあげられている。杭全(くまた)神社の奥の院と仰がれ、7月14日の夏祭りには杭全神社から神輿の渡御がある。

小さな駄菓子屋さん博物館

(写真は 小さな駄菓子屋さん博物館)

地獄堂

 全興寺の境内の一角に「小さな駄菓子屋さん博物館」がある。昭和20〜30年代に町の駄菓子屋さんに並んでいたけん玉やメンコ、日光写真、着せ替え人形など小さなおもちゃがギッシリと狭い館内に所狭しと展示されている。住職の川口良仁さんが趣味で集めていたものを中心に展示、町の人たちが私物を持ち寄りその数は500点にもなった。
 テレビゲームに慣れ親しんでいる現代っ子には新鮮なおもちゃに写り、目を輝かせて見入ったりさわっている。お父さんたちにとっては昔懐かしいおもちゃで、子供たちと一緒にワクワク気分のひとときを過ごしている。

(写真は 地獄堂)

 「小さな駄菓子屋さん博物館」の横のお堂は「地獄堂」と呼ばれる所で、恐ろしい形相の閻魔(えんま)様と鬼が待ちかまえている。ドラをたたくと閻魔様が浮かび上がり「悪いことをすると地獄に行くのだ〜」とお説教をする。この声に子供たちだけでなく、若いカップルの二人も神妙な表情で聞き入っていた。
 全興寺のすぐ隣の「おも路地」では、昔からの遊びや歌が大人から子供へと受け継がれている。ベーゴマ、おはじき、お手玉、まりつき、ゴム飛びなど、昭和時代初めから戦後にかけての遊びを子供たちが楽しんでいた。

おも路地

(写真は おも路地)


◇あ    し◇
町家博物館・今野家JR関西線平野駅下車徒歩10分。 
地下鉄谷町線平野駅下車徒歩15分。
平野郷民俗資料館・阪井家JR関西線平野駅下車徒歩10分。 
杭全神社・鎮守の森博物館JR関西線平野駅下車徒歩5分。 
和菓子屋さんの博物館・梅月堂地下鉄谷町線平野駅下車徒歩12分。 
平野映像資料館(染と織・まつや)JR関西線、地下鉄谷町線平野駅下車徒歩10分。
全興寺・小さな駄菓子屋さん博物館地下鉄谷町線平野駅下車徒歩12分。 
◇問い合わせ先◇
町家博物館・今野家06−6792−0055 
平野郷民俗資料館・阪井家06−6792−7372 
杭全神社06−6791−0208 
和菓子屋さんの博物館・梅月堂06−6791−3290 
平野映像資料館(染と織・まつや)06−6791−0720 
全興寺・小さな駄菓子屋さん博物館06−6791−2680 
この他にも多くの博物館、資料館が平野郷にある。
各博物館、資料館の開館日は原則として毎月第4日曜日だが、毎日開館している所もある。

◆歴史街道とは

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  「歴史文化を活かした地域づくり」

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